待ち構えていた光景は一つの小屋に収められた馬。幾つもの柵で仕切られて仲間同士の関わりすら許されない様を目にしては心の底が燃えるような強火に焼かれ、ひりひりと痛んで仕方がなかった。この痛みなど誰の目にも映らないもの。ただただ仕舞い込んだまま馬を見つめる。
身を襲う、鼻をつまみたくなってしまうような自然界の生んだ悪臭は街の中でも人々が漂わせていたものに似ていた。しかしながら明らかに質感や重みが異なる。
強い臭いに挫けてしまいそうな心を抑えながら私は小屋の馬が乗り越えるように見せている頭、その顔に差し込まれた感情を窺う。
誰が健康だろうか、元気を蓄えている馬は、落ち着いた性分の馬は。様々な心の色彩のフィルターを掛けながら人を見つめる乾燥した視線からは想像も付かせない情を込めて観察を続ける。
その時ある一頭が甲高い鳴き声を上げ、私の中に不合格の文字を紡ぎ出した。更に観察を続けている中で次から次へと個性や気分を見せていく馬たちに思わず微笑みを投げかけていた。
どれほどの時を経た事だろう。ようやく私は一頭を選び、馬を迎え入れる許可を得るべく厩舎の管理人に言葉を掛けた。
それから踊るような素早いテンポの拍を打てる程度の時間を流し、彼は許しを与え銅貨を支払うようにと手を差し出した。
私はその手に硬貨を渡す代わりに木の板をその目を覆い尽くす勢いで差し出した。彼の目は板に刻まれた文字を追っているのだろうか。横へ下へと動き、顔も合わせて微動を続け、沈黙を作る事手早い二拍を挟める時間を経た後、管理人は木の板にナイフで印を刻んだのちに手綱を手渡した。
「よろしい、馬車の貸し出しの許可を下ろします。費用は雇い主持ちですね」
私は無事に馬車を借りる事が出来たのだと確認を繰り返しながら馬に手綱を掛けて馬車を引く。これから目指す場所はあの憎き教団の活動が盛んな街。私の住民票を留めたまま存在することを拒んだふるさと。そこで商人が準備していた品物を積むべく荷物を持ち上げる。
「ごく潰しは重罪だからな」
言葉のくさびを深く打ち込む彼の顔を瞬く間だけ見つめて荷物を積むことユン殿繰り返しだろうか。
その末にようやく私の旅は始まった。
馬に乗り、頭を撫でる事で馬は歩き始めた。始まりはゆっくりと、一日かけても町を出られないのではないかと心配になってしまう程にゆっくりと。それが少しずつ速度を上げて行って突然景色は変わり始めた。
馬の揺れ、石の地面を叩く音と同調しながら大きな衝撃は生まれ、私の体の芯を叩き続ける。景色の流れはあまりにも早く、全ての光景が曖昧な残像に満たされていく。私は久々に心を打たれた。この世にはこれ程までに美しい見栄えがあったのか、いつも見つめているはずの景色は初めて見る色を、これまで見た事のない模様をしていた。
次から次へと通り過ぎる人々。これほどまでの速度で距離を埋める馬車を確認して脇に避けてくれるのはきっと商人の仕事をしている人物だと理解しているためだろう。観光客であればゆったりと、引っ越しであれば地面を慎重に叩くように馬に指示を与える事だろう。この街から身を離す者は追い出された人物か高額な割れ物を財産だと高らかに告げながら所有する貴族かと少しずつ可能性を絞ることが出来る。二択かあるいはその他の考察が入ったところで個人の一般利用客の中で馬車を借りるだけの財力を誇るのは貴族のみ。これにて断定。
私の願望を乗せて走る馬は割れ物や細かな部品といったものを乗せていない事を態度で示している。この場合、商業利用に考えが及ぶのはこの街では自然な事だった。
大きな石の橋を渡り、流れる川がキラキラと輝く大地の飾りとなっている。それからしばらく走ることで見えてきたのは広くて大きな壁。その隙間が見えて来ると共に私は手綱を引いて馬に止まるよう指示を与える。街の関所が目の前に迫って来る。動きは少しずつ緩んでいくものの止まり切れるか不安になる程の速度の落とし方で進み続け、壁は更に存在感を増していく。
大きく濃く、このまま進めばぶつかってしまう事は確実だろう。不安に身を襲われたその時の事だった。ただひたすら走る事しか知らないように思えてくる動きで駆け抜けていた馬が突然大幅に速度を落とした。
力強さに押されながら、襲い来る振動に身体を壊されてしまわないかと震えながらも渾身の力を込めてしがみつく。
風の衝動はあまりにも重く、馬の脚から身体、そして私へと伝わる力の余波はあまりにも騒がしい。
そうして身の繊維一つ一つ、関節のそれぞれに残る痛みを抱えながら惰性の衝撃に耐えてゆっくりと拍を心の中で打つこと四回。馬を降りて関所に立つ役人に木の板を見せつける。
左右に立っている役人はそれぞれの顔に収まる湿ったガラス玉のレンズで木の板を見つめ、右の役人がナイフを取り出し印を刻む。
こうしてようやく町を出る事が叶った。仕事の続きは無事に訪れたのだ。
