その経験があって以来、私はずっと彼に憧れていた。
違う。「憧れ」という言葉に隠れた「恋心」だ。
この思い出は、誰にも言わず心の宝箱にしまっていた。言ってしまうとみんなが言いふらしてしまうとか、彼女たちを信用していない訳ではない。ただ、誰かに言ってしまうと色あせてしまう気がしたのだ。何度も見た映画のフィルムが擦り切れてしまう前に、ただ新品同様でずっと持っていたかった。
あぁ、それからもう一つ。何となく私だけの秘密にしていたかったからのもある。秘密という言葉に、この年頃の女の子は弱いのだ。
だが、結局、2人で話せたのはあの日以来1度もない。彼の周りにはいつも誰かしらがいることが多く、もしもこちらから声をかけようものなら、高校生ならではの囃し立てにあったり、万が一にでも噂になるのが怖かった。そもそも、自分にそんな勇気があるとも思えないが。
そして、この思いを抱えたまま彼は亡くなってしまった。あまりにもショックで、その気持ちも、思い出も、全てに蓋をして、すぐに思い出せなかったんだ。
彼の顔を見た時に、その蓋は音を立てて飛んでいく。
ずっと、この気持ちに蓋をしていたから、自分でも気づかない間に恋が怖くなっていたんだ。今ならわかる。この気持ちは、紛れもない恋だ。
学園祭に行ったり、疑似恋愛は出来たけど、やっぱり本当の恋は心臓の音がこんなにも違う。
長いReはいらないから、短くてもあなたの一言が欲しい。
二人で話せなくても良いから、せめてあれが最後の会話にならないでほしい。
もう、ただ眺めてるだけの関係で終わりたくはない。
それに気づくのに、これだけの時間を要してしまった自分が情けない。
とはいえ、数年越しに気がついたこの思いを知ったところで、この先どうすれば良いのだろうか。
中身はもう30近くの大人とは言え、恋愛面においてはまだまだひよっこなのだ。ただ私の心の中にあるのは、「もう二度とこんな過ちはしない」という重いだけ。
頭の中で何度考えても、ずっとマイナスなことばかりが思いついてしまう。
すると、みのりからメールが来た。
『今日の問3超イミフなんだけどどんな計算するのコレTT(笑)』
パコっと携帯を開いて内容を見てみると、どうやら課題に関する相談のメールのようだった。
「うわー。これどうやるんだっけ。多分この式を使って…あっ」
そこでふと思った。むしろもっと早くに気が付くべきだった。
そうだ。まずは、相談をすればいいんだ。
今の私には心強いアドバイザーたちがいる。
いや、違う。本当はあの頃からずっといた。
近くにいたのにずっと頼ることのできなかった過去の自分に別れを告げて、相談のメールに対する解き方を伝えたのだった。
次の日学校に行き、早速みんなに相談をしてみた。「話したいことがある」という重々しいスタートだったから、きっと周りも真剣な話なのだろ合うとくみ取ってくれた。
「あのさ…七瀬先輩って知ってる?」
「あー同じ電卓チームの?」
「イケメン先輩といつも一緒にいる人だ。」
「そう。」
「うちらは簿記だからあんまり接点ないけど、いい人そうだよね。」
取りあえず全員知ってはいるらしい。そして恐ろしいことにもう察している様だ。
「よし。じゃあまずは連絡先交換っしょ。」
「マジそれな。」
「告白はいつすんの?」
ちょっと待って展開が早すぎる。
あまりの急展開っぷりに驚かすはずだった自分が一番驚く。
「流石に早くない?私まだ何も言ってないんだけど?」
「この雰囲気でその切り出し方ってそれ以外なくない?下手くそかよ」
「てか急に連絡先交換も告白も無理過ぎるって…」
「連絡先くらい誰もいない時にこっそり交換しちゃえばいいじゃん」
「基本誰かいるから無理だよ。それに何の理由もないのに聞いたらバレバレすぎるじゃん。」
「それなら、人がいても聞かれても騒がれないような内容ならいいんじゃないの?」
行きつく間もなく次から次へと会話が飛んで行く。
目の前で高速移動していくピンポン玉の様に、会話を追うのがやっとだった。
「例えば?」
「うーん。あっ。2年の電卓メンバーって、女子はむーちゃんとミマちーでしょ?その2人、さくも仲いいじゃん?」
「まぁ、そうだね。」
「だから、2年の伝達係みたいなのになれば良いんだよ。昨年の簿記チームさ、みんな部活とかで来れる時間もバラバラだったから上手く連絡が行き渡ってないことが結構あってさ。」
「あー確かにあったわ。」
「だから、そういう係あると楽だと思うよ。あの2人は自分からそういうのやりたがるタイプじゃないし、さくが『何か連絡することあったらメールで知らせるね』とか言ったら逆に喜びそう。」
「な、なるほど。」
「あと七瀬先輩、確か電卓チームのリーダーだよね?だとしたら、尚更いいじゃん。『私が2年の女子メンバーに伝えたりするんで、良かったらすぐにやりとりできるようにメアド交換しませんか?』でいけるんじゃない?」
「そーそー!」
