こうして、俺とくれなゐの幸せな日々が始まった。
一週間。夏休みが始まり、俺たちは十年の隙間を埋めるように、毎日デートした。学祭ライブオーデ用の新曲は、未だ出来上がらない。
二週間、三週間、四週間。学祭ライブオーデ用の新曲は、一向に上がってこない。海野アオはひどいスランプに陥っているようだった。
渡されたWBSは、次のとおり。時期は既に、八月末になりつつある。
大目標:学祭中庭ライブ出場(十一月五日)
小目標:学祭ライブオーディションの最上位合格
・オーデ動画撮影・提出(担当:全員、期日:十月一日)
・新曲作成(担当:アオ、期日:八月下旬)
・作詞作曲(担当:アオ、期日:八月中旬)
・各パート編曲(担当:全員、期日:八月下旬)
・譜面起こし(担当:アオ、期日:八月下旬)
・新曲練習
・各自練習(担当:全員、期日:九月上旬)
・全体練習(担当:全員、期日:九月中旬)
夏ライブはオーデ動画提出締切が六月末だったから、四・五・六と準備期間が三ヶ月あった。対して学祭ライブは提出締切が十月一日であり、準備期間が八・九とニヶ月しかない。いわばスタート時点から、『一ヶ月のビハインド』状態なわけだ。
ただでさえ余裕がないというのに、既に八月が終わろうとしている。海野アオが新曲を書き上げなければ、俺たちは編曲作業も練習も、何もできない。ここのところ、練習の時間はいつもピリピリしていて嫌な感じだ。海野アオは、日に日に憔悴していく様子だった。
俺はくれなゐとのカレカノ生活を満喫しつつ、ドラムの自主練に打ち込んでいた。海野アオがどれだけ高難易度な曲を書いてきても、どれだけ無茶な要求を突きつけてきても、余裕で叩ききってやるために。
まずは、現在の最高速度である272bpm(秒間九回)の持続時間の向上。毎日足が吊るまで貧乏ゆすりし、指が痛くなるまでスティックを振り続けた。余談だが、ドラムは腕力ではなく、重力と速度で叩く。人差し指と親指でスティックを軽く保持し、残る三本の指でスティックを弾くことで、超高速のビートを実現させる。貧乏ゆすりと指の痙攣を故意に引き起こし、1bpm刻みで制御させるのだ。訓練の甲斐あって、俺は272bpmを半永久的に(少なくとも一時間は難なく)継続できるようになった。
次に、最高bpmの向上。これも訓練内容は同じ。貧乏ゆすりと指の痙攣だ。八月いっぱい、これを続けることで、俺は前人未到の300bpm(秒間十回)目前まで速度を伸ばすことができるようになった。もっとも、295を超えてしまうと、一分と保たない。恐らく、人体の構造上、この辺りが限界なんだろうと思う。
さらに、あらゆる速度下での安定した演奏の練習。120~290bpmのあらゆる速度において、1bpmのズレもなく叩けるように徹底的に訓練した。
そんなふうにして、俺は俺自身をストイックに、徹底的に鍛えた。海野アオのことは許せないが、だからといってドラムやバンドのことで手を抜くつもりは一切なかった。
また、無駄かもしれないと思いつつも、海野アオが早く課題曲を上げられるように働きかけたりもした。例えばある日の練習中、
「海野さん、もう時間がありません。新曲にこだわらず、既存曲――『青子緑子』として発表済みの曲でも良いのでは?」俺は、海野アオに意見してみた。「練習不足で中途半端な曲をオーデに提出して、落選してしまったら元も子もありません」
「駄目だ。中庭以外――部活棟ライブハウス枠や、食堂棟中庭枠なら、既存曲でも獲れるだろう。けど、中庭枠を勝ち取るには、既存曲では足りない」
「どうしてですか。それこそ、百数十万再生を達成した『青と緑のハザマで』や、社会現象を巻き起こしてMADが大量に生み出され、五百万再生を達成した『セイテンノヘキレキ』のような名曲がたくさんあるじゃないですか。『ホワイトアウト』なんかもメチャクチャ良曲ですし」
「そうだよ。『青子緑子』のことを知らない人ですら耳にしたことがあるような曲だ。そんな曲を、今さら劣化コピーであるボクらが生演奏したとして、ウケると思うかい?」
