『やーい、あおみどりのヘドロ女!』
自分の名前が嫌いだった。碧(アオ)と名付けた両親のことも。
仕事ばかりで家に寄りつかない父と、そんな父への呪いを囁き続ける母。幼い頃から父の悪口を聞かされ続けてきた私には、父が悪なのか正義なのか、母が言っていることが正しいのか間違っているのか、まるで判断ができなかった。ただ漫然と、毎日が怖くて、ビクビク、オドオドする子供になっていった。
碧。碧。碧。青とも緑ともつかない、曖昧な名前。専業主婦で、ずーっと家にいて、目が合えば父の悪口をボクにすり込もうとしてくる母と、それを曖昧に微笑んで受け入れる私。曖昧な境界線。曖昧な私。
『あおみどりのヘドロ女! 臭いんだよ!』
外を歩けば、近所の男子たちに追いかけ回される。学校にも家にも居場所はない。
鬱屈した気持ちはリストカットにぶつけた。手首を切るとすっと気持ちが落ち着いたが、母はそんな私の頬を叩き、ヒステリックに泣き叫んだ。泣きたいのはこっちなのに。
幼馴染で親友のくれなゐに相談したら、『気分転換に』と音楽教室に連れていってくれた。
そうして私は、出逢った。運命の人に。
離れたくなくて、絶対に手放したくなくて、次に逢う約束を取りつけた。次に逢ったときには、その次に逢う約束を。私たちは瞬く間に仲良くなって、彼氏彼女になった。
「赤ちゃんは、作曲しないの?」
いつもの、『放課後・休日音楽教室』でのことだった。やっちゃんが、急にそんなことを言い出したんだ。
「え?」
「だって」ドラムスティックをクルクル回転させながら、やっちゃんが微笑む。「赤ちゃんってよく、即興で曲作るでしょ?」
「コレのこと?」
――タラリラタラリラ♪
それっぽいコード進行を左手で刻み、右手でジャズ調のメロディーを乗せる。すぐに、やっちゃんがドラムで乗っかってきた。さすがはやっちゃんだ。数分ほど演奏した後、キリの良いところで終わる。
――ジャン♪
私のピアノに合わせて、やっちゃんがクラッシュシンバル。からの、スネア×2とキックで小さく締め、クラッシュシンバルを掴んでミュートする。最も短い、エンドのフィルイン。私が最初に覚えたフィルイン。
「こんなの、誰にでもできるよ」
「でも、僕は赤ちゃんのメロディー、好きだけどな」
「そ、そう?」顔が熱くなる。「て、照れるよ……」
私は暴走気味にピアノを弾きはじめる。四拍子・三拍子・七拍子に五拍子。変拍子というか、もはや『無』拍子と化した私のめちゃくちゃな演奏に、やっちゃんが難なくついて来る。私が主導しているはずが、逆にやっちゃんの作るリズムに私が引っ張られていく。さすが、相変わらずのリズムモンスター。
「聴いてみたいな」
可愛い可愛い年下彼氏にそこまで言われてしまっては、引き下がるわけにはいかない。
翌日の放課後、音楽室にて。
「すごい……すごいすごいすごい!」やっちゃんは、私が披露した曲に大興奮だった。「カッコイイ~~~~!」
「え、えへへ、そうかな?」
「歌! せっかくだから歌にしようよ!」
「でも私、歌とか歌えないし」
やっちゃんに地雷系のゴスロリファッションを贈ってもらった日から、私は少しずつ自己肯定感を高めていった。イジメられそうになったら、やっちゃんが飛んできてくれる。演奏をしたら、やっちゃんが『上手い』と褒めてくれる。現に今だって。けれどさすがに、歌を披露するのはハードルが高い。
「『初音ミク』ってのがあるよ。ボーカロイドって言うんだって」
そう。その頃はまだまだボーカロイド黎明期。『歌わせてみた』と『歌ってみた』の黎明期だった。それから十年。私がこの世界に食い込むことになるのは、まだまだ先の話。
「でも、お金ないし」
「僕が買うよ!」
「悪いよ」私はフリフリの地雷系スカートの裾をつまむ。「やっちゃん、お年玉前借りしちゃってるんでしょ?」
「可愛い彼女のためなら余裕余裕」
「そこまで言うなら」胸がときめいたのを覚えている。「あ、でも私、作詞したこと、ない」
「じゃあ僕が書いてくる!」