手綱を握り続け、馬に無言のまま声援を込めて想い続ける。馬の身体越しに伝わってくれるものだろうか。浸透してくれるだろうか。何も分からない、知ろうとしてくれないまま生まれる関係はあまりにも悲惨なものしか見当たらない。自分の記憶という歴史の中に、偏った出来事を記しただけに過ぎない歴史書の脳に、他の誰にも向けられない圧の重たい目に塗れた人生は差別の歴史の一欠片。
人と触れ合うにも関係を隔てる柔らかなリボン、その優しさすら許してくれない、同じ生き物と深く交わるために向かおうにも通してくれない。
嗚呼、私は孤独だ。
人間と共にいる時、その真実に最も深く潜り込んでしまう。差別という下らない枠、弱みを隠すための棘だらけの演技をいつまで続けているのだろう。
ふと蘇るそんな暗い感情をどうにか仕舞い込んで引き続き馬の走りを味わっていた。過ぎ去る景色は私が迷い込んだ場所だろうか。キュウリの瑞々しさとそれに救われた心を思い出す。あまりにも広大でありながらも人が一人で生きるにはあまりにも狭い世界。
石の粒や褐色の大地に申し訳程度の草の塊が添えられた荒れ地の中にサボテンの姿が混ざり始める。どこまでも広がる平面に在る立体を思わせ棘だらけの植物の存在がどうにも浮いて見えてしまう。
気が付けば夕刻が訪れたよう。いくつものサボテンと太陽の演奏によって現れた光と影の姿を流しながら、橙色の光に覆い尽くされた空を見渡す。緩やかに燃え上がっている姿を想像してしまう大空の天上は神々しい白の輝きで満ちていた。向こうは希望を連想させるものの、きっと私には希望を得られる場所など存在しない事だろう。これまでの人生と行ないから容易く見て取れた。若ければだとかいつでも人生が変わるなどと語る者はいるが実際のところは分かっていた。変わるだけのきっかけや心意気が上手く絡み合う機会など一人一人それぞれ異なるという事。そして私は若くして全てが手遅れなのだという事。
車輪の動きと小刻みと呼ぶには大きな揺れとそれに鳴らされる複雑なメロディを耳にしながら荒野の旅を続けていく。やがて見えてきたものは明らかに人類が文明を切り開き自然を破壊することで築き上げた一つの街。その街から外へと伸びる鉄の線は人間が求めてきた便利の証。街そのものから上がる煙は一部の知識人の間では蒸気と呼ばれ、大きな鉄の箱を動かすために必要とされているのだという。
レールを走る汽車に頻繁に乗る事の出来る人種とは違って私のような人生のレールが固まってしまっている人物には扱う機会を見る事の出来ない知識が記憶から零れてくると共にそれを片手で弄び、馬を街へと向かわせる。見つめるべきは目の前の仕事とそれを遂行させるための計画。夜を迎える前に宿を見つけて早く眠り次の日という時を拝むと共に素早く準備を済ませるべきだという事。
安い宿と馬車を預けることの出来る機関の距離が出来る限り近い場所を選んで馬車を業者に預けて宿へと向かう。
急ぎの時には気が付かなかったことは大量にあった。この街の中でも幾つもの鉄の箱がレールを伝って動いている光景を見て思わず言葉を失った。黒光りする頑丈で力強いそれが人をありとあらゆる交通手段を大幅に上回る速度で動き、多くの人々を運んでいる。
駅に止まっては口を開いて人々を降ろし、行き先の一つに用事を持つ人物たちを飲み込んでいく。
私の仕事にどこか似ているように思えて大幅に異なる部分が目について仕方がなかった。私は命を乗せる仕事など御免。そのような重たい責任を背負っては身動きの一つも取れない。
他者の生活を特に心に留めることなく流し見て宿のドアを開く。何よりも自分の生活を大切にしなければならない。それは明らかな事実。玄関から三歩ほど踏み出した先、右側にあるカウンター越しに立つ若い女が木の板を差し出す。私の名前と泊まる日付を記すことで受け付けが完了するという実に簡単な契約。仕事を受ける際の苦労に比べれば実に易いもの、そこに掛ける言葉も安いものだった。
そのまま受付嬢に渡された木の札を手に奥へと進んでいく。石造りなのだろうか、私の人生の中では見た事のないなめらかな質感の石は手のかかった加工か、それとも素材そのものが異なるものだろうか。床を叩く靴の音も一定のリズムを感じさせない反響となって残り続けている。色とりどりの絵画が飾られた廊下が伸びている。まるで宮殿のような豪華な景色に息が詰まってしまう。
札が示す番号と同じ数字が刻まれた札が提げられたドアにたどり着いた。釘と麻の紐によって固定されたそれだけが落ち着きを与えてくれる。
ドアを開いて中へと一歩。部屋とは思えない薄暗さに目を細め、覚悟していた暗さは今という時においては貧民の想像の世界なのだと思い知らされた。ガラスの窓が嵌められた部屋は明らかに高級なものだと思い知らされた。
体感したことのない雰囲気に囲まれて落ち着かない心を表すように伸びきった背筋と固まった表情を緩め、優しく気高い調和が雰囲気の主役を務める夕飯を平らげベッドに身を投げた。