その日の午前中、いつもの部室にて。
「モヤシこの野郎、お前――」俺がビートを叩きはじめた途端、額に絆創膏を貼ったイナズマちゃん先輩が飛び上がった。演奏を止めて駆け寄ってくる。「グルーヴを覚えたのか⁉」
「はい。俺、ちゃんとできてますか?」
「できてるも何も――」イナズマちゃん先輩が『キング・ホワイト・ストーンズ』の面々へ視線を巡らす。皆、嬉しそうに頷いてくれている。「完璧だ! メトロノームどおりでありながら、グルーヴ感に満ちた、最高のビート! 最っっっ強じゃねぇか。わははっ、いきなり覚醒しやがって。マンガかラノベの主人公かよお前この野郎。昨日、何かあったのかよ?」
「いやぁ、あはは」
アオ先輩と目が合った。アオ先輩は、小さく笑った。くれなゐ先輩とも目が合った。くれなゐ先輩は、肩をすくめた。イナズマちゃん先輩とシロ先輩が、首を傾げた。
さぁ、いよいよ決闘だ。ラスボス・本山先輩を、最高の演奏でぶっ飛ばそうじゃないか。
午後、再び部室にて。
「よう、モヤシ」ラスボスこと本山先輩が獰猛に微笑みかけてきた。「準備は万端か?」
昨日の今日だ。たったの二十四時間しか経っていない。けれど、本山先輩の顔も、初音先輩の顔も、決闘のために集まってくださった三・四回生の顔触れも、まるで十年振りかと思うほど懐かしく感じた。
「はい」俺はしっかりと頷く。事実だ。できるだけのことはやってきた。くれなゐ先輩も、アオ先輩も、そして俺も。きっと、イナズマちゃん先輩とシロ先輩だって。皆が皆、全力で戦って、準備して、今、ここに立っている。「始めます」
俺はスティックでカウント二回、三拍目から三連符のフィルイン。曲が始まった。『血とくれなゐ』。
この曲は、三角関係の歌だ。一人の少年と、二人の少女。少女たちは幼馴染で親友同士。少女たちは同じ少年を好きになってしまうが、少女の一人が親友のために身を引く。けれどその少女は後から猛烈に後悔して、一人、雨の中で泣き叫ぶ。その、壮絶な悲しみを、慟哭するようなギターソロが表現する。
失恋の歌なのだ。
いつになく、歌がよく聴こえる。歌声だけじゃない。ギターも、ベースも、シンセサイザーも。すべての演奏が、音の一粒一粒が、しっかりと耳に届いてくる。俺はそれらの音と調和する。そうだ、これが、これこそが、バンドメンバーと音を合わせるってことだったんだ。
俺は今まで、本当の意味では音楽のことが分かっていなかった。心のどこかで、音と演者を分けて考えてしまっていた。アオ先輩にはいろいろあった。くれなゐ先輩にもいろいろあった。イナズマちゃん先輩とシロ先輩とはまだ、それほど深い絆は結べていないが、きっとたくさん、いろんなことを抱えているのだろう。演者は音を奏でる装置じゃない。演者は人間で、そこには人生があって、悩みとか問題もあって、いろいろなことを抱えながら、生きている。生きて、ここにいて、こうして楽器を演奏している。それが、音楽なんだ。
俺は今、先輩たちと音を合わせている。以前の俺なら、四拍子の三拍目、『ツ・ツ・チャ・ツ・ツ・ツ・チャ・ツ』の『チャ』のタイミングで体を揺らして音を合わせつつ、〇.〇数秒だけ遅らせて……とか何とか、必死に理屈で考えていたことだろう。もちろん理屈も理論も大切だ。教本や解説動画で勉強するのも大事なことだ。けれど最終的には、音楽は人の心に訴えかけるものだ。魂で奏でるものなんだ。
今なら、夏野ともちゃんと音を合わせられるような気がする。アイツの、『魂でビートを刻むんだよ! こう、ぐわーって感じで』みたいなふわっとした言葉にも、『はいはい、魂でね。こんな感じで良い?』って上手い具合に対応して、アイツと俺の双方が納得できる演奏を――落とし所を披露できるかもしれない。『成長』と呼ぶにはまだまだ全然ショボいかもしれないけど、俺は確かに、この半年間で変わることができた。
今回のことで、俺はいろいろと学んだ。けど、俺はまだまだ未熟だ。きっとこれからも、たくさん失敗するだろう。それもまた人生であり、音楽だ。
気が付くと、曲が終わっていた。
俺たちは、万雷の拍手に包まれていた。
結果は、圧勝。
本山先輩は、『やれやれ』という顔をして、肩をすくめてみせた後、俺に握手してくれた。やっぱりガチのリア充イケメンってのは、すごいな。敵わないや。
