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第3話 佳作『春心』

 新学期初日は、早めに授業が終わった。

 始業式で校長先生のありがたいお話に耐え、その後は教室に戻って春休みの宿題を提出し、明日以降のスケジュールや配布物、委員決めなどをして授業は終了。いつもこうだったらいいのにね、と美菜と笑い合った。

 部活に行く美菜とわかれると、私はさっさと帰宅した。ちなみに、美菜はテニス部に入っている。今にして思えば、私もなにかしらの部活に入っていれば良かった。そうすれば、青い糸ばかりに悩まず気も紛れただろうに。かといって、高校二年生からでも始めたい得意なスポーツとかがあるわけでもないんだけど。


「ただいま~」


「あら、紫音。今日は早いのね」


 いつもよりやや陽が高い時間に玄関の扉を開けると、ちょうど出がけのお母さんとばったり会った。白ニットに薄いピンクのカーディガンという服装は、お母さんが仕事に出かける時によく着ているものだ。


「うん、初日だし。本格的な授業は明日からなの」


「そっか。高校二年生からはまた授業も難しくなるだろうし、大変だろうけど頑張んなさい。あ、そうだ! 紫音が頑張れるように、お弁当のおかず増やしてあげよっか? 紫音の好きなやつ」


「いいよ、べつに。太っちゃうから。それより、お母さん仕事大丈夫なの?」


「あ、いっけない! 電車ギリギリなんだった! じゃあ紫音、お母さん行くからあとはよろしくね!」


「うん」


 お母さんはバタバタと慌ただしくパンプスを履き、私と入れ違いに玄関から出て行く。どうやら今日は大丈夫みたいだと胸を撫で下ろそうとしたところへ、閉じかけていた扉が再び開いた。


「……あーっと、言い忘れるとこだった。今日は私もお父さんも遅いだろうから、夜は瞳のとこで食べてね。冷蔵庫にいつものタッパー入れてあるから」


「……うん。わかった」


 ほとんど私の目を見ずに要件だけを伝えて、今度こそお母さんは玄関の扉を閉めた。


「……またか」


 結局こうなるのか。

 静寂に満ちた玄関で、私はひとりため息をついた。



 *



 私服に着替え、タッパーを入れた保冷バッグと勉強道具を鞄にしまうと、私は早々に家を出た。


「あっつー」


 外はすっかりと春の陽気に満ちており、先週まで微かに残っていた冬の気配は微塵もない。時刻はとっくに午後四時を回っているが空は明るく、肌寒さもまったく感じられなかった。なんとなくコートを羽織ってきたが、どうやらいらなかったらしい。

 瞳さん、いるかなあ。

 瞳さんはお母さんの姉で、お医者さんをしている。今日は確かお休みで家にいるはずだが、外科で休日にも急きょ執刀医として呼ばれることが多々あるらしい。一応メッセージは飛ばしているが、瞳さんはほとんど見ないらしく今も未読だ。まあ、よく知った仲で合鍵も持っているのでいなかったら勝手にあがらせてもらうだけなのだが、やっぱりどうせなら一緒にご飯を食べてお話もしたい。

 おかずを持参し、瞳さんのところで時々ご飯を食べるようになったのは去年からだ。

 お母さんは、ズボラでだらしない瞳さんの食生活を正すためだとか、お母さんもお父さんも仕事で遅くなるからだとかいろいろ言っていたが、それは建前だと思っている。一度だけ瞳さんのところから早めに帰った時、家の中から言い合いをする両親の声が聞こえたからだ。その日はすぐには家に入らず、町内を少しぶらついてから帰宅した。そのころには、昂った二人の声はすっかり止んでいた。

 私の予想では、おおかた子どもに聞かせたくない話をするためだと考えている。特に最近は多いのだが、もうあまり気にしすぎないようにしている。私に聞かせたくない話なら、私にできることは聞かないようにするだけだ。

 そんな思索に悶々と耽っていると、いつの間にか駅に着いていた。陽もだいぶ傾いている。


「って、あれ」


 駅構内に入り、いつも通り改札をくぐろうとして、ふと傍らに立つ看板が目についた。電車の遅延なんかを知らせる看板だ。見れば、動物と電車が接触事故を起こしたらしい。なんとも田舎らしい事故だ。