さすが上級者は違う。話に説得力がある。
本当にそれでいいのかなと思いつつも、「とっとと行動しろ」と周りから背中を押されて、早速話に出て来た2人に自分が伝達役をすると伝えた。
結果は予想通り、喜んで賛同してくれたのだった。
次の最難関と思われていた先輩との連絡交換も、先輩が他の人よりも少し早く来て問題をまとめているのを知っていた彼女たちが、放課後に集まり「今だ行ってこい」とこれまた半ば強引に背中を押してくれたのである。
確かにここを逃すとチャンスはないかもしれない。
嫌だな怖いなと思う気持ちを必死にポケットに押し込んで、何食わぬ顔で先輩の方へと歩み寄った。
「あの、先輩、今良いですか?」
「ん、どうしたの?随分と早いね」
手を止めてこっちを見てくれただけで心臓がちきれそうだ。
「えっと、わ、私、2年の伝達役っていうか、他のメンバーに伝えたりする係することになったので、あの。」
頑張れ私。
「良かったら、すぐにやりとりできるようにメアド交換してくださいませんか!?」
しどろもどろを通り越して完全に不審者でしかない声の上擦り方と目の泳ぎ方をした。我ながら哀れすぎる。言いたいことの7割も言えてない。
テストだったら間違いなく赤点のレベルだ。
後ろを振り向いて彼女たちに助けを求めたいが、今は彼女たちの顔を見るのも怖くて、ひたすらつま先が汚れている上履きを睨んだ。
先輩の顔も見られないなか、えっと…という声が聞こえる。
終わった。
「えーっと、それってさ、つまり2年生に何か急で伝えたいこととかあったら、伝言係になって伝えてくれるってことだよね?結構どうしようって思うことあるから、それ、助かるなぁ」
伝わった。というよりも解釈が神がかりすぎている。
今どきのAIでももっとへんてこな回答が返ってくることだろう。
急いで振り向くと、あの3人も、小さくガッツポーズしてくれているのが見えた。
私はもう一度振り返って、赤外線で連絡先を交換した。
「あ。名前。乙原さくのちゃんっていうんだよね。プリントとか名簿で見たことあったけど、改めて見ると何だか初めましてって感じしちゃうね」
「え、あっ、そうですか?」
「うん。何となく。今更って感じだけど、これからよろしくね」
「よ、よろしくお願いします!」
スポーツ選手だったら、きっとここで固い握手でも交わしていたことだろう。
だけど、私も先輩もただ2人でにこっと笑うだけだった。
そして私はいつになったら「え」とか「あっ」とか突っかからず話せるようになるのだろうか。
段々と人の声が聞こえてくる。さっきまでガッツポーズをしていたメンバーも何食わぬ顔で教室へと入ってきた。
「もう他の人が集まってくるから、見つかる前に離れろ」というのを遠回しに伝えてくれているのだろう。
確かにこのまま2人でいるのを他の誰かに見られて、あらぬ噂がたってしまうのは厄介である。友人たちよ、いつも最適な判断をありがとう。
私はいつも通り電卓チームの席について、高鳴る心臓を抑えながらも目の前の数字を打ち込んでいく。
こうやって心が無心になれば少しは顔の火照りもおさまると思ったが、案外そうでもないようだ。
本当はもう少しお話ししたかったのか、あの時間で切り上げられてホッとしているのか。
先輩の連絡先をゲット出来て喜んでいいのか、この先のことを考えると怖いのか。
自分の気持ちは何も分からないのに、目の前の問題だけは聡明に解けていく。
ずっとぐちゃぐちゃ。
過去に戻ってから、私の心も体もずっとちぐはぐなのだ。
それからも練習の毎日が続く。先輩とのメールは、最初に1年前の落とし物事件のお礼とお詫びを改めてしたこと以外は、本当に事務的なことばかりだった。
「明日の教室は急遽3年の教室になりました!」
「大会が近くなってきたので練習の数が増えることになりました!」
私はこの内容に、「わかりました、ありがとうございます」と返すだけ。
他のことが話せたらいいのに、他のことを話して失敗するのが怖い。
乙女ゲームみたいに、目の前に選択肢があったらどれだけ楽なことだろうか。だけど、恋というのはきっと、楽な道を選ぶことではないのだろう。
このままじゃ何も変わらない。それに、日常に慣れてすっかり忘れていたが、私が次に目を覚まして現実に戻っていないという確証もない。
明日目が覚めて、元の身体に戻ってました。
先輩はいません。思いも伝えられていません。
何て言うことになったら、私はきっと過去に戻る前よりもよっぽど後悔をしてしまうだろう。
あの日教室で起こした大きな一歩が、のちに私…いや、私たちの人生を大きく変えることになるのだった。
だけど…そうだな。結論から言おう。
結局、彼が亡くなるという運命だけは、変えることが出来なかったのだ。
彼は死んでしまう。私が過去に戻ってきても、変わらずに。
私が唯一かえることができたのは、彼の死に方である。
彼が交通事故で亡くなることはなくなった。
それはまた、もう少し先のお話。