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第4話 契約

 夜とはどうしてこのような暗さを誇っているのだろうか。窓ガラスの向こうの世界はラメをまぶした闇色のドレス。かつてはこの星たちと同じ色をした大きな円が存在していたという。人々はそれに月という名をつけて眺めていたのだという。いつ失われたのだろうか。そもそも本当にそれはこの空に浮いていたのだろうか。私にとっては寓話や神話といった遠い幻想の世界の話でしかなかった。

 空のドレスの中に月のブローチを思い描き、幻という心の虚像、不思議で朧な夢に浸りながら現実を見つめる。

 これ程までに自分の心を見つめた日は果たしていつ以来か。上手く眠ることが出来ないまま夜の滞在に寂しさを覚える。暗い周囲、寝転がって疲れに身を沈めようにも空を見つめる事を欲してしまっている。透き通る高級なガラスを見つめ、夜だけは埋まり切った世界である方がありがたいものだと確かめて。

「虚しくて仕方ない」

 気が付けば口に出してしまった本音。望まない環境、人間が生んだ差別の壁は感情の滑稽な様をそのまま映した愚かなもの。ただ普通に生きていきたいだけ、誰かと一緒に話しながら果汁を口にして、日常の疲れをどうにか落としたいなどと愚痴を放り込んでは何かに嘆く一方で何かに笑って感情の空をこの空のように様々な色に変えて生きていたいだけ。それすら許されない現状が憎たらしくて仕方がない。

 そんな事を思っている内に意識は疲れの中に溶けだして、やがて現実と夢の境目すら曖昧に、何も分からない何も考えられない状態に入って進み始めた睡眠。

 気が付いた時には目を開き、青空に出迎えられていた。いつの間に眠っていたのか分からないまま、考えないまま、乾いた果実が埋め込まれた細長いパンをいただいて宿を後にする。爽やかな日差しを見つめながらゆったりと歩き、宿の受付の女が語っていた事を脳内で流していた。この街の中では一般市民の通勤通学程度であれば汽車を使うこともあるのだという。街並みは人の波、汽車から降りて目的地を目指す人の多い事。この街であれば私にも優しく接してくれるだろうか。

 誰に問いかけても空に問いかけても答えなど返って来ない疑問を浮かべながら馬車を預かり業者から引き取り荷物の無事や真贋を確かめた上で馬に乗り込み線路に沿って走らせる。鉄の線はまっすぐ伸びていて、果てがないように見える。いつでもそうだ。この国を駆け巡ればすぐに目的地の見えない道に放り出される。それが当たり前なのだという事を心に置いて馬車を進める。

 雑草が絡まり合って出来た毬のようなものが転がっている。この荒れ地でも見られる現象なのかと驚きの目を向けていた。ここに生えている雑草はあまり伸びる事がなく、絡みつく印象など抱き難い。

 雑草の毬が震えて見える速度で馬車は駆ける。乗り心地は最悪と言っても差し支えないそれは仕事の上で必要だから乗っているに過ぎない。

 その最悪な感覚に全身を乱される時間も終わりを告げる。それは太陽の輝きが今にも地底に潜り込んでしまいそうな時の事。今日は夕日が空を焼くことも無く、濃い青が薄暗くて心地よい色を見せている中である街の姿を目にした。それこそが荷物の運搬先、初めて見る場所ではあったものの雇い主の言葉によってしっかりと把握していた。

 大きな塔が一つ、昼間と夕刻に鐘が鳴り響き人々の生活の目安になっているのだという誇り高き建造物。この街の中、木の板に視界を向けながらある商店を訪れた。

 窯焼き職人の住まい。積んでいる荷物は金属やレンガといったもので、恐らく窯の部品だろう。

 家のドアに掛けられたベルを鳴らす。ノックの代わりに備えられたそれは高くて耳に残る響きを奏でる。ガラスを思わせる繊細な響きに想いを這わせている私はドアが開く時にも響くベルの音を気に入っていた。