「それは……」
「言っちゃ何だけど、ボクの曲はボカロ・ボイロに特化した打ち込みの曲だ。打ち込みの曲は、打ち込みでこそ真のポテンシャルを発揮する。なるほど確かに、モヤシちゃんのドラムは素晴らしい。くれなゐのギターも、イナズマちゃんのベースも、シロのシンセも、そしてボクの歌も、かなりのものさ。事前知識無しで聴いたら、魅了されること間違いなしだ」
「でしょう? だったらやってみましょうよ。俺、『青子緑子』の全十四曲をこの一ヶ月で完コピしてきましたよ」
「ふぅん、全十四曲を……って、全部⁉ 完コピ⁉ たったの一ヶ月で⁉」
「はい」
「それは……ありがとう。すごく嬉しい」
「別に、海野さんのためというわけでは……。思うところはあっても、俺は『キング・ホワイト・ストーンズ』のドラムですから」
「そう……だね」海野アオはしょんぼりとうつむいてしまった。
わざわざ言うべきではなかったのかも、とも思った。が、言わずにはいられなかった。俺もまだまだ子供なのだろう。
「確かに『青子緑子』の既存曲はどれも魅力的だ。けれど、コピーは所詮、コピー。打ち込みを無理やり再現しただけだ。ウチの部には『青子緑子』のファンが多い。審査員が誰になるのかは分からないが、まぁ間違いなく『青と緑のハザマで』を何度も聴いた人が選考することになるだろう。となると当然、ボクらが提出した音源を、オリジナルである打ち込みとの差異――つまり欠点を探す形で聴くことになる。どうしたって、加点方式ではなく減点方式で曲を聴いてしまうことになるんだ」
そういうものなのだろうか。
「だったら」俺はなおも食い下がった。「未発表かつ作曲済みのものはないんですか?」
「ないことも、ない。けど」
「聴かせてください」
「う、いや……」
「俺様も聴いてみたい」「ウチもウチも!」
バンドメンバーからの圧に押され、海野アオはノートPCをスピーカーに繋げた。
「「「あー、これは」」」俺、イナズマちゃん先輩の、シロ先輩の声が重なった。
「気分転換に作った曲さ。いかにもライブ受けしそうな、生演奏にピッタリの普通のロック。こんなの、『青子緑子』の曲じゃあない」
「でも、良い曲じゃねぇか!」イナズマちゃん先輩が、ベベベベバラベキベキっとスラップを効かせて音源にベースを被せた。上手い。「俺は大好きだぜ、こういうの」
シロ先輩が続いたので、俺もドラムを載せた。くれなゐだけは演奏もせず、無言だった。
「俺も、すごく良い曲だと思いますけど」
「ありがとう。でも、これじゃダメなんだ。これは『青子緑子』じゃないから。『キング・ホワイト・ストーンズ』はあくまで『青子緑子』のコピーバンド。ボカロ前提ではない曲でオーデを通過しても、意味がない」
「意味がないってことはないでしょう」
「オーデに使った曲は、必ず本番でも演奏しなくちゃならないルールなんだよ。こんな普通のバンドの曲を中庭で演奏してしまったら、お父さんに――」
そこまで言って、海野アオは『しまった』という顔をした。それっきり、海野アオはまるで砂抜き前の貝のように口を閉じてしまった。例の『三つの隠し事』の一つだろうか。あれこれと話しかけてみたが、海野アオは頑として喋ろうとしなかった。海野アオがここまで非協力的である以上は、もうどうしようもない。
また別の日には、『中庭にこだわり過ぎなくても良いのでは?』とも聴いてみた。学祭ライブには三つの枠がある。中庭枠と、部活棟ライブハウス枠と、食堂棟中庭枠だ。確かに最も多くの人が集まるのは中庭枠だが、先輩方の話では、他の二つの枠でも、百人以上の観客は集まるのだそうだ。だったら、できるかどうかも分からない新曲に賭けるよりも、『青子緑子』の既存曲を時間を掛けて練習し、手堅くライブハウス枠か食堂棟枠をゲットすれば良いのでは、と意見してみたのだ。結果は、
「ダメだ!」
の一点張り。
「ダメ……絶対にダメ。中庭ライブじゃないと意味がないんだ。ボクはそのために、そのためだけに、■■大学に入ったんだから……」
