「モヤシ、てめーはクビだ」
大学一回生の春、初ライブの前日。僕――百瀬ヤスシはバンドから追放された。
「エッナンデ⁉」驚きのあまり、僕はキョドり気味に応える。
「エッナンデじゃねぇよ、相変わらずキモいな」
たった今、僕を追放した元バンドマスターの夏野が、食堂の椅子にふんぞり返りながら、僕の足を蹴り飛ばした。夏野太陽、十九歳。名前どおりのギラギラな金髪をかき上げた彼が、僕の頬に唾を吐きかける。
「てめーが超寒いモヤシ野郎だからだよ。モヤシみたいに細い腕も、猫背も、卑屈な引きつり笑いも、キョドってるところもドモり癖があるのもビビるとカタコトになるのも髪がモサモサなのもファッションセンスが中学で止まってるのも貧乏ゆすりも、全部が超寒い! 極めつけに、情熱のかけらも感じられないさむーいドラム! パフォーマンスも音楽だってのに、ちっともなっちゃいねぇ。てめーみたいなモヤシ野郎は俺のバンドには要らない」
「そ、そんな……頑張って練習してきたのに」
「さっさと消えろよ、モヤシ野郎」
夏野に背中を蹴り飛ばされながら、僕は学食をあとにする。こうして僕は、希望を懸けていた大学デビューに、のっけから失敗した。
「お前、それ、止めろよ」午後の講義を受講していると、隣に座る駿河九郎くんが話しかけてきた。「その貧乏ゆすり、ウザいから止めろって。夏野からさんざん言われただろ」
「ご、ごめん」
気が付けば、僕の膝が机の下で振動していた。悩み込むと出てしまう、僕の悪い癖だ。
「確かにその癖はキモいけど、お前、顔は悪くないんだから。別にバンドなんてしなくても彼女くらい作れるだろ」
「そ、そんなことないよ……僕はこのとおり、情けないモヤシ野郎だから」
「うーん。過去にいたことはなかったのか?」
「一人だけ」
「いたんじゃねーか」
「小学生のときだけど」
「しょっ……あ、うーん」何とも言えない表情になる駿河くん。「まぁでも何だ、悪かったな。夏野の奴、歌もギターも上手いし顔も良いけど、ワガママで思い込みの激しいところがあるからさ。こういうときに、サブバンマスの俺が上手いこと立ち回らなきゃならなかったのに」
「あ、うん……ありがとう」
「ありがとう、はねぇだろ。お人好しだな」そう言って、駿河くんが苦笑した。
その笑顔は優しかったけれど、同時に僕は改めて、もうバンドには戻れないんだという事実を突きつけられた。ますます、悩みが深くなっていく……。
小学生時代、僕はいつもクラスで一番背が高かった。六年生時点で一七〇センチもあった。足が速くて勉強もスポーツも一番で、何よりドラムがものすごく上手かった。音楽祭では、ドラム希望者十数人を全員倒して選抜され、プロ顔負けの演奏を披露して拍手万雷。僕は学校のヒーローだったんだ。でも、中学に上がった頃から様子がおかしくなっていった。
背が、一ミリも伸びなくなったんだ。
いつも僕のことを見上げ、『すごいすごい』と褒めてくれていた友人たちが、どんどん追いついてくる。やがて追い抜かれてしまった。勉強もスポーツも、僕よりデキる奴がどんどん現れて、僕はあっという間にスクールカースト最下位になった。それでも、ドラムだけは誰にも負けなかった。ドラムだけが、僕の取り柄であり、心の防波堤だったんだ。
バンドで大学デビューして、モテてモテてモテまくってやる! チヤホヤされ尽くしてやるんだ! ――それが、僕の唯一の希望だった。だから、どれだけ罵倒されても夏野のバンドにしがみついてきたし、同じ大学にまで入った。なのに……。
「ね、キミ」
いきなり、とびっきり可愛らしい声が耳に飛び込んできた。
「ワァアアアアアアッ⁉」僕は飛び上がる。
いつの間にか授業は終わっていて、講堂には誰もいない。いや、一人だけ、いる。
「ボクと付き合ってよ」とびっきり可愛い声をした女性が、目の前にいる。
それは、魅力的で蠱惑的な声だった。『ハッとするほど』なんて生ぬるい言葉じゃ表現しきれない。『魂ごと持っていかれそうなほど』の、それは魅力的な声だった。僕はその声に、一目惚れならぬ一耳惚れをした。