「こ、これは……」
その翌日、いつもの音楽室にて。
「『キミは漆黒のエンジェル 羽をもがれたタナトス 円環の理に導かれ 愛を謳うアフロディーテ』……」な、何だろう、何だろうコレは。少なくとも、世に出して良いものではないということだけは、分かる。「や、やっぱり私が作曲してみるね!」
「えー」
さらに翌日、
「書いてきたよ!」
「見せて見せて! わーっ、すごいすごい! ちょっと物足りない気もするけど……ここなんかはこうして――」
「あ~っ、やっちゃんはセンスが少しだけアレだから。このくらいがきっと良いよ、うん」
「そう? まぁ、赤ちゃんがそう言うなら」ノートPCを取り出すやっちゃん。「じゃあさっそく、歌わせてみようよ!」
「そ、それは……?」
「お父さんに借りてきた。初音ミクもインストール済みだよ」
「行動力ぅ!」
さらにその数日後、
「「できたーーーーっ‼」」私とやっちゃんは、やっちゃんの部屋でハイタッチしていた。念願の、私の初めての曲が完成したからだ。
「YouTubeとニコニコ動画にUPしてみようよ!」グイグイくるやっちゃんと、
「で、でも、ああいうのってイラスト要るんでしょ?」引き気味の私。
「ふっふっふっ、そんなこともあろうかと」やっちゃんがノートPCのフォルダを開いた。「灯センセに描いてもらってきてるんだ!」
「えぇええ~~~~っ⁉」
歌姫風な衣装の女の子が高らかに歌い上げている一枚絵。親友・くれなゐが休み時間に絵を描いているのは知ってたけど、こんな、ここまで上手かったの⁉
「動画編集ソフトの使い方も覚えてきた。さぁ、動画作りの時間だ」
さらにその数日後、
「「できたぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」」私たちはハイタッチ。
「さっそくUPしてみようよ」
「うん!」
そのときのアカウントがどれだったかは、もう覚えていない。私はテスト用に、いくつものアカウントを作ったり消したりしているから。
正直、あのときの動画は曲も詩もボカロ調教も未熟で、そもそもコンセプトがあいまいな拙い一本だった。それでも、ボカロ動画黎明期というブーストもあってか、最終的に一万再生を超えた。
アレをUPしてからの興奮は、毎日のように再生数を眺めながら過ごすワクワク感は、今もボクの胸の奥底に刺さったままだ。やっちゃんと一緒にF5キーを連打して、待ったものだった。再生数『1』(私自身が再生した分だ)が『2』になった瞬間の喜びは。それが『3』になり『4』になり、『10』を超えたときの興奮は。再生数が数十を超え、初めて『うぽつ』コメがついたときの衝撃は!
これは、動画をUPしたことのある人にしか分からない快感だろう。私はあっという間に、その快感の虜になった。溺れた。見てる。見てくれてる。何千人もの人が、私のことを見てくれている!
「離婚する」いつもは家にいない父が珍しく帰ってきたと思ったら、その一言だった。「母さんは入院することになった。お前は私が養育する。悪いが転校してもらう。大阪の小学校だ」
「そんな、急に――」
「すまんな」
こうして母がいなくなり、私は晴れて一人ぼっちになった。一人になって初めて気付いた。あんな母でも母だったんだ、って。閑散とした部屋。相変わらず家に寄りつかず、仕事一筋の父。いざ、誰とも会話しない生活が何日も続いてみて、会話のない日々がこんなにもつらいものなんだと気づいた。
……やっちゃんとも別れてしまった。それも、連絡もせず、私の方から一方的に。
私のすべてを支配したがっていた母と離れたことで、母が管理していたスマホも失った。新しいスマホを父がくれたけど、電話番号は変わってしまった。それでも、私はやっちゃんの番号を知っていたから、こちらから連絡すれば繋がりを維持することは簡単だった。
けど、そうしなかった。なぜ、そうしなかったのか? あれほど大好きだった彼を、一方的に切るような真似をしたのか?
