倒れた馬の背にしがみつく事など叶わず、私は地面へと投げ出された。その時、服をすり抜けたような鮮明な鋭い痛みに引っ掻かれた。肌を裂くような痛みは私の声を無理やり捻り出そうとするものの、思い切り吸い込んで口を閉ざし、声の霧が舞う様を許さない。盗賊団が今ここにいるかも知れない、黙る理由としてはあまりにも十分すぎた。
しかしながら業務の遂行という形で積み荷を失った軽い馬車は横転し、大きな音を立ててしまっていた。馬は叫ぶように嘶き、夜闇の空気、闇色に染められた静寂のガラスを突き破っていた。
転がるロウソクの微かな火を跳ね返す輝きは尖った形と透き通る姿を見せつけていた。ガラスの破片を撒いた者がいるのだと実体が語っていた。
「引っ掛かったぞ、獲物だ」
そんな言葉を提げて現れた人物は松明を手にしていて、スカーフの存在をしっかりと私の目に映してくる。
「盗賊団」
それだけ、全身を襲う痛みは私の中から言葉を奪っていく。夜の微かな冷気は水の中にいるよう。
私が立ち上がろうと手を地に着いた時、松明はその数を増やしていた。一人や二人、十人に二十人。かつて山里に、私の家のすぐ近くに壊滅寸前の集落の姿を認めた事があったものの、あの寂れた地の住民を上回る人数だった。
盗賊の一人が松明をこちらに寄せて声に意味を持つ発音を持たせて流し出す。
「木の板を寄こせ、労働者」
いつもこの辺りを狙っているのだろう。手際のよい集合と手慣れた集団の態度、迷いを感じさせない言葉が図らずもそう語っていた。
「持ってるのだろう」
私が抱えているそれに目を付け、盗賊たちは無理やり引きはがして板を奪い取る。
「そいつは殺していいな」
一人が訊ねると頭と思しき青髪の男が下品な笑い声で暗闇の空気を震わせて破る。
「好きにしろ」
しかし、それは叶わぬ行為だった。私は早々に立ち上がり、足を動かし始めた。馬を置いていく事は忍びなかったものの、命には代えられなかった。
暗闇の中を走りながら、関所の隣を通り抜けて駆け続ける。本来であれば間違いなく罪に問われる行為ではあったものの、やはり命には代えられない。
痛みが身体中をひたすら叩き続ける。絶え間なく続く熱に似た感覚は身体中を覆い尽くしてしまう。
やがて私は線路を見付け、そこに停められた夜の便、客を運ばない輸送列車の連結部分につかまる。どうか誰も気付きませんようにと祈りを込めながら鉄の柵に身を乗り出しながらそのままドアをくぐり荷物に紛れる。
空気を引き裂いて紅い液体が零れ落ちてしまう。妄想の一つ、現実で起こったわけでもない現象が脳裏で輝きを増していく。赤は夜闇に混ざって色を失ってしまう色。流れていない保証などどこにもなかったものの、幻だと断定していた。そんな幻想は稲妻のように迸り緊張に身は鋭い痛みを覚えてしまう。
やがて汽車は走り始める。
私の手元には木の板は残っていなかった。これでは労働をしたという証拠が残らない。それだけでなく馬車や馬の損失を咎められてしまう事だろう。盗賊が奪ったものはただの木の板に留まらず、様々な人々の所有物の形と繋がり、私という人間の信用までが被害として見えていた。このまま教団だけでなく、故郷の街に住まう全ての人物から煙たがられてしまうかも知れない。避けたかった最悪がはっきりと形作られていた。
私はため息をついて汽車の揺れに身を委ね、その形や大きさを全身で受けてみる。速度が落ちればすぐにでも分かるように、飛び降りることが出来るようにと扉の外へと出たのちに手すりにつかまり大きく深呼吸をする。
風の向きや強さ、揺れの大きさと頻度。己に影響を及ぼす感覚に対しては全能であることが求められた。もしもここで汽車の乗り組み員に見つかってしまえばどのような言葉を用いても覆すことの出来ない絶対的な罪を背負ってしまう事になる。