こうして俺たちは、学祭中庭ライブの出場権を手に入れた。
あっという間に一ヶ月が過ぎた。そうしてついに、運命の十一月五日――学祭当日。
「どうですか、アオ先輩? お父さん、来てました?」
最後の練習の合間、息抜きに中庭のライブ会場を見に行っていたアオ先輩が、部室に戻ってきた。
「う、うんっ。来てた、来てた。目が合いそうになって、逃げてきちゃった」
「いや、そこは目ぇ合わせましょうよ。アイコンタクトを俺に教えてくれたの、先輩でしょ」
「うん……」もじもじしているアオ先輩の背中を、
「シャキっとしてください、アオ!」くれなゐ先輩がバシーンと叩いた。「いよいよ、新生『青子緑子』が始まるんですから」
「痛っ、痛いってくれなゐ! このっ」くれなゐ先輩に逆襲するアオ先輩。「うりゃうりゃ」
美女・美少女がじゃれ合う姿を、俺は微笑ましい気持ちでいっぱいになりながら眺めている。あれから、くれなゐ先輩とアオ先輩は、何と言うか仲良くなった。一ヶ月前――あの、告白劇の前まで存在していた見えない溝のようなモノが、なくなった。
一方の俺とは、二人とも適切な距離感を保ってくれている。距離を取られているというわけではなく、男女のカンケイを想起させるような過剰なスキンシップは取らないでいる、という意味で。どちらかと付き合うにせよ、付き合わないにせよ、結論を出すのはライブの後だと三人で決めたからだ。
「さぁ」アオ先輩がパンっと手を叩いた。途端、全員が私語を止めてアオ先輩に注目する。「最後の通し練習、始めるよ」
「「「はいっ」」」
あいにくの曇り空だった。天気予報によると、大雨・落雷の予想まで出ている。が、中庭は観客で溢れ返っていた。
「モヤシちゃん。アレ、何だか分かるかい?」舞台袖での待機中、アオ先輩が小声で聞いてきた。先輩が指差す先にあるのは、巨大な、黒光りする、一メートル四方の物体だ。
「何ですか? 分かりません」
「アレはね、バッテリーさ。万が一、電柱やら何やらに異常が発生して給電できなくなったときに、五分間だけ給電してくれる装置なのさ」
「これだけの量のマイクとスピーカーを五分間も? それはすごい」
「この曇天だ」とイナズマちゃん先輩。「そこらの電柱にでも落雷して、そのバッテリーのお世話になったりしてな。イナズマだけに――もがっ」
「こーら、イナズマちゃん。そういうフラグっぽい発言は禁止やで~」大柄なシロ先輩が、イナズマちゃん先輩の口を塞いで抱え込む。
「何すン……もがもが」シロ先輩に抱っこされて、大人しくなるイナズマちゃん先輩。やっぱり百合の波動を感じる。
そうして数分後、前のバンドの演奏が終わった。
「次は、『キング・ホワイト・ストーンズ』の皆さんでーす!」
MCに紹介されながら、俺たちは舞台に上がる。
「お集まりの皆様、『ボーカロイド』って聞いたことありますか~? 初音ミクや――」
俺たちは手早くセッティングを行う。俺はドラム椅子の高さを調整し、タム・タム・タム・スネアの高さと角度、ハイハット・左クラッシュシンバル・右クラッシュシンバル・ライトシンバルの高さを調整。
「――それで、こちらのお美しいボーカルさんが、何とその、伝説のボカロP『青子緑子』その人なのです!」
やはり『青子緑子』の知名度は抜群らしく、客席がざわめいた。『青子緑子って、ニコ動でしょっちゅうランキング入りしてる、あの?』『可愛いイラストのやつか』『有名人じゃん』『え、マジ本人?』『わっ、可愛い!』『え、めっちゃ美人じゃん。動画アップしたろ』ってな感じの声が上がり、一斉にスマホを向けだす人・人・人。
わっはっはっ。アオ先輩のお父さんよ、これが『青子緑子』のパワーですよ。良い感じだ。あとは、この日のために練習に練習を重ねた、珠玉の五曲をお父さんの耳に届けるだけだ。
「それでは、どうぞ!」MCが舞台袖にハケていく。
人生最初で最後の、最高の二十分間が始まる。
小雨が降りはじめていた。俺はスティックを振り上げる。カウントを――
――ピシャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!