……怖かったんだ。やっちゃんとの遠距離恋愛をちゃんと続けることができるのかが。怖かったんだ。動画投稿の喜びが、積み上がる再生数をニヤニヤしながら眺める時間が、やっちゃんと過ごす時間に匹敵するほど楽しくなりつつあるのを認めるのが。やっちゃんへの興味が、あれほど強かったはずの執着が、愛が、日に日に薄れつつあるのを自覚するのが!
やっちゃんと出逢ってから、幸せだったんだ。幸せだった。生まれてからずっと、青と緑のハザマをフラフラ歩いていた私の手を、やっちゃんが握ってくれたんだ。強く握ってくれて、曖昧な世界から引っ張り上げてくれた。だから、私の『一番』は、やっちゃん。けれど――。
承認欲求。
承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求承認欲求!
この、悪魔みたいな欲求は、私の『一番』をいともたやすく侵食していった。このままでは喰い破られる。私が一番大切なモノが、私が世界で一番愛してるモノが、覆されてしまう!
やっちゃんが私を承認してくれるだろう、って? そうさ、あの子はいつだって私を承認してくれる。けれどあの子はあくまで『一』だ。私の目の前には、『一万』もの承認が横たわっている。例えばクラス全員に。学年全員に。何十人、何百人に嫌われても、たった一人愛する人がそばにいればそれでいいだろう、って? あはは、それはそう。けれどそれは、百レベルでの話。『万』の喜びを――抗いがたい快感を知ってしまった人間は、その快感から逃れ難くなる。それ以外のことに、時間を割きたくなくなってしまう。
今は表面上、仲良くできているやっちゃんとの関係を、決定的に『面倒』と感じる瞬間が、きっと来る。来てしまう。
だから、逃げた。
あらゆる連絡手段を絶って、一方的に絶縁した。
私の世界から私の『一番』を――やっちゃんを消した。
代わりに『青子緑子』を作って、新たな私の『一番』にした。
私は、最低だ。最低の人間だ。
そうして、八年もの年月が過ぎた。
私は――『ボク』は、高三になっていた。
♪ ♪ ♪
アオ先輩が、息を吐いた。長い長い告白を終えて。十年分の息を吐き出した。「その後のことは、以前、話したとおりさ。『隠し事』の二つ目の話だ」
そう。父親に進路のことを相談し、『青子緑子』のことを明かしたら、敵扱いされてしまった。頑なに曲を聴いてくれない父に何とかして音楽を届けたくて、父が毎年学祭中庭ライブの設営を行っている■■大学に入学し、父が立ち会う中庭ライブに『青子緑子』のコピーバンドで出場しようと頑張った。
「あの頃のことは」くれなゐが言う。「二人が別れた頃――やっちゃんが一方的に捨てられた頃のことは、よく覚えています。あの頃のやっちゃんは、本当に、可哀想なほど落ち込んでいて……毎日うつむいてばかりで、何度声を掛けても、まるで反応してくれなくて。ひどい話ですけど、正直言って私、チャンスだと思いました。アオに捨てられたやっちゃんを慰めて、今度こそ彼女にしてもらうチャンスだ、と。けれどやっちゃんの傷はあまりにも深くて、痛々しくて、私はやっちゃんの心にちっとも入ることができなくて。やっちゃんの中で、アオがいかに大きな存在だったのかをまざまざと見せつけられました」
そうだったのか……。言われてみれば、段々と思い出してきた。あんなに好きだった赤ちゃん。その赤ちゃんが、ある日突然いなくなって、一切の連絡が取れなくなって、赤ちゃんの家に行っても、もぬけの殻で。
何度インターホンを押しても、電気が通っていないのか音が鳴らなくて、当然ながら誰も出てこなくて。赤ちゃんの家の前で、夜になるまで呆然と立ち尽くして。パチパチという音とともに街灯が点きはじめてようやく、『捨てられたんだ』って気付いた。
俺の何が悪かったんだろう、どうすれば良かったんだろう、あんなに楽しそうに笑っていたのも全部嘘だったんだろうか、何を信じれば良いんだろう……ってぐるぐる考えているうちに、俺はすっかり臆病な性格になってしまったんだ。中学から背が伸びなくなって、今みたいな性格になってしまったと思っていたけれど、実際は違った。赤ちゃんに捨てられたことがあまりにもショックで、今みたいな『僕』に成り果ててしまったんだ。