「聞いているのかい、少年?」長机を挟んで僕の前に立つ女性が、ひんやりとした指先で、僕の顎をついっと上げた。僕は女性の容姿を間近で見つめる形になる。
可愛いのは声だけじゃなかった。大きな二重まぶたの目には長い睫毛。すらりと通った鼻筋。色っぽい唇は桜色。セミロングの髪は黒色で、裏側だけ、目の覚めるような青緑――碧(あお)色に染め上げられている。ピアスの色も、同じ碧。身長は僕と同じくらいだろうか。濃紺のキャミソールの上に白い革ジャンを羽織っていて、下はデニムのホットパンツと黒タイツ。スタイルも良い。読モをやってると言われても絶対に信じる。びっくりするほどの美人だ。
「エッ、アッ、エッ⁉」こんな美人に話しかけられているとは到底信じられなくて、僕は周囲に人影を探す。けれど、誰もいない。
「キミだよ、少年」謎の美女が僕の手を取った。目の覚めるような、碧のネイル。「ねぇキミ、ボクと付き合って?」
美女が、首を傾げてみせる。ほぼ真顔だけど、ほんのわずかに微笑んでいる。パーフェクトな角度と、ミステリアスな笑み。これで落ちない男はいないんじゃないだろうか。
「エッアッソノゥ……」
キョドっている間に、美女は僕の手を取って歩きはじめる。講堂を出て、授業棟を出て、大きな中庭――学園祭の時期には大きなライブをやる憧れの会場――を抜けて、学外へ。
「アッ、アノッ」どこに行くんですか? っていうかアンタ誰だ⁉
僕の疑問を先取りするかのように、
「アオ」と、美女が言った。「海野アオ、二回生。キミの一個センパイ」
美人の先輩が僕の手の平に、碧いネイルの載った爪で文字を描きはじめる。
「【王】様の【白】い【石】――碧、だよ。気軽に『アオちゃん』『アオ先輩』『キング・ホワイト・ストーン様』と呼んでほしい」
「ア、アオ」こんな美人に手を握られたのなんて初めてで、僕は『アオ、碧』と繰り返すので精一杯だ。
「キミは、誰? キミの名前」
「も、もももももも百瀬ヤスシです」
「もももももももももせヤスシ?」
「百瀬ヤスシ、です」
「ふふふ、ドモりすぎ。大丈夫。取って食べたりしないから」
『ふふふ』と言いながら、実際には笑っていない美女――アオ先輩。ミステリアスというより、ダウナーな感じの人だ。
っていうか、この状況は何⁉ 『付き合って』ってそういうこと⁉ いやいや落ち着け。僕みたいなモヤシ野郎に交際を申し込むような奇特な女性なんているわけがないだろ。だったら、ちょっと強引なサークルの勧誘? 新歓コンパに1人1名必ず連れてこい的な? いや、もしかしたらもっとヤバいやつで、のこのこついて行ったら『ワレェ、ワイの女にナニ手ぇ出しとんのやゴラァ⁉ 百万円払わんかい!』みたいな展開になるんじゃぁ……?
ビビりちらかしながらも、アオ先輩の手の柔らかさが心地良くて、それに先輩の手の力が思いのほか強くて、僕はその手を解けない。不思議と、懐かしいんだ。アオ先輩とは初対面のはずなのに。遠い遠い昔、アオ先輩と手を繋いで、こうして歩いたような気がしてならない。
「着いたよ」気が付けば、僕は大きな居酒屋の前に来ていた。「ここ」
手を引かれ、入店する。あぁ、良かった。やっぱり新歓コンパだったんだ。ニ階へ案内され、数十人が入れそうなほどの大きな宴会部屋に入ると、
「やっほー、アオ。早かったなぁ~」全体的に『でかい』女性が声をかけてきた。
まず、背がでかい。一八〇以上ありそう。そして、む、む、胸がでかい! いろいろとでかい点以外は、ザ・お嬢様系の学生さん、といった感じだ。にっこりと微笑む優し気な糸目、ゆるふわ三つ編みの長い黒髪、白をベースにしたカーディガンとロングスカート。
「シラコも早いじゃない」
「ウチは準備係やから~。あとシラコ言うたらプンプンやで~」でかい女性が指でツノを作って怒ってみせた後、僕ににへらぁと微笑みかけてくれて、「ウチは白玉シロ~。アオんとこのバンドメンバーやねん。気軽にシロって呼んでな~」
「バンド。――エッバンド⁉」ってことは、これは軽音サークルの新歓コンパ⁉ やった、やったぁ! これでまたバンドが組める! 僕のモテ学生ライフがやってくる!