また、『隠し事』に関する新たな手掛かりが出てきたようにも思えたものの、肝心なことは何一つ答えてくれない海野アオなのだった。
そんなふうにして、さらに二週間が過ぎた。九月中旬。オーデ動画提出期日の十月一日まで、残すところ、あと二週間と数日。
「逃げちゃいませんか?」
とある、デートの日の帰り。
くれなゐが、そう言った。
「『キング・ホワイト・ストーンズ』のことも、アオのことも、オーデのことも全部全部ぜーんぶ忘れて。二人でバンドを抜けて、バンドとの連絡手段も全部絶って。二人だけで、逃げちゃいませんか?」
そう言って、今にも泣き出しそうな顔で微笑むくれなゐは、とても綺麗だった。ひと気のない公園で、夕焼けに照らされたくれなゐは、幻想的なほどに綺麗だった。
「私、やっちゃんのこと幸せにしますよ」くれなゐが、手を差し出した。俺の手に触れてくる。「私を選んでくれたら、私、やっちゃんのこと、一生掛けて幸せにしますよ」
この問いは、単に『もう面倒になったからバンドから抜けよう』とか、そんな単純な話ではなかった。もっと根源的な、くれなゐが一世一代の一大決心のもとに切り出した、大きな大きな問いかけだった。その証拠に、くれなゐの手は震えていた。可哀想なほどに。
くれなゐが、俺を見つめている。強い眼差しで。俺は、俺は――。
つまるところ、これは二択だ。くれなゐを選ぶか、『キング・ホワイト・ストーンズ』を選ぶか。もっと言えば、くれなゐを選ぶか、海野アオを――アオ先輩を選ぶか、という選択。
「は、はは」迷うまでもない。俺はくれなゐを選ぶ。だって、海野アオは俺を裏切ったんだ。迷うまでもないさ。本当だ。本当――――……本当に?
くれなゐの手を取ったが最後、『キング・ホワイト・ストーンズ』は終わる。俺のバンド人生は、四月から始まったこの日々は、終わる。どうしようもなく、終わるんだ。それでいいのか?
俺はすぐに、くれなゐの手を握り返そうとした。健気に俺の言葉を待ってくれているくれなゐが可愛くて、愛おしくて、一秒でも早く安心させてあげたいと思った。
けれど。あぁ、けれど。指先がくれなゐの手に触れた瞬間、なぜか、あぁ、本当になぜか、あの日の――七月三十一日の、俺が海野アオに告白したあの日の、海野アオの――アオ先輩の手を思い出したんだ。あのとき、アオ先輩の手は驚くほど冷たかった。真夏の屋外だというのに。アオ先輩は、可哀想なほどに緊張していた。今、眼の前にいる愛しい人、くれなゐと同じように。
『好きです』と真正面から告白した俺に対して、アオ先輩は何と言ったか。
『ボクは嬉しい。キミの気持ちが嬉しいんだ』
『でも、その気持ちを受け取ることはできない。ボクにはその資格がない』
資格。資格とは、何だ。人を好きになるための、資格。そんな曖昧で意味不明なモノのために、アオ先輩は俺をフったのか? もし、あのとき、先輩が俺を受け入れてくれていたとしたら。答えを保留にしないでいてくれたなら、あるいは。たとえ、こんな醜悪な裏切り方をされたとしても、先輩を信じて留まる選択肢もあったかもしれないのに。
頭の中で、今日も、あの歌が鳴り続けている。
うるさい、
うるさい、
うるさい。
頭の中に鳴り響くあの歌声が、うるさい。鳴り止め。鳴り止んでくれ。お願いだから。
俺の心はぐちゃぐちゃだ。四月四日、入部試験で聴いた歌声が、いつまで経っても鳴り止まない。くれなゐと付き合いはじめて、一ヶ月近くが経過して。忘れよう忘れようと思えば思うほど、頭の中であの歌声が再生される。あの声が。憎らしいほどに可愛い、あの歌声が。俺を絶望の淵から救い出してくれた、あの歌声が。俺を夢中にさせた、俺の魂を鷲掴みにした、あの歌声が。
『青と緑のハザマで』――碧。アオ、アオ、アオアオアオアオアオアオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩アオ先輩!
あの日聴いた歌声が、
アオ先輩の歌声が、
どれだけ力いっぱい耳を塞いでも、
どれだけ必死に忘れようとしても、
鳴り止まない。
鳴り止まないんだ!