瞬間、視界が白で染まった。視界はすぐに戻ってくる。が、
「お、音が出ねぇ⁉」
「こっちもや!」
慌てるイナズマちゃん先輩とシロ先輩。他のメンバーも同様だ。
もしかして、落雷? 構内の電柱に雷が落ちて、停電した⁉
「そ、そんな……アオ先輩の人生が懸かった二十分間が!」
ここまで来たのに。たくさんの困難を乗り越えて、ようやくここまで来れたのに!
「大丈夫!」声の方を見れば、アオ先輩がいた。落ち着いた様子で、「すぐに外部バッテリーが作動するから」
良かった……いや、全然良くない。五分しかない! 五分じゃ足りない!
「五分もある!」
アオ先輩が、俺たちが敬愛して止まないバンドリーダーが、叫んだ。
「一曲目『モヤシマシマシロックンロール』のAメロ・Bメロ・サビ! ドラムソロ一小節で300bpmにリズム変、二曲目『青天の霹靂』に繋いで――」
アオ先輩が、天才ミュージシャン『青子緑子』が、残り四分三十秒で完結可能な極上のメドレーをその場で組み立ててしまった。
最高だ。最高だよ『青子緑子』!
俺はスティックを振り上げる。演奏が始まる。
「――もももも・ももも・ももももやし♪ もやしマシマシロックンロール♪」
一秒も、1bpmもムダにはできない。ただ慌てて走って演奏すれば良いというわけではない。各曲には、理想のテンポが、理想のbpmがある。
この演奏には、アオ先輩の将来が懸かっているんだ。
人ひとりの人生の懸かった、五分間なんだ!
「――イケメンな彼女を恋に落とす衝撃♪ セイテンノヘキレキ♪」
イナズマちゃん先輩が飛び跳ねながらベースを演奏する。
「――キミのホワイトアウト溶かしてみせるよ♪」
シロ先輩のシンセサイザーはいつだって冷静で安定していて、暴走しがちな俺たちの演奏を優しく包み込んでくれる。
「――血豆だらけの手指でギターかき鳴らし♪」くれなゐ先輩が情熱的なギターを奏で上げる。「僕の音楽でキミの心に火を灯す血とくれなゐ♪」
くれなゐ先輩ってば、また左手から血を流してる。痛いだろうに、あれで笑顔だってんだから恐れ入る。やっぱり、少年ジャンプの主人公なのかもしれない。
「――生れ落ちる前からキミのことが好きだった♪ 一生をかけてキミを探してきた♪」
アオ先輩の歌声が聴こえる。半年前、入部試験のときに聴き惚れて、練習の度に惚れ直し、半年もの間聴き続けているにもかかわらず、飽きることができなかった声。一日として忘れることのできなかった声。今なお俺を夢中にさせ続ける歌声。
「――曲がり角は全て曲がった♪ 祈るような気持ちで探し続けた♪」
アオ先輩! アオ!
「――キミだけがボクの居場所だった♪ さまよい込んだキミのココロ、海の中、ボクはやっと、ボクの居場所を見つけた♪ 0と1、生と死、青と緑のハザマで♪」
カンペキなリズム、カンペキなbpm。
カンペキなバンドメンバー、カンペキな演奏。
アオ先輩が歌いきるのとまったく同時に、全ての機材が沈黙した。
外部バッテリーが、役目を終えたのだ。
いつしか、空は晴れていた。
――ワァアァアアアアアアアア~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!
