一本遅れの電車に乗り込み、三駅分の車窓を眺め、さらに降車した駅から歩くこと数十分。私はどうにか瞳さんが住むアパートまで辿り着いた。高校は徒歩圏内にあるが瞳さんの家はそれなりに遠く、すっかりと日は暮れていた。
見れば、瞳さんの部屋からは煌々と明かりが漏れている。どうやら今日は部屋にいるらしく、私はホッと息をついた。軋む外階段を昇り、一番奥にある部屋の呼び鈴を押す。
「はいはーい。ただいま出ますよ~っと」
軽快な声が室内から聞こえ、一分としないうちに扉が開く。いつものように呑気でぽやんとした笑顔に迎えられ、私は促されるがまま部屋の中に……。
「……って、瞳さん! なにその格好!」
まだ部屋の外だというのに、思わず私は声を張り上げていた。慌てて瞳さんを部屋に押し込み、玄関戸を閉める。
これは仕方ない。だって今の瞳さんは、薄いタンクトップにパンツ一枚という出迎えには到底ありえない格好だったから。
「いや~ごめんごめん。ついうっかりしちゃって~」
「うっかりしちゃって~じゃないよ! もし私じゃなくて宅配便の人とかだったらどうするの!」
「もちろんその時も、うっかりしちゃって~って謝るよ」
「洒落になってないから! とりあえずほら、せめてTシャツ着て短パン履いて!」
「ほーい」
倍以上歳の違う子どもに怒鳴られるも、瞳さんはまるで気にした様子はなかった。のれんに腕押しといったふうに、変わらずぽわぽわとした笑みを浮かべている。このだらしなさに反して外科医としては若手ながらかなりの腕前らしいので、本当に人は見た目で判断できない。
そして服をとりに奥の部屋へ入ると、そこも期待に違わずしっかりと散らかっていた。
「瞳さん、私が前に来たのっていつだっけ?」
「んー、三十日前くらい?」
「桁がひとつ多いよ。三日前だよ、三日前!」
ソファや床はもちろんのこと、テレビの端にも衣服が引っかかっている。ローテーブルの上には化粧品が散らばっており、シンクにはおそらく三日分の食器が積み上がっていた。僅か三日でこの散らかりようはすごい。一種の才能とすら思えてくる。
「まずは掃除からだね。はい、瞳さんは服をこのカゴに集めて洗濯をお願い。私はゴミの分別と食器を洗うから」
「りょーかい。いや~紫音ちゃんが来てくれてほんと助かるよー。紫音ちゃんは将来いいお嫁さんになるわー」
「おばちゃんくさいよ。ていうか、私のことはいいとして、瞳さんはどうなの?」
あちこちに散乱したゴミをゴミ袋に入れながら私は尋ねる。瞳さんは確かにだらしないが、見た目はかなり綺麗な人だ。身長は高く、スタイルもいい。私生活を知らなければ、仕事のできる綺麗なお姉さんなのだ。男性ウケは良さそうな気がするが、一緒に夜ご飯を食べるようになったこの一年間、瞳さんの口から色恋についてはまったく聞いたことがない。
ちらりと目をやると、瞳さんは洗濯洗剤を片手に「ん~」と思案に暮れていた。
「そうねー、私はひとりのほうが気楽だからいいかなー。今のところは」
「ふーん。瞳さんは結婚したほうがシャンとしそうでいいと思うけど」
「だからこそなのよ」
ぽぽいっと雑に粉末洗剤を入れ、瞳さんは洗濯機のスイッチを押す。水が流れ出すさなか、私は横からサッと柔軟剤を投入した。
ここ三日間の近況も含めてあれやこれやと話しながら、瞳さんは部屋を片付け、私は夜ご飯の用意を進める。瞳さんの家でご飯を食べるときの役割分担もだいぶ慣れてきた。瞳さんはあまり料理をしないからか、キッチンの食器や調味料はすっかり私の使いやすい配置に収まっている。
家から持ってきたタッパーを開けると、そこには煮物や酢の物といった小鉢料理のほか、野菜炒めが入っていた。私は酢の物をお皿に盛り付け、煮物と野菜炒めはレンジで温める。すると、みるみるお腹のすく香ばしいにおいがしてきた。
そういえば、小さい頃はよくお母さんの野菜炒めをせがんでいたっけ。
なんてことはない思い出に少しばかり寂しく思っていると、隣にいた瞳さんのお腹がぐうと鳴った。
「いやー、さっすがお姉ちゃん。相変わらず料理上手だなー。私には到底真似できない。包丁よりメス握ってるほうがしっくりくるもんなー」
「え、なにそのパワーワード。瞳さんらしいといえばらしいけど、ちょっと怖い」
私のやや引いた反応に瞳さんはあけすけに笑う。
少しだけ心が軽くなったのを感じつつ、私たちは温かくなった料理をテーブルに運んで席についた。
「「いただきます」」
ひとりで食べる時にはしないあいさつを口にしてから、私たちは料理を食べ始めた。