いろんな顔を見てきた。
『ふふふ』と言いながらちっとも笑っていない、澄まし顔。
全裸を見てしまったときに見せた、慌てふためいた真っ赤な顔。
いつもの部室裏で、俺に叡智なことをしておちょくるときに見せる、嗜虐心に満ちたいやらしくもワルい顔。
俺がしつこく求めたときに見せる、『本当に困るから止めて』と『しょうがないなぁ。もうちょっとだけ』の間をさまよう何とも言えない色っぽい表情。
俺にしか見せない、はにかみ笑い。
……あの顔は全部、嘘だったのか? 俺を欺くための欺瞞だったのだろうか? 確かに俺は、海野アオに最低最悪な形で裏切られた。今でも俺は、海野アオを許す気には到底なれない。けれど。けれど、だ。あの顔は本当に、すべてがすべて嘘だったのだろうか? 嘘だったしても、何か重大な事情があったのではないだろうか? そう、海野アオには『隠し事』がある。一つは、夏野に取り入って俺を夏野のバンドから追放させたこと。他に、まだ二つの隠し事が残っている。残っているんだ。
俺は、それが聞きたい。知りたい。アオ先輩の口から聞かなきゃ、納得できない。
「――――……」くれなゐが、手を差し出している。私を選んで、と叫び出したいだろうに、俺の選択を、ぐっと待ってくれている。可愛い。愛おしい。が――、
それはそれ、これはこれだ。
俺はまだ、何も分かっちゃいない。
くれなゐを選ぶにせよ、海野アオと決別するにせよ。
そのための材料を全部集めずして、今、ここで決断することはできない。
くれなゐが差し出した、手。すごく可愛い、血豆と絆創膏まみれの手。ギタリストの手。握り返したいと思った。が、握り返すことはつまり、『キング・ホワイト・ストーンズ』の終わりを意味する。俺は、それは、それだけは嫌だった。
「俺は……」絞り出すように、俺は言った。「すごく嬉しい」一言一句、慎重に。「でも、ごめん。アオ先輩には、恨みはあるけど恩もある。返せていない恩が、まだ残ってる」
海野アオの真実が知りたい――その思惑は、真実だった。と同時に、くれなゐに告げた言葉もまた、どうしようもないほど真実だった。俺は海野アオに裏切られた。が、だからといって、恩を受けた事実はけして変わらない。変わらないんだ。
俺が夏野のバンドから追放された、あの日。
『ね、キミ。ボクと付き合ってよ』
あの、何気ない一言に俺がどれほど救われたのか。それはきっと、当のアオ先輩にだって分からない。あの日、あの時、アオ先輩は既に夏野と取引をしていた。人を追放させておいて、呆然としているところに優しい言葉を掛ける。とんでもないマッチポンプだ。よくもまぁ、あんな残酷な真似ができるものだ、と思う。でも。それでも。
あの日、救われてしまったのは事実なんだ。
俺は、救われた。救われて、アオ先輩に恋をした。
四ヶ月に渡って楽しく過ごさせてもらって、ドラマーとしても成長させてもらって、一回生にして夏ライブに出るという快挙を許してもらったのも、また事実。実際、何十人もいる一回生の中で、夏ライブに出演できたのは俺ただ一人だった。
恨みはあるが、恩もある。許すつもりはないが、投げ出すつもりもまた、ない。
だから俺には、『キング・ホワイト・ストーンズ』を終わらせることができない。
「ははっ……やっちゃんらしいや」
くれなゐが、笑った。
泣き笑いだった。
とても、とても綺麗だと思った。
♪ ♪ ♪
一世一代の大告白をフラれてしまった、その夜。灯(ともしび)くれなゐは、アオの家に向かった。チャイムを押す。誰も出てこない。何度も何度も何度も押す。
『営業はお断り――』
「アオ!」インターホンにかじりつくような勢いで、くれなゐは叫ぶ。「遊びに来たわ。早く中に入れなさい!」
『……遊びに? 殺しに来たって言ったほうが、まだ信憑性があるような声色だ』
「いいから、早く」
『くれなゐだけ? 他にはいない?』
「いないわよ。私がアンタの事情を知らないわけがないでしょう?」
数分して、ドアが開いた。中から出てきたのは、
「ぷっ。ひっどい顔」
「……うるさい」
