「ん?なんだ、どうした」
箱罠の中にいたべっ甲メガネのおじさんは、庭先に誰かが来たかのようにそう言った。
テツヤが山の入り口に箱罠を仕掛けたのは、近くにクマが出るとの通報が、役所に何件も届いたからだった。箱罠はその名の通り、丈夫な金属の格子でできた、箱状の罠である。その中に餌の鹿肉を置いて、入り口を開けて仕掛けをしたのが昨日の夕方。今朝テツヤが出勤して、箱罠が映るように設置した監視カメラの映像を見ると、箱罠の入り口の格子が下りて中に人がいるようだったので、急いで車を走らせて様子を見に来たのだ。べっ甲メガネのおじさんは肘枕で横になっていて、テツヤが来たのに気づいたものの、先ほどの言葉を発しただけで動こうとはしない。
テツヤは箱罠に手をかけながら尋ねた。
「あの……なんで箱罠の中に入ったんですか?」
「なんでって、中に旨そうな肉があったもんだからさ。てーっと入っていただこうと思ったら、ガシャーンって入り口が閉まって、あーりゃりゃーってなもんよ」
おじさんは肘枕していない方の手の指を、自分に見立てて動かしながら説明した。肉を取ることには何の罪悪感も感じていないようだった。
「罠だっていうのは分かってましたよね?」
「罠?あー、罠って言われれば罠かもしれねーけどよ、罠じゃないって言われりゃ罠じゃねーわな、うん」
「ちょっと意味がよく分からないんですけど……」
おじさんがおかしなことを言って勝手にひとりで納得するので、テツヤは困ってしまった。しかし、とにかく箱罠の中から出てもらうことが先決だ。テツヤは箱罠の入り口を開けて、おじさんに外へ出るよう促す。
「中に肉を取りに入ったのは分かりましたんで、そこから出てください」
しかし、おじさんに動く様子はまったくなく、すっかりくつろいでいる。
「いや、まだいいじゃない、まだ。それよりさ、テレビとか呼んでないの?」
「呼んでませんよ」
テツヤは不快そうに答えた。マスコミが来るような騒ぎにしたくないから、はやく箱罠から出てほしいんだよ。そう言ってやりたかったが、ぐっとこらえた。そんなことを言って、テレビを呼ぶまで動かないとへそを曲げられてしまったら大変だ。一方おじさんは、テレビに出たときのことを想像してテンションが上がったのか、肘枕をやめてあぐらをかき、ご機嫌になっている。
「テレビ呼べばさ、すげー有名になるだろ?ほれ、箱罠おじさんって呼ばれたりしてさ。どうすっかなー。箱罠おじさんだよー。ちがうか。箱罠おじさんだよーってな」
箱罠おじさんだよーと言いながら顔の横で両手を振る練習をするべっ甲メガネおじさんの様子に、自分は何を見せられてるんだろうとテツヤは思った。おじさんの妄想はさらに続く。
「有名になったらアレだな。サインとか書かなきゃいけねーからな。どうすっかなー。箱罠おじさんって書くか、東郷平八郎って書くか。悩むなー。おい、あんちゃんはどう思う?」
おじさんのどうでもいい問いかけなど無視してもよかったが、テツヤは東郷平八郎が気になり返事をする。
「知りませんよ。っていうか、なんで東郷平八郎なんて書くんですか」
「そりゃーお前、オレの本名が東郷平八郎だからに決まってんだろ」
「おじさんの名前、東郷平八郎なんですか?」
テツヤは驚いて聞き返した。するとおじさんは、
「そうだよ。昔は佐藤一郎だったけど、今は東郷平八郎だよ」
と胸を張って言ったが、テツヤにはどういうことなのか理解できなかった。
「え、なんですかそれ。改名したってことですか?」
「改名ってお前……面白いこと聞くな」
「いや、普通のことだと思いますけど」
名前を変えたなら改名以外にないだろうとテツヤが首をひねっていると、おじさんは説明を始める。
「だからさ、昔は佐藤一郎だったわけよ」
「はい」
「それで、今は東郷平八郎ってわけ」
「はい」
テツヤは続きを待ったが、おじさんの話はそれで終わりだったようで、急に声を荒らげる。
「はい、じゃねーよ。終わりだよ。なんだお前、はいしか言わない、はいはいマシーンか」