やっぱり、誰かと食べるご飯は美味しい。
同じ煮物なのに、同じ野菜炒めなのに、こんなにも味が違う。当たり前といえば当たり前だけど、やっぱり不思議だ。
「そーいえば、紫音ちゃん今日から新学期だったよね。どう? 今年は大丈夫そう?」
酢の物をつつきながら、瞳さんが訊いてきた。
「うん、まぁ……」
私も酢の物に手を伸ばし、なるべくいつもの調子で答える。
「二年生のクラスじゃ私のも入れて五本見えた、かな」
私の返答に、瞳さんも調子を変えず「五本かあー」となんの気はなしに相槌を打った。
いつも、どこまで話そうかなと思う。
瞳さんは、私が不幸の青い糸なるものが見えることを知っている。いや正確には、不幸の青い糸が見えると言う私の言葉を信じてくれている。
幼いころ、青い糸が見えると初めて両親に言ったときは信じてもらえず病院に連れていかれたが、その前に瞳さんにも相談していた。瞳さんは私の言葉を最初から最後まで信じてくれた。けれど、外科医である瞳さんは専門外ということで、代わりに病院を紹介してくれたのだ。もっとも、その病院では小さい子どもの妄想癖という結論を出されてしまったんだけど。
ただそれ以降も、瞳さんは私のことを気にしてくれた。お盆やお正月に会うたびに体調や青い糸のことについて訊いてくれた。小学校高学年になり、自分の見ているものの異常さを自覚して青い糸なんて見えないと嘘をついても、瞳さんにはお見通しのようで変わらずに気にかけてくれた。
それから、私も瞳さんだけには青い糸のことについていろいろと相談するようになった。でも、詳しいことについてはあまり話していない。話しているのは、青い糸で繋がっている人が結ばれると不幸になるということ、その不幸は人生を左右するような大きなものになる可能性があるということ、両親も繋がっていること、そして私にも繋がっている人がいるということ。
瞳さんはいつも話を遮ることなく、最後まで真剣に聞いてくれている。さらには深刻になりすぎないよう、まるで日常会話の一部みたいなテンションで返事をしてくれる。今の相槌も、そのひとつだ。おかげで私は心に不安を溜め込みすぎることなく、毎日を送れていた。
ただそれでも、どうしても気は遣ってしまう。必要以上に心配はかけたくないし、ここまでくると私自身がこの能力とどう付き合っていくか次第な気がしているから。だから、瞳さんには私の話を適当に聞くだけにして、お母さんや他の先生にはなにも言わないでほしいとお願いしていた。カウンセリングや追加の検査はいらない。ただこうして私のことを考えてくれるだけで、私にとっては充分だった。
「五本ねー。そりゃまた多いね」
「うん、そうなの。ほんとうんざりしちゃう」
「去年大変だったって言ってたもんねー。紫音ちゃんも含めて、みんな平穏に過ごせたらいいんだけど」
「私は大丈夫だよ。見えてるんだから、そうならないよう回避するのだって簡単だし」
高坂くんの笑顔が脳裏にちらつく。けれど無視して、私は強がった。
「まあ確かに、そうかもしれないね」
瞳さんは頷き、煮物をひょいと口に入れた。私も真似るようにして、こんにゃくをつまむ。
「でも紫音ちゃん、その青い糸で繋がってる子のこと、好きなんじゃないの?」
「え?」
優しい口調での突然の指摘に、私の箸の先からこんにゃくが滑り落ちた。
「まあこれは、私の勝手な想像なんだけどねー。その青い糸が繋がる相手って、聞いてる感じだと恋仲に発展しやすい相手みたいだから。もしかしたら、紫音ちゃんもそうなのかなーって」
「そ、それは……」
さすが瞳さんだ。完全に見透かされている。瞳さんはさらに続けた。
「これは僅かな歳と煮物を食ったお姉さんのお節介なんだけど、紫音ちゃんはもうちょっと自分の気持ちにわがままになってもいいと思うよ。確かに青い糸のことは気をつけないとかもだけど、紫音ちゃんの青い春だって大切なんだからねー」
「瞳さん……」
瞳さんはそれ以上は続けず、パクリパクッと野菜炒めを口に放り込んだ。あんまり気にしすぎるなという、彼女なりのエールなんだろう。だから私も、思った言葉を投げる。
「瞳さん、キザだよ」
「むごっほぉ!?」
瞳さんは盛大にむせた。私は笑いながら、水を差し出す。
「うわーめっちゃキザだったなー」
「こら! 年上の綺麗なお姉さんを茶化すなー!」
「いやーここまで歳の差あるとお姉さんというより……」
「ああん?」
「あははっ。うそうそ、冗談だってばー」
昨日と違って、今日の食卓は彩りに溢れていた。