「ボクはキミから逃げ出した。とはいえ同じ関西圏内だ。街で偶然、すれ違う可能性もゼロじゃない。だから、万が一にもキミに気付かれないよう、徹底的にキャラを変えた。地雷系は止めて、いろいろやってみて、今はこんな感じのファッションに落ち着いている。イメージカラーは、当時の『赤ちゃん』というあだ名からは縁遠い碧にした」アオ先輩は、碧色のネイルの載った手指で、インナーだけを碧に染めたセミロングの髪をかき上げる。「言動も変えた。昔の私は泣き虫で、弱々しくて、『青子緑子』が持つ無敵のイメージとはほど遠かった。だから、ダウナーでミステリアスで、超然で泰然とした感じのキャラに作り変えていった。半分は、いざメディアに露出したときやライブに出るときのための準備だったわけだけど」
「そうだ、そう言えば」俺は常々疑問だったことを口にする。「そもそも何で、アオ先輩は十年前、『赤ちゃん』って名乗ったんですか? その後も、頑なに本名を教えてくれなかったような記憶が、おぼろげながらあるんですけど」
「青も緑も大嫌いだったから」手首をさする先輩。「今となっては大好きな芸名だけどね。どうだい、キミの元カノの、十年後の見た目は? 赤ちゃんの頃とはまるで違うだろう?」
確かに。ときどき、妙な懐かしさや既視感を覚えて不思議に感じるときはあったものの、基本的に俺は、アオ先輩が元カノの『赤ちゃん』だとはまるで気付いていなかった。ただ、四月三日のあの日、俺は間違いなくアオ先輩に一目惚れした。好みのど真ん中だったのだ。十年前も、一目惚れだった。何年経っても、どんな格好をしていても、俺が一目惚れする相手は決まっているらしい。
「ボクはボクの都合で、一方的にキミを切り捨てた。キミを深く深く傷付けた。そんなボクが、今さらどの面下げてキミに逢えるというんだい? ボクにはその資格がない」
そう、か。それが、『資格』の話。
「本来なら、キミの前に姿を現すことすら許されるべきじゃない。けれど学祭中庭ライブのために、どうしてもやっちゃんの力が必要だった。だから苦肉の策として、別人として現れることにした。万が一にもボクの正体が『赤ちゃん』だとバレないように、いろいろと準備した。その一つが――」
「くれなゐとの、入れ替わり」
「そう。ボクは赤系統の地雷系衣装を買い集め、くれなゐに贈った。くれなゐに地雷系メイクも教えた」
『おまっ、何なンだその格好⁉ イメチェンか⁉』
『地雷系やんか~』
『しーっ、しーーーーっ! やっちゃんが来ちゃうでしょ!』
「呼び方も変えた。もっとも、『赤ちゃん』呼びの方はあまり定着しなかったけれど。そして、二つ目の準備として、夏野に取り入って、やっちゃんを追放させた」
「分からない。別人として現れることと、俺の追放が、どういう理屈で繋がるんですか?」
「だって」アオ先輩が泣きはじめる。ポロポロ、ポロポロと泣きはじめる。その涙を拭って良いものか、俺には判断が付かない。「あの頃のボクにとって、やっちゃんはヒーローだった! 神様にも等しかった! ボクをイジメから守ってくれて、ボクを母さんの呪縛から開放してくれて。ボクとやっちゃんの関係性は、絶対的にやっちゃんが上だったんだ。かつてと同じようにキミに接したら、ボクは遠からず、必ずキミに甘えてしまうと思った。昔の、弱い『私』に戻ってしまうと思った。そうなったらいずれ、やっちゃんはボクの正体に気付いてしまうだろう。それは絶対に避けなければならない。だから、どんなに卑劣な手を使ってでも、やっちゃんを弱らせる必要があった。弱ったやっちゃんに手を差し伸べる必要があった。そう、かつて『私』に手を差し伸べてくれた、やっちゃんのように」
なんとなく、分かった。彼女が俺を追放させた真意が、悪意ではなかったことが。あと一押し。最後のピースが欲しい。「だからって、俺を欺くような真似までしなくても――」
「ボクは!」赤ちゃんが泣き叫んだ。「やっちゃんとの思い出を守る必要があったんだ!」
……え? 俺との思い出を守るため?