割れんばかりの歓声と拍手を耳にして、俺は俺が、自分の仕事を果たせたことを知った。
アオ先輩と目が合った。アオ先輩が、大きく口を開けて笑っている。
俺は大急ぎで立ち上がり、中庭の片隅のテントを見る。
「あぁ、良かった」
厳しそうな男性――アオ先輩のお父さんが、そっと拍手しているのが見えた。
こうして、俺たちの学祭中庭ライブは――俺たちの物語は終わった。
いや、後日談がある。それも、とびきり陽気なやつが四つも。
一つ目は――
「ちょっと、離してくださいよ、先輩方!」
ライブの後、俺はアオ先輩とくれなゐに両腕を引かれて、校舎の裏へと連行された。
「なっ、何ですか? 二人とも、何か顔が怖いんですけど……」
「「…………で」」
二人が仁王立ちして、言った。
「「どっちと」」「付き合うの?」「付き合うんですか?」
二人とも、笑っている。目、以外は。
「「やっちゃん?」」
怖い。誰か助けて。
二つ目は、一週間後に学園祭ライブのやり直しが開催された、という話。
考えてもみれば当然の話だ。あの五分の後のバンドは――プロミュージシャンも含めて――全部、演奏できなかったんだから。そりゃ仕切り直すよね、というお話。
俺たちが死に物狂いで五分間の演奏をしなくても、やり直しライブでアオのお父さんに演奏を届けることはできたわけだ。
とは言え、あの五分間のメドレーは録画・UP・拡散されて有名になっており、『青子緑子』の良い宣伝になった。青子緑子の中の人がめっちゃ美人って評判だ。あと、美女・美少女揃いのバンドの中で唯一男の俺がめっちゃ叩かれてた。
『何このモヤシ』
ってコメントを見つけたときには、号泣しそうになったよ。アオ先輩とくれなゐ先輩がよしよししてくれたから、耐えられたけどさ。
そして、三つ目。
「アオ先輩、俺、一ヶ月前からずーーーーっと気になってたことがあるんですけど」
「ん、何だい? 何でも聞くと良い。ボクのスリーサイズかい? それなら上から――」
「声!」
「ん?」
「何でアオ先輩が赤ちゃんだと気付けなかったのかずっと不思議だったんですけど、声が全然違うんですよ。十年前と、全然、まったく! 十年前の赤ちゃんの声は、言っちゃ何ですけど、か細くて、弱々しくて、とてもボーカルに耐え得るような声じゃなかった」
「声のことは、ボクもずいぶん悩んださ。変えようとして、いろいろ試してみたものだよ。ボイトレ、ヘリウムガス、デスソース直飲み――」
「デスソ直飲みって、よく生きてますね……」
「どれも駄目だった。けれど、最後の最後で泣きながら試したやつが、上手くいった」
「泣きながら? 何を試したんですか?」
「ほら。舌の先、ちょびっと欠けてるだろう?」
「ま、ま、まさか……『コインロッカー・ベイビーズ』⁉ 先輩の部屋に転がってた文庫本! アレ、伏線だったのぉおおおおおおおおおおおおおおおお⁉」
「キミとボクがこの先どうなるのかは、まだ分からないけれど。もし付き合うことになったなら、そのときはしっかり味わわせてあげるよ」
そう言って、アオ先輩は舌の先をチロチロと見せながら笑った。
四つ目。
学園祭ライブの数ヵ月後、超有名ボカロP『青子緑子』がファーストアルバムを発売した。
さらにその数ヵ月後、青子緑子のコピーバンド『キング・ホワイト・ストーンズ』がYouTubeでランキング入りするようになった。アオとアオの父との折衷案で、リアルバンドとしても活動することになったんだ。
そんなわけで、使い捨てバンド『キング・ホワイト・ストーンズ』は使い捨てではなくなった。今日も今日とて俺は、賑やかなバンドメンバーたちと一緒に練習に明け暮れている。
俺たちのアオい春は、まだまだ終わらない。