瞳さんの家からの帰り道。
私は、瞳さんの言葉を口の中で転がしていた。
――紫音ちゃんはもうちょっと自分の気持ちにわがままになってもいいと思うよ。
心の中がモヤモヤとする。
――確かに青い糸のことは気をつけないとかもだけど、紫音ちゃんの青い春だって大切なんだからねー。
「はぁーーあ」
胸のなかに滞留するもやを吐き出すように、長く息をついた。
瞳さんがかけてくれた言葉は、私の心にはあまり響いていなかった。むしろ少しイラッとさえした。
「それができたら、苦労しないよ」
結ばれたら不幸になるとわかっているのに、素直になれるはずがない。自分の気持ちにわがままになれるはずがない。
私と青い糸で繋がれている男子、高坂実くんを初めて見た時は、正直少しホッとしていた。だって、どう足掻いても私なんかが釣り合うような人じゃなかったからだ。
短く切り揃えられた黒髪に、人懐っこそうな大きな瞳。鼻筋や輪郭はシュッとしていて身長も高く、いわゆるイケメンに入る男子だ。爽やかで柔らかな笑顔に惚れている女子も少なくない。学業成績も常に学年上位十名に食い込んでいるし、所属している陸上部ではエースだと聞いたことがある。確か、高校一年生にしてインターハイに出場していたはずだ。
しかも、完璧超人かと思えば、ちょっと抜けているところもある。古文の教科書と間違えて美術の教科書を持ってきたり、たまにちょこんと後ろ髪が跳ねていたりといった隙は、さらに彼の人気に拍車をかけていた。
対して私は、地味でコミュ力も仲の良い人とだけ打ち解ける程度の中途半端なパッとしない女子。美菜のおかげで昔よりも随分身だしなみは垢抜けたと思うが、キラキラしているスクールカースト上位の女の子たちを見ているとそんな僅かな自負もすぐに地に落ちる。成績も真ん中程度だし、部活にも入っていなければ誇れるような実績もない。ないないづくしの微妙ちゃんなのだ。
そんな私と高坂くんが横に並んで親しそうに笑っているシーンなんか想像できるはずもない。現実感がまるでない。だから、私と高坂くんは不幸の青い糸で繋がっているけれど、そもそも結ばれることのない人同士なので安心しきっていた。手が届かない高嶺の花に一目惚れするような性格でもなかったので、何事もなく終わるだろうと思っていた。
それが一転したのは、高校一年生の秋だった。
夏休みが明けてしばらくしたころ、私の両親は過去に類を見ないほどの大喧嘩をした。一時別居にまで発展し、離婚も時間の問題だと思うほどだった。
青い糸で繋がっていたのを見ているので、おおよそ予想していたことではあったけれど、やっぱり子供心にショックだった。そのころの私は学校でも家でも気丈に振る舞い、布団に入って寝る時の僅かな時間だけ素に戻ってこっそり泣くという生活をしていた。
心が疲れていた。疲れ切っていた。
ある日、なにかが切れたように、すべてのやる気が行方不明になった。授業に出るのも面倒くさく、私は初めて一限目を無断欠席した。誰もいない体育館横の階段に腰掛け、呆然と野花を眺めていた。
その時に、ふいに横に座ってきたのが、高坂くんだった。青い糸は、相手が近くにいると見えるようになるのだが、ぼんやりと地面を見つめていた時に唐突に青い糸が視界を横切ったのには驚いた。そしてハッと隣を見ると高坂くんが座っていたのだから、さらに驚いた。
「よう。春見、おはよ」
ほとんど話したこともなければクラスで目立ちもしない私の苗字を覚えていたことに、また驚く。私もあいさつを返さねばと口開いたけれど、なぜか言葉は出てこなかった。
「俺も寝坊しちまってさ。一限の数学、浜センだろ? 今から行っても怒られるだけだから、もうぶっちしようと思って」
秋風が彼の短い髪を揺らし、爽やかな笑顔がさらに引き立つ。心なしか、私の心臓の早さが増した気がした。
でも、私は高坂くんとただのクラスメイト以上に近づくつもりはない。だから、素っ気なく接しようと思った。
「べつに、私は寝坊したんじゃないけど」
「あれ、そうなのか。じゃあなんでここに?」
「まあ、なんとなく」
苦手な女子だなと思ってほしかった。そうして遠ざけてくれれば、私と彼が結ばれる可能性は万が一から億が一くらいにさらに下がるはずだ。
「そっか。じゃあ一緒になんとなくサボろうぜ」
それなのに、なぜか彼は私の隣に居続けた。
「なんで?」
「サボるにしても、ひとりだと寂しいじゃんか。サボり仲間ってことでいいだろ」
「べつに示し合わせてサボってるわけじゃないし。私はただ、なんかやる気が出なくてサボってるだけだし」
「そうなんだ」
彼の反応を見てハッとした。言わないつもりだったのに、つい口に出してしまっていた。
「今のは、違うから」
「違うってなにが?」
「理由……いや、なんでもない」
うまく言葉が出てこなかった。これ以上、彼の真っ直ぐな顔を見ていられなくて、目を逸らす。
「まあなんでもいいけど、どうせ今から一限出る気もないだろ? じゃあ俺のサボりに付き合ってくれよ」
「……」
無視をしてみても、彼は嫌味のひとつも言わなかった。ただなにも言わずに、私と同じようにぼんやり地面を見つめていた。
爽やかな風が吹いていた。
のどかでちょうどいい気候だった。
あんなに無気力で荒んでいた心が、少しだけ回復していた。
そこで、ぽたりと私の握り締めた手に水滴が落ちてきた。秋の空は変わりやすいという。雨かなと思って空を見ても、そこには透き通った青色しかなかった。
「ほら」
隣から、優しい声とともにハンカチが差し出された。
そこではたと気づいた。
私は、泣いていた。
たった一滴だけだった。声を出したわけでも、目元を拭ったわけでもなかった。
それなのに高坂くんは気づいて、なにも訊かずに、ただ柔らかな笑顔を浮かべてハンカチを貸してくれた。
きっとあの日から、私は高坂くんを好きになってしまった。
そんな気持ちを自覚してからは早かった。
彼のことを今まで以上に目で追うようになった。
彼の声に過敏に反応してしまうようになった。
彼の近くを通るたびに、友達の話が入ってこなくなって、心臓が情けない高鳴りをあげた。
彼と話す時は、平静を保つだけで精一杯だった。
それと同時に、心の中は言いようのないほど苦しくなった。
元々見込みのない恋だ。どれだけ頑張ってみても叶うことはないだろう。そして万が一に叶ったとしても、私は彼と恋人にはなれない。正確には、なるつもりはない。
だって……私と高坂くんは、不幸の青い糸で繋がっているのだから。高坂くんの人生を変えてしまうような不幸なんて、絶対に嫌だから。
「はぁーー……」
だったら、私のすることはひとつだ。
なにもしない。
現状を変える可能性のある行動はいっさいしない。
この恋心は胸に秘めて、本人は当然のこと誰にも言わずに高校を卒業する。そうすれば、すべてが万事解決だ。
だから、瞳さんの言っていることは受け入れられない。
青い春なんて、私には謳歌できない。
わがままになんて、なれるはずもない。
ふと、行きしなに見た絵のことを思い出す。
確か、『春心』だったか。
深くて広い青空に舞う、ふたひらの花びら。
春の訪れと恋を示す、まさに春の心。
「あーあ。いいなあー」
私も、心の底から恋をしてみたかった。
そんなことを、思ったりした。