「だって!」アオ先輩が――赤ちゃんが、泣いている。「『青子緑子』で大成功しなきゃ、全部嘘になってしまう! やっちゃんを裏切ってまで選んだ道が、嘘になってしまう! ボクには、青子緑子で大成功する義務がある。誰にどれほど恨まれようが、憎まれようが、青子緑子のことを最優先にして、最後まで貫き通す義務があるんだ」
あぁ、そうか。赤ちゃんは、守ってくれたのか。かつての俺を。俺とのカレカノの日々を。だから、赤ちゃんはなりふり構わなかった。たとえ現在の俺を傷付けることになろうとも、過去の俺を守ろうとした。してくれた。
すべてが繋がった。腑に落ちた。気が付けば、俺は泣いていた。俺は赤ちゃんの涙を拭う。
「じゃあ、もしかして、赤ちゃんは、今も、俺のことを」
「好き……」赤ちゃんが泣いている。俺の彼女が!「好き。大好き。十年間、ずっとずっと愛してた。今も愛してる。でも、ボクは怖かったんだ。承認欲求に溺れて、人生のすべてを『青子緑子』に注ぎ込みたくなるほどに、溺れて。他のことに時間を割くのが煩わしくなってしまって。もしも、もしもボクの心に、やっちゃんとの時間を『面倒だ』と思う瞬間が訪れたらどうしようって思ったんだ」
「だから、逃げた」
「うん。ごめん。ごめんなさい。本当は、ずっとキミのそばにいたかった。キミと一緒に音楽をやりたかった。でも、許されるはずがないじゃないか。やっちゃんのことは世界で一番好きだけど、ボクは『一番』を一つだけには絞れないんだ」
『青子緑子こそが、ボクの人生の中での一番。青子緑子のために、ボクは生きている』
『ボクは三つも四つも「一番大好き」を持てるほど器用な人間じゃない』
そう、か。赤ちゃんの心の中にある『一番』の席の片割れは、ずっとずっと、俺のために置いておいてくれたのか。
俺は、赤ちゃんが愛おしくなった。どうしようもないほど愛おしくなって、抱きしめたいと思った。が、くれなゐの手前、それはさすがにはばかられた。
「これで、全部」俺の心中を察したのか、赤ちゃんが一歩、二歩、三歩と離れた。「もう、『隠し事』はないよ。さぁ、どうだろう、モヤシちゃん?」
『モヤシちゃん』呼びに戻した赤ちゃん――いや、アオ先輩が、寂しそうに微笑む。
「ボクのこと、許せる? これでもまだ、一緒に音楽をやってくれる?」
確かにショックだった。普通なら、俺はここで怒るべきなんだろう。『よくも俺を捨てたな!』、『記憶を失くすくらいショックで、悲しかったんだぞ!』って。けど、アオ先輩の行為は全部、俺のためを思ってのことだったんだ。
答えなんて出るもんか。うやむやなままでもいいじゃないか。
これは、恋じゃない。音楽だ。
「許しますよ。あの日、言ったじゃないですか、『全力を尽くすと誓います』って」
俺は、アオ先輩を許した。今や、あらゆるわだかまりは消え去っていた。
「ありがとう」アオ先輩が微笑む。「それじゃあ……ボクは、行くよ。さすがに疲れた」
「えっ」くれなゐが驚く。「この流れで、私をやっちゃんと二人きりにさせてくれるんですか? 敵に塩でも送るつもりですか?」