「命こそが大切なもの」
心に刻み込み、先ほどよりも感覚を研ぎ澄ませる。張り巡らす暗黒の向こうで景色はどのように揺らめいているだろう。
感覚が告げる。震えや重みが緩やかになっていく様を肌で感じ、時を待つ。降りることの出来る速度を待ち、脳裏に走る緊張。今にも降りてしまいたくなるものの、タイミングを間違えれば勢いに吹かれながら地に着く脚が無事ではないだろう。
心臓の鼓動が早くなる。反対側からの衝撃、速度を落としたために発せられたそれが身体を振り回そうと暴れ回るも私は鉄柵につかまり抵抗を続ける。
速度が落ちるごとに早くなる脳裏。思考が回り、身体の動きさえ老いてどこかへ飛んで行ってしまいそう。
暗闇に新たな感覚が、違和感のある暗闇と輝きの気配が訪れる。それは自然の持つものとは異なるもので、明らかに待っていてはならないものだった。
緊張の瞬間、覚悟の一瞬。十分に速度が落ちることなく、しかしながら動く鉄の塊から足を離し、背から飛び込むように空間へと向かう。倒れ込むように飛び降りたのだ。足から着地してしまえばきっとただでは済まないだろう。ある程度速度が落ちたとは言え人の進む速度からは考えられない先進的な文明が生み出した世界なのだから。
背を向けた体はそのまま地面と擦れ合い、大きな熱と痛みを生み出す。纏っている服はきっともう使い物にはならないだろう。たかだか一着を再び手にするために幾らの金を注ぎ込めばいいだろう。私が得られる賃金では服という必需品への出費が重い。
痛みが生を告げる。しっかりと呼吸を繰り返し、闇を飲み込むように空気を吸い込む。手を着いて立ち上がろうにもあまりにも強い痛みは力を入れる事すら許してくれない。
意識を失う痛みでなく、しかしながら眠ってしまえる程の痛みでもない。明かりが視界の端にチラついているのがさらに厄介。痛みと共に過ごす夜はあまりにも恐ろしく苦しい。
旅人が通りかかってはくれないだろうか。あの街へと向かう時の私のように線路に沿って進む人物は現れないだろうか。
希望は芽を開こうとはしてくれない。
旅人、用事さえあれば平気で隣の街まで移動する商人。この時間にこの場を通る者など誰もいないだろう。本日の私は例外だとしても昨日の私が証明していた。
昨日は宿で寝たではないか。日が昇るまで待ったではないか。それを経ておきながらこの時間に通りかかる人が現れないかと希望を持つのはあまりにも愚か。
暗闇は視界が景色の形を知る事すら許さない。ただ私は見えない闇の中で孤独で放り出されただけの者。
過去が巡り来る。何もしていなくとも、信仰の有無など問うことも無く教団が勝手に天上神の加護を受けていない、神から見放されたと決めて私に向けて冷たい目を向け触れる事話す事全て総て何もかもを避けていた。
そんな扱いを日々眺め続けていた人々はやがて私を避け始めた。教団たちと同じ態度を取り始めたのだ。
差別は弱き者を飲み込み同調の音色を奏でてやがて少し強い者へと感染し、更なる強みをも数の力で抑えて仲間に加えてしまう。
あの街で私に許されたのは最低限の買い物と仕事、ただそれだけだった。人類の中に同じ種族の姿を持って紛れ込む人ではない何か、それこそが私の姿だとでも言うのだろうか。
声すら出ない。
あまりにも情けないこの命を見て亡き親は何を想うだろう。
どのように振る舞えば現状を回避できただろう。
答えなど出て来ないまま日差しが昇り、人々の生活が幕を開けているところだろう。結局一睡もできないまま、しかしながらこれから眠るわけにもいかず痛みの残る身体を引きずりながら起こし、歩き始めた。