翌日。昨日の考え事には蓋をして、普段通り登校して教室のドアを開けると、ふいに青い糸が視界で大きく波打った。
「わっ」
「おおっとぉ!」
思わず出してしまった声に、誰かが驚いた。いや待て。この流れは……
「あ……」
「なーんだ、春見か。マジびっくりした。驚かすなよ」
まるでなにかのフラグが立ったかのように、私の想い人である高坂くんがすぐそこにいた。リアクションのわりには、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべている。
ドキッと高鳴りかけた心音を誤魔化すように、私は慌てて首を横に振る。
「いや、ごめん。驚かすつもりはなかったんだけど」
「えーうそだ~。春見、俺が教室から出ようとしたタイミングで『わっ』って声出しただろーに。完全に驚かすタイミングだったぞ」
「そ、それは……」
ぐうの音も出ない。青い糸が見えてない人からすれば、確かにそう見えるだろう。
「いや~意外と春見もお茶目なんだな。まぁおかげで目が覚めたわ」
「いや、その、違くて」
「あっ、やべ。顧問に呼ばれてたんだった。んじゃなー春見」
私が弁解する間もなく、高坂くんは小走りで行ってしまった。行き先を失った言葉が、ただのため息となって口から漏れる。
幸いにも、このやりとりは他のクラスメイトには見られていないようだった。仲の良いグループでお喋りしていたり、宿題を必死になってやっていたり、眠いのか机に突っ伏していたりしていた。もし変に注目されようものなら、あらぬ噂が立ってしまう可能性がある。それが高坂くんのことを好きな女子たちに伝わろうものなら、厄介なことこの上ない。本当に良かった。
「し~お~ん~! かもーん!」
するとそこへ、朗らかに私の名前を呼ぶ声がした。嫌な予感をしつつ目を向ける。
「美菜のやつ」
珍しく眼鏡をかけた中学からの悪友が意地悪な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振っていた。前言撤回。どうやら約一名、一番面倒くさいクラスメイトに見られていたらしい。私は軽く頭を押さえつつ、自席兼野次馬インタビュアー美菜の後ろの席についた。
「紫音~! なになに、いつの間に高坂と仲良くなってたの!?」
「いや、なってないし。ほんとたまたま出会い頭にぶつかりそうになっただけで」
「え~隠さなくたっていいのに~。つい驚かしたくなったとか、そんな感じなんでしょ?」
「ないない」
天地がひっくり返ってもあり得ない可能性に、私は苦笑する。そもそもつい驚かしたくなる時ってどんな時だ。
「でもほら、満更でもなさそうだったし。またやってみたら?」
「やらないってば。美菜みたいに付き合ってる人が相手ならともかく」
「え~、私は仲良かったらクラスメイト相手でも結構ふざけるけどなー。修二と別れてフリーになったし、これからはもっと容赦なくやりたい!」
「……え? 別れた?」
思わず訊き返していた。聞き間違いかと思った。
私の反応に、「そういえば」と今思い出したように美菜はぽんと手を叩く。
「ごめん、まだ言ってなかったね。じつは昨日家に帰ってから、修二と電話で話したんだ。そしたら、やっぱりもう私に気はないみたいで、あっさり別れることになっちゃった。ほんと、遠距離って難しい!」
「美菜……」
「あ、でも勘違いしないでね! 私、もう引きずってないから。新しい恋を探して頑張るから大丈夫だよ!」
美菜はふわりと笑った。
今日、美菜はいつもと違って眼鏡をかけている。最初は花粉が結構飛んでいるからだと思っていたが、どうやら目元がやや赤いのはべつの理由らしかった。
「美菜。昨日も言ったけど、美菜はぜったい幸せな恋愛できるよ。なにかあったら全力で協力するからね!」
美菜は私とは違う。
私は青い糸が実際に見えてしまうとはいえ、抗うわけでもなくそれを理由に恋から逃げている。かといってほかの恋に切り替えるわけでもない。
対して美菜は何度も青い糸で繋がれた相手と恋人になり、大小の差はあれど不幸に見舞われても前を向き、また新しい恋に向けて努力している。そんな美菜が、幸せになれないはずがない。
「うん、ありがと!」
美菜は変わらない満面の笑顔で返事をした。本当に、美菜には幸せになってほしい。
「でもね、それは私も同じだからね」
「え?」
友の幸せを願っていると、その友から思いがけない言葉が飛んできた。私の口から、間の抜けた声が漏れる。
「紫音っていつも私のこと元気づけてくれるし、応援もしてくれるけど、自分のことになると途端に遠慮し出すんだもん。私にも応援とか協力させてほしいの」
美菜の表情はやっぱり変わらず笑顔だけど、目はいつになく真剣だった。心から言ってくれてるのがわかった。
「うん、ありがと」
私は取り繕った笑顔を貼り付ける。ぎこちなくなっているのが見なくてもわかった。でも、今の私にはこれが精一杯だ。
美菜の言葉は素直に嬉しい。でも、私はどうしたらいいのかわからない。
美菜の協力で高坂くんと仲良くなってしまったり、万が一にも付き合うことになったりしようものならどんどん引き返せなくなる。きっと私の中にある恋心に囚われて、もっと先へと求めてしまう。けれどその先にあるのは幸せではなくて、いつ訪れるかわからない不幸と、そんな不幸への不安と、恐怖だ。
「……で! そんな紫音が好きな人を驚かせたくなったのはなんで!? なにかあったんでしょ!」
「もう、だからなにもないってば!」
急旋回して話題を戻す美菜に苦笑いを浮かべつつ、
私はぼんやりと先ほどの出来事を思い出していた。