「三十分遅れか~」


 微妙な時間だった。長いといえば長いが、駅を出て買い物なんかをするには時間が足りない。駅自体はべつに広くないし、小さなコンビニ以外お店はなにもない。SNSはさっきチェックしたばかりだし、一応英単語帳を持ってきているから、やりたくはないがこれを眺めているしか時間は潰せそうになかった。

 まあ仕方ないか。

 どこか隅のほうで適当にめくっていようと辺りを見渡すと、ふいに奥まったところにある特設コーナーに目が留まった。


「水彩画の展示?」


 そこにあったのは、どこかの団体が企画した水彩画コンクールの受賞作鑑賞コーナーだった。春の空をテーマに、描き手が独自の解釈で自由に表現した作品を審査し、その結果受賞した四作品が飾られていた。手前から順に、最優秀賞、審査員賞、優秀賞、佳作と並んでいる。プレートには作品名と講評が書かれているばかりで、水彩画そのものの評価を重視するコンクールの趣旨から、作者名や作者からのコメントなどはなかった。

 ずっと低空飛行気味だった心が湧き上がるのを感じた。

 私は絵を見るのが結構好きで、たまに美術館にも行っている。絵は写真と違って青い糸が見えないし、純粋に楽しめるからだ。かといって絵心は幼稚園児に勝るとも劣らない斬新さなので、自分で描こうとは思わない。見る専門だ。

 ちょっと見てみようかな。

 思いがけない出会いに、私は展示された水彩画を鑑賞することにした。幸いにも四枚の絵を味わうには十分な時間がある。災い転じてなんとやらだ。


「わぁ……すごい」


 最優秀賞、審査員賞と順に見ていくが、最優秀賞の技巧は明らかに群を抜いていた。夜明けの空を彩る淡紅色はじつに鮮やかで、そこに細雲や桜吹雪が緻密な線と濃淡で描かれている。見るもの全てを惹き込むかのような迫力は、まさに天才のそれだと思った。

 しかし、審査員賞も決して負けてはいない。なんといっても構図が大胆だ。春の空がテーマだというのに、肝心の空自体はほとんど描かれていない。その代わり、絵の下半分以上に広がる湖面に透き通った青空が映っている。微かな雪の舞う湖面内の空に、湖岸に光る残雪という対比も面白い。きっと、春の空が鏡のように湖面に映っていることから、反対の意味で捉えて冬の空を湖水に描いたのだろう。

 審査員の講評に書かれた感想も読みつつ感心して眺めていると、ふと足が一枚の絵の前で止まった。


「これ……」


 四枚かけられているうちの、一番右側。佳作の作品だった。

 光り輝く太陽に、澄み渡る青空と薄くたなびく細長い雲。単純な構図で少しムラはあるけれど大胆な色使いで描かれており、作者の勢いが見てとれる。

 なにより目を惹くのは、左下に描かれた青空に舞う二枚の桜の花弁だ。太陽や雲、青空と違い、こちらはすごく丁寧に描き込まれていた。きっと相当な時間をかけたんだろう。


「きれい……題は『春心』、か」


 なぜか心が惹かれた。

 確かに水彩画そのものの技巧では他の三作品とは比べようもなかった。ド素人の私では上手く言葉にできないが、プロとアマチュアにおける次元の差みたいなものがあると思った。

 けれど、私はこの絵が一番好きだった。

 深くて広い青空に舞い上がる、二枚の桜の花弁。

 いったいこれは、なにを表しているんだろう。

 講評に視線を落とすと、春の訪れと好色を示唆しての恋だろうかとあった。なるほど。もしそうなら、私がこの絵に心を奪われるのも無理はない。私の見える青も、この絵の青空のように澄み渡ったものであれば良かったのに。

 少しばかりの感傷を覚えたが、やはり絵については心の底から楽しめた。食い入るように『春心』を鑑賞し、堪能してから、私はその場を後にした。

 なお、三十分の予定が五十分も時間が過ぎていたのはご愛嬌だ。ぐすん。

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