テツヤはもう面倒になっていたが、乗りかかった舟なので疑問に思ったことを聞くことにした。もちろん、はいはいマシーンのことは無視する。
「いやその間ですよ。どこでどうやって名前が変わったんですか」
「それはほら、アレだよ。アレがアレしたからよ。俺もよくわかんねーんだけど」
「……」
さすがのテツヤも、これ以上はおじさんの名前の話を続けようとはしなかった。代わりに、おじさんに罠から出てもらうよう、また促した。
「はい、もうわかりましたんで。そこから出てくださいね。この罠はクマをとるために仕掛けたんですから」
「そんなこと言ったってよお、出ろって言われて、はいすぐ出ますってわけにはいかねえよ」
おじさんはまた肘枕の姿勢になった。
「いや、こっちへ出てくるだけじゃないですか」
「こういうのにはよ、立退料ってのを払わなきゃいけないんだよ。あんちゃん知らないの?」
また変なことを言いだしたとテツヤはゲンナリしたが、おじさんが箱罠へ入ったのが肉を取るためだったと思い出し、
「じゃあそこの肉、持って行っていいですから」
と、投げやりに言った。それで喜んで出ていくかと思ったら、おじさんは怒り出した。
「ばかにすんじゃねーよ。俺はここの住人だぞ」
居直ったおじさんに対し、しかしここで甘やかしてはいけないと、テツヤは毅然とした態度を見せる。
「ここはアパートとかじゃないですから。だいたい家賃とか払ってないでしょ。早く出てくださいね」
「うっせぇ。家賃なんか払わなくても住人は住人なんだよ。立退料くれよ」
「……」
テツヤがおじさんを見下ろしたまま黙っていると、おじさんは肘枕をやめ、
「立退料払ってちょうだ~い」
と、歌うように言った。それはピアノを売ってほしがるCMを真似たのだったが、テツヤにはまったく伝わらなかった。
無理やり引きずり出したいところだが、そんなことをするとまた何を言いだすか分からない。かといってこのまま放置することもできない。テツヤがすっかり頭を悩ませていると、不意に箱罠の向こうで何かが動くのが見えた。それはクマだった。おじさんに気を取られていて、近づいてきているのが分からなかったのだ。クマはこちらに向かってのっしのっしと歩いてきていたが、おじさんはまだそれに気づいていなかった。
「ほら、立退料。一万、一万でいいから」
具体的な金額を言いだしたおじさんから身を引くようにテツヤは後ずさり、運よく歩いていたクマが立ち止まって横を向いた隙に、全速力で車へ走る。
「おーい、どうしたんだよ。じゃあ五千、三千円でもいいから。おーい、戻って来いよー」
緊張感のないおじさんの声がいまだ遠くに聞こえる中、テツヤは車に乗り込み急いで発進させた。
役所へ戻ったテツヤは、朝は何も見なかったと自分に言い聞かせ、しばらく日常業務をこなしていた。しかし、やはり箱罠の様子が気になった。恐る恐る監視カメラの映像を見ると、入り口の格子が下り、中にはクマがいる。よく見ると、そのクマの顔には、おじさんのべっ甲メガネがかけられていた。
「どういうことだよ……」
困惑しながらも、テツヤは再び車に乗り箱罠のある場所に向かった。カメラの映像では、おじさんが周囲にいる様子はなかったから、きっとうまく逃げたのだろう。いや、おじさんなんて、やっぱり最初からいなかったのだ。そんなことを考えながら、テツヤは車を降りて箱罠の場所へ向かった。すると、箱罠に入っていたのはおじさんだった。
「ん?なんだ、どうした」
おじさんは、朝と同じ反応をした。テツヤが困惑しながら、
「その中にクマがいたでしょう」
と聞くと、おじさんは呑気に答える。
「クマ?ああ、入り口を開けたら出てったよ。人んちに入って悪かったってさ。俺がここの住人だってわかったみたいだな」
そんなわけないだろと、テツヤは苦い顔をした。そしてメガネはどうしたのか聞くと、
「メガネ?あれ、そういえばどうしたんだっけ?」
と、おじさんは自分の顔をペタペタと触り始めた。テツヤが頭の整理がつかないままその様子をぼんやり眺めていると、おじさんはテツヤの方を見て、顔を触るのをやめる。そして、
「立退料払ってちょうだ~い」
と、歌うように言った。