故郷の街にたどり着いたのは果たしていつの事だっただろう。一度の日入りと再び太陽と挨拶したあと、更に今にも日が沈んでしまいそうな時間になってようやくの事だった。
すぐにも寝てしまいたい、そんな欲望を、力なき身体、回らない頭でどうにか依頼主の傍へとたどり着いたその時、私の中に生まれた感情はとにかく休みたいという一言。
依頼主は私の顔を見るなり訊ねてきた。
「板はどうした」
「盗賊に奪われてしまって」
そんな私の回答に対して表情を変えることも無く更に質問を重ね始めた。
「それに馬車は」
「それも盗賊に」
きっと今頃彼らの手の内だろう。馬は解体されていないだろうか。悪事で満たされた胃の中に入ってしまっていないだろうかと心配が派手に渦巻いている。
「では、全て弁償願おう」
その言葉に抵抗する気力さえ湧かない。不満に思っても感情に出すだけの余裕すらなかった。
「当たり前だろう。しっかり運べた保証すらないのだから」
「運んだ」
ただ一言だけ、ひねり出されたのはただそれだけ。そんな必死で絞り出した言葉に対して男は両手をふらふらと揺らしながら軽く告げる。
「証明のサインがなければ信じられないな」
不服は声にならずとも表情に微かに滲み出てしまっていたのだろうか。顔を見つめながら男は指を向け、感情のこもらない声にただ意味だけを持たせる。
「労働者が勝手に言ってるだけかも知れないからな」
この世界に物語が存在するように架空の話を持ち出す人物もいる事は間違いなかった。
「詐欺と同じだ」
人を疑わない事は美しい、そう語る人間もいただろうか。しかしながら現在の労働という環境に於いて信じられるのは人にあらず。各々の示す証明、つまりは公的書類や証明の力を持った刻印のみ。
「日を改めて処分を告げよう」
始めから信用のない存在。それこそがこの街における貧民層への印象だった。
「今日は眠るがよい」
労働外の事までこの男の指示に従うのは癪ではあったものの、従う事が己のためでもあった。
私は男の家を後にして街を出る。山の傍に構える家にて睡眠を取ろう。一睡もせずに夜明けを迎えても歩き続け、更に晩を迎えるまで起きていた体には必要なもの。それがなければ生きていける気がしないものだった。
やがて目を覚ましたその時には既に太陽が昇り、空のシンボルとして輝いている頃だった。
一度街へと向かって依頼主の男を訪ねる。顔を見せた途端、男は紙を持ち出して語り始める。
「馬車代と品物代、依頼の遅延補償金と労働違約金、道中の宿代等でこれだけだ」
そこに書かれた数字を見て私は驚きを寸でのところで隠して見せる。今まで手にしてきた賃金を数えてみても到底届かない金額。生活費を除けば完済までに要する年月は二十年といったところだろうか。
「さあ、書類にサインを」
ペンと紙を突き出して来る姿、その貌に私は大きな違和感を覚えた。被害が出たと語る割にはあまりにも機嫌がよい。その顔に宿る感情は生き生きとしているようだった。
「それは出来ません」
「どうしてだ、街の治安維持部隊に告げてもいいのだぞ」
強烈な脅し。無実の罪を晴らす力は私にはなかった。治安維持部隊に捕まればすぐさま裁判所への引き渡しと重大な刑罰が下る事だろう。しかしながらこの契約には納得が行かなかった。
「まずは品物を届けた事を証明しましょう。窯職人が知っている」
公正な取引が行なわれたのであれば相応の証明をいただけなければ窯職人も罪人の仲間入り。働く上での社会的信用がいかに大切なものか、人を扱う立場である彼は言葉の意味以上に詳しく知っているだろう。
「しかし馬は貸せないな、壊すかも知れないからな」
この男の魂胆は驚くほどに露出していた。私を最大まで追いつめて手詰まりだと叩き付け、後に相手の反応によって知ることになるだろう取引の現状に対していい顔をするだけ。私の事など言葉の端にすら浮かべない事だろう。
これまで同じような目に遭った人物がどれ程いただろうか。
心の底から吐き気を催してしまう。彼の仕事の依頼書の張り出し許可をギルドの掲示板から剥がされた理由がしっかりと理解できてしまう。綺麗な建て前の裏側を見抜いていたのか規定を超えた募集からか。この世界には不自然な出来事を見極める目が必要だという事だった。
私はギルドの掲示板へと向かって足を進める。街に多く居座る例の教団が白い目線を向けている。迫害の熱が込められた視線は私を四方八方から射抜いている。考えようによっては彼らが私の人生の闇の元凶でもある。
暴動が起きない内にと思うだけで歩くペースが速くなる。靴が石の地を叩く度に教団の視線は増えていき、一つ一つの濃さが増していく。
構うことなく私は掲示板と向かい合い、先日訪れた街へと向かう依頼を探す。平民という立場で馬を借りる事など叶わない。現在の私が馬を借りるために最も手っ取り早い手段は依頼を受ける事で依頼主の費用でというもの。
ずらりずらりと群がり人々の手によって達成されるまで待ち続ける紙たち、多少の黄ばみが侵食しているそれらに目を通し、職種のカテゴリから続いて目標の地域を探り、あの街へと物を運ぶ、いわゆる運送業の依頼が綴られた紙を剥がし、持ち出す。
依頼は公の者による検閲の末に許可が下り、私の足は依頼主の方へと進み行く。
細い道路、私とどちらが細いだろう。もっとよく食べるのだと言って差し上げたくなる細さをした道の途中に並ぶ石造の建築、大きく構えたそれこそが私の向かう先だとドア手前のポストに掘られた文字と番号の組み合わせで確認し、ドアに掛けられたベルを鳴らす。
それからゆったりとした拍を四つ打てる程度の時間を経てドアは開かれ、長いあごひげを伸ばした男が顔を出す。
私の顔を見つめるなりすぐさま許可を下ろし契約の薄板を用意する。
あの男の言葉によって私の悪評は広められていない、今のところは知られていないようだった。もしかすると喚起するつもりはないのかも知れない。あまりにも苦しい条件を突き出したところで依頼を受けられなくなるために却って金が返って来ないという事実を見ているのかも知れない。
差別がまかり通る街の中でも私の事を雇ってくれる彼らの目には私はどのように映っているのだろう。少なくとも人生を共にする相手など永遠に出来ない事は確実だろう。断言できる程には私への差別は有名なものとなっていた。そんな私でさえ働くことが許されるという事は相当困っているのかも知れない。納期に間に合わない、下手すれば自ら赴かなければならない、そんな状況だろうか。
男は一枚の紙を折り曲げ私の手のひらに乗せる。
「最近は盗賊が出るといううわさが出ている」
つい先日被害に遭いました、などとは口が裂けても言えなかった。今回は調査も兼ねているなどとはもっと言い出せなかった。
「ある特定の依頼主しか言わないが油断はしないように」
その依頼主を引き当ててしまった私はなんと巡り合わせの悪い者なのだろう、言葉にしたくなっても出来ない現状。彼は黙っていてもそういったトラブルが頻発しているという報せが入った事で掲示板から追放されてしまったのかも知れない。
公の仕事など融通を程よく効かせないと雇い主たちが常々に口にしている事を私は知っていた。公の業務に携わる人々も公平と業務の秩序のためと理解した上でそのような態度を取っているのだろう。
私は依頼主の家を後にして以前とは異なる厩舎を訪ねる。
紙を渡す事で彼らが用意した馬を借り、板に記された倉庫の住所へと向かった。