「別に」アオ先輩が笑う。いつもの、口だけで笑うダウナーなやつだ。「キミとボクは敵同士ではないだろう? キミのイラストと、ボクの歌。ボクたちはいつだってチームだった」
「はっ、あはは! 言ってくれるじゃない。意趣返しってわけ?」
どうやら、俺の知らないところで何かしらのやり取りがあったらしい。
アオ先輩がひらひらと手を振りながら去っていき、俺はくれなゐと二人きりになった。今や夕焼けは去り、キャンパス内の電灯が点きはじめている。
「くれなゐ」
「!」話しかけると、くれなゐがビクリと震えた。
「その、ごめん、いろいろと」
「どうしてやっちゃんが――モヤシくんが謝るんですか? 悪いのは全部、私たちなのに」
「でも俺は、灯先生のことを忘れてしまっていた」
「それは、もう良いですから。それよりモヤシくん、これからどうします? 私たち」
一応、答えを俺に委ねながらも、くれなゐの中では結論は出ているようだった。なぜって、『やっちゃん』から意識して『モヤシくん』呼びに戻している。
「いったん、距離を置こう。今は、明日の決闘と、学祭ライブに集中したい」
「いったん? ふふ、いかにもモヤシくんらしい答えですね。優しくて、残酷な」
「くれなゐ――いえ、くれなゐ先輩。最後に一つだけ、教えてください」
「はい。何ですか、モヤシくん?」
「どうして、入れ替わりのことを明かしてくれたんですか? アオ先輩は、本当のことを話すのに乗り気じゃなかった。くれなゐ先輩が背中を押さなければ、秘密にし続けていたはずです。そうすれば先輩は、俺の彼女のままでいられたのに」
「そんなの――」くれなゐが、涙ぐむ。「好きだからに決まってるじゃないですか!」くれなゐが号泣する。「『青子緑子』の音楽が! このバンドが! だから、モヤシくんとアオの間のわだかまりをすべて解消させて、最高の状態で明日の戦いに挑みたかったんです」
「うん」俺はくれなゐを抱きしめる。「ありがとう、話してくれて」それから、体を離した。「この一ヶ月、最っっっ高に楽しかった。……さようなら、俺の恋人」
くれなゐとも別れて、俺は駅前の音楽スタジオへ。個人練習用の小部屋を借りて、ドラムを叩いた。いつものように左足でリズムをキープさせながら、同時に、グルーヴを感じるために体を大きく揺らす。
簡単な8ビート、ちょっと複雑な16ビート。灯先生から教えてもらったドラムの基礎。
ルーディメンツマシマシのえげつない16ビート。アオ先輩に叩き込まれた発展技。
無心になって叩き続ける。何時間も、何時間も。疲れはなかった。ただただ、胸が熱かった。じんわりとした熱が、魂みたいなものが感じられた。
「……ん、今」『何か』を掴んだような気がした。「何だろう、魂が震える感じ。これが、グルーヴ? は、はははっ。過去編を終えて、覚醒? ラスボスを前に、必殺技を習得? マンガやラノベじゃあるまいし、ご都合主義が過ぎるだろ」
けれども、まぁ、人生なんて、そんなものなのかもしれない。
ともあれ俺は、『グルーヴ』を覚えた。左足のリズムキープとグルーヴの共存のさせ方も、明け方になる頃には完全にマスターした。できることは、すべてやった。
家に帰って、シャワーを浴びて、少しだけ仮眠。
夢は見なかったと思う。