目の下にどす黒い隈を浮かべた、アオだった。上はいつものキャミソール。下は短パン。相手がくれなゐだけだからか、上着は羽織っていない。他の人の前では、どれほど暑い環境でも絶対に『手首』を見せないアオが。
「ちゃんと食べてるの?」
「……食べる時間、ない」
「そうやって自分を追い込んで」くれなゐは、買ってきたサンドイッチの封を開けて、アオの口に無理やり突っ込む。「悲劇のヒロイン気取った結果がこのザマってわけ? もう、オーデまで二週間しか残っていないのよ」
「言われなくても分かってる。余計なお世話――んぐっ」
くれなゐと話すアオはひどく弱々しく、目の焦点も定まらない。口調もぶっきらぼうだ。いつもの、ダウナーでミステリアスで自信満々な『青子緑子』は、ここにはいない。くれなゐがよく知る、アオ。保育園の頃からくれなゐの背中に隠れてばかりだった、弱々しい女の子だ。そんなアオの口に、くれなゐは次々とサンドイッチをねじり込む。
「何しに来たの。無様な私を笑いに来たの?」
(何をしに、か)部屋に上がり込んだくれなゐは、スマホを取り出す。(私は、やっちゃんの願いを叶えてあげたい)
今から自分がやろうとしていることが、間違いなく自分の首を絞めることになるのを、くれなゐは理解している。が、くれなゐにはこうすることしかできない。愛する男性が、『キング・ホワイト・ストーンズ』の継続を望んだのだ。ならば、彼のためにひと肌脱ぐしかないではないか。
(どの道、今の中途半端な状況は良くない。きっちりと決着を付けたうえで、アオと真正面からぶつかって、やっちゃんの愛を勝ち取りたい。そのためには)
まずは、アオの新曲を完成させてやらなければ。だからくれなゐはスマホを操作し、とある音楽を再生させた。
「そ、それ……!」曲に聴き入りながら、アオが震えだす。「何、その曲は⁉」
「『血とくれなゐ』。一年掛けて書き上げた、私の渾身の一曲よ。青子緑子好みの、カッコイイ系のハイテンポバラード。私だって、伊達に十年近くアンタのそばでアンタの曲を聞き続けてきたわけじゃないってこと」くれなゐは、音楽を流すスマホをアオの眼の前にぶら下げる。ニンジンをぶら下げられた馬のように、アオが食いつく。少し面白い。「あげるわよ、これ。どうせ、新曲なんて一ミリも書けてないんでしょ? 煮るなり焼くなり、『青子緑子』風にアレンジして使ったら良い。今ならまだ、学祭オーデにギリギリ間に合う」
「はっ、ははは……敵に塩を送るつもり?」
「別に、アンタと私は敵同士ではないでしょう? アンタの歌と、私のイラスト。私たちはいつだってチームだった」
「そうだった……そうだったね。くれなゐはいつだって、私が助けを求めたら、すかさず助けてくれた。時には、助けを求めなくても助けてくれた。そんなくれなゐの存在がとてもとてもありがたくて……少し、ウザかった」
「でしょうね。私はアンタに対して、いつだって過保護だった。でも、アンタが悪いのよ。アンタときたら、まるで捨てられた子犬のようで、哀れで、弱々しくて、放っておいたら死んでしまいそうだったから」
いつしかそれは、『今』の話ではなくなっていた。
「だからくれなゐは、私に彼をくれたの?」
「本当は私のモノにしたかったのに。アンタがあまりにも可哀想だったから、泣く泣く、アンタに譲ってあげたのよ。なのに、アンタは」
くれなゐは、アオの手首を掴む。アオが、痛みに顔をしかめる。あまりの怒りで、くれなゐの手が震えている。
「アンタは! 私が心から大事にしていたあの子を! まるで、遊び飽きた子供が人形を捨てるみたいに、いともたやすく投げ捨てた! 私がどれほど惨めな思いをしたか分かる? 私が断腸の思いで差し出した宝物を、アンタはほんの数ヶ月付き合っただけで、飽きて、あっさりと捨てた! 『青子緑子』という、より新しくて、より刺激的なオモチャが手に入ったから! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い! 殺してやりたい。何度そう思ったか、アンタに分かる? ……でも」
くれなゐは息を吐く。急速に、脳が冷却されていく。