 顔にしわの刻まれた男が幼子を抱いて現れて、馬車を見つめながら大きなため息をついた。

「また運び屋が変わっているのか」

「危険らしいもので」

 私が言葉を挟み込むと共に男は目に力を込めて細め、視線を地に背けながら告げる。

「噂によれば帰る事は無いそうだ」

 私は頷きながら家の中のテーブルに置かれた紙を見つめる。あて先は確認できなかったものの、あの商人の用いるスタンプが押されている事だけは確認できた。

 同じ形、所々途切れた円に商人の名が記されたマークが刻まれた木の板を差し出して男にお届け完了の証明を刻んでもらう。

 立ち去り際に男は紙を手渡した。慣れない感触、薄っぺらで質量を感じさせないそれが木の板よりも高価なものだと言われなければ信じなかった事だろう。

「街を出てから読みなさい」

 忠告を受け、私は会釈で返し、ドアは閉じられた。

 残すは帰って木の板を提出するのみ。馬に跨ろうとした私の傍へと寄ってきた影が声を震わせながら言葉をひねり出す。

「窯職人は忙しいんだね、幾つもの業務をこなして」

「どういうことかな」

 突然向けられた言葉、目の前の影は姿こそ貧しくあれども事情を知っているような口ぶりで事を語る。平民を装い安全を保つ貴族だろうか。

「安心しなさい、俺はただの街の調理員だ」

 ある程度の教養を授かっている立場なのだと知るや否や私の脳裏で己を嘲笑する者が、私の中に根付く私という悪魔がかけてははしゃいでいた。

 そんな様子を表情からは読み取ることが叶わなかったのか、そのまま話を紡ぐ。

「あの男は以前金を纏めて木箱に入れて何者かに会いに行っていたのだ」

「それって」

 放り込んだ疑問に対して男は目を細め、空を仰ぎ見ながら記憶を放り出す。

「あの男が木箱を持って街の外へ、荒野に出たところを見た」

 彼は彼で様々な仕事を抱えている事だろう。私は唇を動かしそんな想いを真っ直ぐ放ってみたものの、男は続きを持ち込んだ。

「荒野の中、会った相手は盗賊団のスカーフを巻いていた」

 私は視界が遠くなっていくのを感じた。血の気は引いてその目が捉える景色は現実から幻想へと落ちていくよう。頭に迸る痛みは拡張と収縮を交互か同時か見分けも付かない速さで繰り返している。

「職人だからと言って過信するのは良くない、誰と繋がってるか分からないものだ」

「は、はあ」

 声にすらならない。ただ出来る事は沈み切った心で、己に掛けられた偽りの冷静を剥がそうとするも上手く行かない頭で、馬に乗り故郷を目指す。馬の乗り心地、伝わる温度、辺りを塗り潰す夜闇に冷やされた空気や所々にて揺れる灯りの焚火の星たちまで、何もかもが現実味を喪っていく。

 果たしてこのままでいいのだろうか。私は知らない間に罪人たちと繋がってしまっているのではないだろうか。そうであれば故郷をうろつく教団の信者たちの裁きから逃れられなくなってしまう。

 街の関所へとたどり着く。門は閉じられる直前だろうか。ぽっかりと空いた穴の両端から闇を燃やす炎の輝きがいつになく心強く思えた。

 役人が私の姿を目にするや否や木の板の提示を求めて手を伸ばす。答えるべく板を取り出すとすぐさま印を刻んでそのまま返した。

「カンテラなんて貴族の利器持ってないだろうし闇と賊には気を付けろ」

 注意喚起を行なう程には問題として取り上げられているという事実に震えが止まらなかった。

 ロウソクの頼りない火を私の太陽にして進み続ける。

 私は思い出したように窯職人から手渡された紙を取り出し頼りない火に照らして開く。

「盗賊団に気を付けなさい」

 その警告は遅すぎた。目を上げようとしたその時、馬が苦しみながら倒れ、地に着かない脚を必死に動かしていた。

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