視界に一つの縦の境界線が引かれていた。左側に伸びる空と右に根付く大地。
空は白けた雲を散りばめて、乾いた大地の所々に草が生えている。はっきりしない頭で見つめ続けるこの光景、果たしてこの世界の正しい姿なのだろうか。
私は身体を起こし、境界線を横に向けた。
吹いてくる風は生温い。頬を撫でる仕草が下手なことこの上ない。これまでどれだけの人間に触れてきたことだろう。未だに人への触れ方を熟知していないのだろうか。
そんな悪態など口の裏に仕舞い込んだまま封をして立ち上がり、体を捻って調子を確認する。どうやら先ほどまで荒野の真ん中で寝ていたらしく、右の顔から肩にかけて新鮮な痛みが走っていた。体を動かす度に痛みは赤を思わせる声で語りかけてくる。
そうした痛みとは異なる痛みに気が付いたのはその時の事。全身を引き裂くような鋭い痛みがひしめき合い思わず悲鳴を零してしまいそうになるものの、必死に抑え込む。体を押さえた指の隙間から零れ落ちる液体の姿を認めた。炎よりも赤く燃える水の破片は私の欠片なのだろう。燃え上がるような痛みに思わず叫び声を上げてしまいそうになっていたものの、静寂を保ち続ける。周囲に敵がいるかもしれないという状況にある以上、意識が残っているのだと教えて差し上げるわけには行かない。
体の状態に続いて残された物を確かめるべくバックパックを開き、手を突っ込んで探っていく。何が残されているものだろうか、まるで分らない。
真っ先に紙にインクで塗り付けたものだろう、この辺りの地形を記した地図が出てきた。図書館や公の施設といった大きな位を胸に刻んで誇る人々が働く場所では常々そういった人物たちが紙など五十年も保存できない、情報が歴史から抹消されてしまうなどと嘆いている様を目にすることができるだろう。しかしながら私のような一般的な労働者には関係ない話でしかなかった。
砂色のズボンに縫い付けられた二つのポケットの右側から方位磁針を取り出し方角を認知する。この場所において闇雲に歩き回るということは死へと続く道を歩いている事と同義。
今の私は気温の温もりに反して震えていた。このままでは命の終わりが来てしまうかも知れない。乾いた荒野の一部へと変わり果て、それでも消えない骨だけが遺されて。
そのような終わりなど御免だ。
今は問題ない、まだ空腹は感じていない。今に思えば喉の渇きが心の内で叫んでいるようだ。本能の声には逆らうこともできまい。
バックパックよりキュウリを取り出して先を齧り、荒れ地に荒々しい言葉の代わりに吐きつける。私の故郷では昔から荒野への出かけやちょっとした旅、特に日帰りの旅を行うときにはキュウリを持っていくように伝えられていた。昔は首を傾げて納得のいかない表情をしていたものの、今ならわかる。水分が不足した身体は瑞々しさを残したキュウリを全力で欲していた。
素早くキュウリを噛み締める。水分が隅々にまで行き渡り、生き返ったような感覚を持って来てくれる。
そこまで来て私は一つ、疑問を見つけた。
私は何故倒れていたのだろう。何が起きて私は眠っていたのだろう。強盗などではあるまい。
疑問は私の脳に電気を送る。背中を刺すような鋭い気配、無視してしまえばたちまち終幕を迎えてしまいそうな、不穏な感触が迫っていた。
気が付けば肩に提げていたホルダーよりナイフを取り出していた。対人用であり、あまり硬い相手への攻撃は通ることないそれ。しかしながら構えずにはいられなかった。
嫌な予感が全身を這う。寒気は秒など数える間もなく顔を見せていた。微かな足音が耳に届いていた。
このままでは殺されてしまう。
生き延びるために振り返る。ナイフをしっかりと握り締めて視線の動きを追い、ぶれが生じる視界の中で殺意を向けてくる存在の正体を確かめる。
荒れ地に吹き荒れる砂をも弾くような多量の毛に覆われた四足歩行の生き物の姿を目にし、彼らの縄張りの中にいるのだと悟った。
あの犬のような姿をした生き物は縄張りに足を踏み入れた相手を襲い、縄張りの奥にまで引きずり込んで仲間と共にごちそうさま、そんな習性を持った生き物。
私はナイフに想いを委ねる。
私はナイフに身体を委ねる。
私はナイフに意識を委ねる。
私はナイフに命を委ねる。
私はナイフに存在を、私は、私は。
気が付けば目の前の生き物に突撃していた。一度刺そうと勢いよく突いてみるものの、身体を覆う大量の毛が絡まって上手く肉へとたどり着けずに力の限り引き抜いてもう一度突き出して。そうして地にまき散らされ植物を濡らす紅い涙は私の罪だろうか。
疲れ果てるまで何度も繰り返し相手の動きを奪うように私の思いのままに時間を動かし気が付いた時には倒れた獣に背を向け駆けだしていた。
方位は反対向きであったものの、今のまま進んでも餌となってしまうだけだろう。今の状況へと何度でも運ぶことが出来るとは到底思えなくて彼らの縄張りから遠ざかり、迂回する。
荒れた土地の乾いた空気を吸う度に肺が焼けるような痛みに襲われる。
歩き続けている間の感情はどこへと失われてしまったのだろう。何を感じていたものか覚えていない中で街にたどり着いたその時には星々をお迎えした闇の空の姿が見受けられた。