「彼が、『キング・ホワイト・ストーンズ』の継続を望んだ。だから私はこうして、アンタを助けにきてやったのよ」アオの手首を掴んでいた手を、放す。「……ごめんなさい。ちょっとだけ、熱くなっちゃったわね」
「い、今のを」アオが手首を撫でる。「『ちょっと』で済ます度胸を、見習いたいよ」
「で、どうするの? 曲を受け取るの、受け取らないの?」アオの目の前で、スマホをぷらぷらとさせる。相変わらず、アオが夢中になってスマホを目で追う。面白い。
「正直、恥を忍んでる余裕はない。もらえるのなら、ぜひ――」
「その代わり」伸ばしかけたアオの手から、くれなゐはスマホを遠ざける。「一つ、言うことを聞いてもらう」
「…………何?」アオが警戒モードに移行する。
「『隠し事』」
「っ⁉」
「アンタがバンドメンバーたちに隠している例のアレを、皆の前で開示して頂戴。さしずめ、『三つの隠し事』の内の二つ目ってところかしら」
「そ、それは……! む、無理。アレばっかりは、本当に」
「ふぅん。でも、このままじゃ『キング・ホワイト・ストーンズ』は終わる。『青子緑子』の夢もね。曲は完成せず、バンドメンバーは疑心暗鬼のまま、オーデは通過できず、どころか提出すら間に合わず、私たちは空中分解よ」
「…………ッ!」アオが唇を噛む。分かっているのだ、アオも。現状が、どうしようもないほどに、どうしようもなくなっていることを。
「だったら」くれなゐは、アオに対して手を差し伸べる。「皆に全部を打ち明けて、協力を仰いでみない? 皆を、信じてみない?」
アオの瞳に涙が滲んだ。そこで抱きしめてやるほど、くれなゐは優しくなれない。が、突き放すほど薄情にもなれない。くれなゐもまた、『青子緑子』なのだ。十年の重みが、彼女をそのように定義する。愛着も思い出も、たくさん、たくさんあるのだ。だからくれなゐは、言葉を紡ぐ。
「大丈夫。大丈夫よ、アオ。きっと皆、受け入れてくれるから」
アオが泣く。
久しぶりに。本当に、本当に何年か振りに、くれなゐはアオの頭を撫でた。
♪ ♪ ♪
「話が、あるんだ」次の練習の日、部室で、海野アオがそう言った。「大事な話。大事な大事な、話。絶対に他言してほしくない……ボクの、『隠し事』の一つ」
部室には今、『キング・ホワイト・ストーンズ』のメンバーが揃い踏みしている。防音扉に守られたこの部屋ほど、内緒話に適した場所もないだろう。
「聞けばきっとみんな、幻滅する。けど、聞いてほしい。聞いてもらったうえで、みんなに協力を要請したいんだ」
イナズマちゃん先輩とシロ先輩は、驚きながらも嬉しそうな顔をしていた。一方のくれなゐは、澄まし顔。そんなくれなゐの顔を見て、俺は『あぁ、やっぱり』と思った。
昨日の夕方、くれなゐの提案――いや、『告白』とも言うべき重大なもの――を断ってしまったとき、くれなゐは『急用を思い出しました!』と叫んで、さっさとどこかへ走り去ってしまった。ひどく傷付けてしまったのではないか、とも思ったが、くれなゐが妙にスッキリとした顔をしていたので、俺は呆気にとられながらも、とある可能性について考えた。
『くれなゐも、「キング・ホワイト・ストーンズ」の終焉は望んでいないのではないか』
という可能性について。
それで、昨晩か今朝に、くれなゐが海野アオに何かしらの話をして、海野アオに『隠し事』を話すよう促した、とか。そういうことがあったのではないだろうか。
「あれは、ボクが高校三年生の春のこと――」
♪ ♪ ♪
「お前」ある日の深夜、珍しく帰ってきた父がボクに尋ねた。「進路は考えているのか?」
「音大――というか、芸能系の専門学校に行きたい」こんなときのためにあらかじめ用意しておいたパンフを、スマホで表示させる。
「ん? お前は何を言ってるんだ?」
「コレだよ」ボクは父にパンフを見せる。「Web――つまりYouTuberのようなネットアイドル業に特化した、各種スキルやセルフプロデュース方法、他配信者と上手くコラボする方法、炎上対策、確定申告のやり方に至るまで、配信者に必要なことを全部学べる学校」
「お前はYouTuberになりたいのか? バカなことを言っている自覚はあるか?」
「正確にはYouTuberではなくボカロPという」
「ボカロ――お前、まさか」
「コレ。『青子緑子』。ボクのアカウント。これが一番ハネた曲で、再生数百万を超えた」
「ボーカロイド⁉ 俺の娘が、よりにもよってボーカロイドだと⁉」
父は小さなインディーズ事務所を経営している。つまり生演奏のバンドマンを見出し、プロデュースし、CDを売ったり音楽を配信したり、バンドマンにライブをやらせて儲けるのが仕事の人だ。
「お前のような輩がはびこっているから、リアルバンド業界が年々縮小しているんだ。ボカロPと言えば、インディーズ事務所の敵だぞ⁉ 俺は自分の敵を育てていたというのか⁉」
「て、敵だなんて……」父がボカロを快く思っていないだろうことは予想できていた。けれどまさか、『敵』認定されるとは思ってもみなかった。「ねぇ、お願い。一回でいいから聴いてみて。それで、いいと思えなかったら専門学校は諦めるから!」
「ダメだダメだダメだ! そんな胡散臭い専門学校なんてもってのほか! ボーカロイドの活動も、今すぐ辞めろ!」
「ねぇお願い、一回でいいからボクの曲を聴いて! 聴いたらきっと分かってくれるはずだ。ボクの才能が本物だって」
「才能うんぬんの話をしてるんじゃない。自分の会社の敵を育てるつもりはない、と、そういう話をしている! ボカロP活動は今すぐ辞めなさい!」
「い、嫌だ! ……分かった、専門学校のことは諦めるよ。でも、『青子緑子』の活動を辞めさせる権利なんて、お父さんにはない!」
「くっ……だが、商業活動は絶対に許さんぞ。『青子緑子』に関するあらゆる保証人の類に、俺が印鑑を押すことはないと思え!」
♪ ♪ ♪
「自分で言うのも何だけど、ネームバリューは十分さ。あわよくば、父の事務所から売り出してもらおうとすら考えていたんだ、ボクは。とんだ勘違いだったわけだけれどね。だけど」海野アオの瞳が、燃えている。「曲さえ耳に届けられれば、父の信念を捻じ曲げられる。それだけの魅力が、『青子緑子』の歌にはある。ボクは、今みたいな同人活動に毛が生えた程度で終わるつもりなんて、さらさらないんだ」
「…………」海野アオの過去と、信念は良く分かった。だが、今の話と、彼女がここまで学祭中庭ライブにこだわる理由が繋がらない。
「■■大学の学祭ライブには、プロが出る」海野アオの話には続きがあった。「そのプロを斡旋し、音響周りの手配をしているのが、ウチの父なんだ。父は必ず、学祭ライブに現れる」
「あっ」だから、中庭ライブ! 立ち会う父に、『青子緑子』の歌を聴かせるために!「海野さんはそのために、『キング・ホワイト・ストーンズ』を作った! お父さんに曲を聴かせるためにバンドを組み、学祭オーデに挑んだ。そういうことですか?」
海野アオが頷く。
「で、でも、そのお父さんが、たまたまこの大学の文化祭最終日ライブを仕切ってるだなんて、豪運過ぎません?」
「偶然じゃないよ。父が毎年、この大学の文化祭で仕事をしているのを調べたうえで、ボクはここに入学した」
とんでもない行動力だ。「進路を変えてまで。いや、違うのか。海野さんにとっては、『青子緑子』こそが進路なんですね。それ以外のすべてを切り捨てることができるほどの、絶対的進路」
『優秀なドラマーが欲しい』程度の理由から、『そいつをバンドから追放させて、傷心のところにつけ込んで操縦してやろう』なんて大それたことを思いつき、実行してしまえたのは、『父に実力を認めさせ、「青子緑子」として自由に活動したい』という大目標があったからなのだ。
そこまでするのなら、もういっそのこと父と勘当して家出でもしたら? とも思ったが、海野アオは、今回の作戦が上手くいかなかったら、きっとそうするのだろう。でも、そこまでするのは、さすがに忍びない。親と縁を切らずに円満に活動を認めてもらえるのなら、あわよくば父の会社の助力を得られる可能性があるのなら、見ず知らずのドラマー一人をハメるくらい、大したことはない、といったところなのだろうか。……いや、実際にハメられた方からすれば、メチャクチャ大したことなんだけどね?
ともあれ、俺は少しだけ安心した。海野アオの意味不明な行動には、ちゃんとした理由があったのだと分かったから。
「それでも、去年は学園祭ライブに出ることができなかった。今年が、きっと最後のチャンスなんだ。『青子緑子』に対する世間の関心は、年々低下傾向にある。そりゃそうさ。数年も経てば、中学生が高校生になる。高校生が大学生になる。大学生が社会人になる。ライフステージが変われば、一ボカロPに対する推し方のスタンスも変わる。それに」
海野アオが、シロ先輩を見た。シロ先輩が泣きそうな顔をしている。
「このメンバーで演奏できるのは、多分、今年が最後だ」
「…………?」俺には、一瞬、何のことか分からなかった。が、じょじょに理解が及んでいった。シロ先輩は確か、『傾きかけの大手ピアノメーカーの娘』だ。ときどき、シロ先輩がイナズマちゃん先輩に、『次のお見合いが~』とか『在学中に入籍を~』といった相談をしているところを見かけたことがあった。
「ごめん」海野アオが頭を下げる。「皆、本当にごめん。このバンドは、『キング・ホワイト・ストーンズ』は、一から十までボクのエゴを満たすためだけの道具だったんだ。だけど、どうかボクに協力してほしい。あとニヶ月、ボクに、力と時間を貸してほしいんだ」
「ちょっと待てよ」イナズマちゃん先輩が言った。海野アオは、ひどく怯えた顔をした。「今の話のいったいどこに、俺らにまで秘密にしなきゃならねぇ要素があったンだ?」
「いや、だからさ」海野アオが、必死に説明する。「『キング・ホワイト・ストーンズ』は、ボクにとっては目的ではなく手段なんだ。言わば、その……ふ、踏み台に過ぎなかったんだ。目的を達成したら、解散させるつもりですらあった」
「今も、そうなのかよ?」
「あ……」突然のことだった。海野アオが、大粒の涙を浮かべたのだ。「あぁ……あぁああああ!」顔をくしゃくしゃにした彼女は、幼子のように泣き出す。「違う! この一年半はあまりにも長くて、長くて、大変で、苦労ばっかりで、最高に、最高に……楽しくて!」
海野アオが――――……アオ先輩が、号泣する。
「ボク……わ、わだじ、バンド、終わらせたくない! たとえ中庭ライブに出られなかったとしても、バンド、続けたい! でもボクは、『青子緑子』なんだ。青子緑子こそが、ボクの人生の中での一番。青子緑子のために、ボクは生きている。『キング・ホワイト・ストーンズ』は大好きだ。けど、ボクは三つも四つも『一番大好き』を持てるほど器用な人間じゃない」
「いいぜ」イナズマちゃん先輩が、アオ先輩と同じように涙まみれなイナズマちゃん先輩が、精一杯背伸びして、アオ先輩を抱きしめる。「俺はお前に協力する」
「ウチもや! ウチも協力する!」シロ先輩が、アオ先輩とイナズマちゃん先輩の両方を包み込むように、抱きしめる。シロ先輩も号泣している。
くれなゐは一人、一歩退いたところに立って、三人を見つめていた。俺は、そんなくれなゐの手に触れる。くれなゐは俺の手をぎゅっと握ったあと、すぐに手を解き、俺の背を押した。アオ先輩の方へと。
俺はもう、すっかり氷解していた。アオ先輩に対して抱いていた不信感のすべてが、綺麗さっぱり払拭されていた。だってアオ先輩は、バンドメンバーを傷付けたくない一心で、学祭中庭ライブにこだわる理由を秘密にしていたんだ。皆のことが大好きで、皆のことが心配で、皆のことをたくさん思いやっていて。けれど口が下手だから、上手いこと説明ができずにいた。だから、もういっそ内緒にすることにしたのだ。
俺を追放させたのも、きっと、何かどうしようもない理由があったからなのだろう。なら話してくれればいいじゃないか、とも思う。思うが、恐らくそれが、最後の『隠し事』に関することなんだろう。いつか話してくれるといいな。そのときは、笑って許そう。
「あのっ」俺はアオ先輩の前に立つ。イナズマちゃん先輩とシロ先輩が、退いてくれた。俺は、アオ先輩と真正面から見つめ合う形となる。「俺、その、許してもらえるのなら、もう一度、先輩のこと、アオ先輩って呼んでもいいですか?」
「!」アオ先輩が、再び大粒の涙を浮かべた。それから、はにかみ笑いした。「うん。うん! 良いよ。こちらからもお願いするよ、モヤシちゃん!」
こうして俺たちは、和解した。