「……え? 軽音部って知らずにここまで来たん? ちょっとアオ~、ちゃんと説明したらなあかんやろぉ~? 音楽に興味ない子やったら可哀そうやんかぁ~」
「それは大丈夫」アオ先輩が自信満々に頷く。やや興奮気味な様子で、「だってこの子、貧乏ゆすりがとっっっっっっっっっっっっっっっっても速かったから」
いや、『この子』って……年齢、一つしか変わらないじゃないですか。っていうか貧乏ゆすり⁉ アオ先輩、僕の貧乏ゆすりを見て、僕をここに連れてきたの⁉
「へぇ、貧乏ゆすり? それはちょっと面白そうかも~。じゃ、また後でなぁ~」
僕らを皮切りに、続々と人が入ってきた。シロ先輩は、それらを捌く仕事に戻っていく。
「キミとボクは、こっち」
僕はアオ先輩に手を引かれ、奥の席に座る。僕を一番奥に座らせて、すぐ隣にアオ先輩。なんというか、逃げられないように退路を塞がれているような……。
「ふふふ、楽しみだね」相変わらず、『ふふふ』と言いながら実際には笑っていないアオ先輩。けれど口元は楽しげだ。
「ところでアオ先輩、コレってどのサークルなんですか?」
確か、ウチの大学には複数の軽音系サークルがあったはずだ。ライトなものからヘビーなもの、少人数なものからマンモスなものまで。中でも最も大所帯で強豪と言われているのが、
「「「「「軽音楽部!」」」」」
「ンヒィ⁉」周りにいた上級生らしき人たちが一斉にこっちを向いたので、僕は白目を剥きそうになった。
「そう、軽音楽部」アオ先輩が頷いてみせる。「学園祭ライブで全十枠中五個もの出場枠を擁している強豪。■■大学が誇る最強の音楽集団。ようこそ、■■大学軽音楽部へ!」
「「「「「カンパ~イ!」」」」」
「ね、モヤシちゃん。飲んでるかい?」酒が入ると、アオ先輩はすごくなった。
「飲んでませんよ! まだ十九ですよ、僕」
「ふふん。ボクの酒が飲めないっていうのかい?」
「だから飲めませんって」
アオ先輩が僕にもたれかかってくる。僕は緊張して、貧乏ゆすりをしてしまう。
「なんだか暑いなぁ」アオ先輩がもぞもぞと革ジャンを脱ぎはじめる。「キミも脱ぎなよ」
「や、ちょっ」
「引き締まった体をしてるねぇ。モテるんじゃないのかい?」
「モテませんよ。僕はモヤシ野郎だから……」
「そうかい? お腹なんて、ずいぶん鍛えられてるようだけど」先輩が僕のTシャツをまくり上げてきて、指先で僕の腹筋を撫でさすってくる。「何かスポーツは?」
「ヤ、ヤッテマセン」
先輩の指が僕の太腿にまとわりつく。「つまりこの腹筋も、太腿の筋肉も、ドラムで鍛え上げてきたってわけだ」
「えっ⁉ 何で――」僕がドラムをやっていることを、アオ先輩にはまだ話していないのに。
「そりゃ、分かるよ。これだけ見事な貧乏ゆすりを見せられればね」
どどどどういうこと⁉ 僕が混乱していると、
「新入生による一発芸大会~!」
宴会場の中心で司会進行をしているシロ先輩が、とんでもないことを言いはじめた!
「エッ、イッパツゲイ⁉」
「あれ、言ってなかったっけ?」いけしゃあしゃあと言ってのけるアオ先輩。
「聞いてませんケド⁉」
「大丈夫だよ。その貧乏ゆすりを見せれば、絶対にウケるから」
どういうことだよ……。
「はい、ギターパート志望の■■くんでした~! 次は誰かなぁ~? 我こそはという人!」
「はーい」
「ンヒィ⁉」
何てこと! アオ先輩が僕の手を持ち上げて、僕の声マネをしやがった!
「おっ、アオが連れてきた子やなぁ。ほら、立って立って~。前出てきて~」
「あ、ああぁ……」言われるがまま、宴会場の中心に立たされる僕。新入生と上級生、数十人もの視線にさらされて、僕は気絶寸前だ。
「何をやってくれるんかな~?」
「アッソノォ……」
「貧乏ゆすりやりまーす」またしても、アオ先輩による声マネ。
「あ、じゃあこのイスに座って~。はい、三・二・一・Q!」
あぁもう! どうなっても知らないからな⁉
……ウケた。新入生にはそうでもなかったけど、上級生たちには馬鹿みたいにウケた。みんな、『はえぇえ~~~~っ!』『すげぇ! 速過ぎて見えねぇ!』みたいな感じてめっちゃ喜んでた。謎だ。大丈夫なんだろうか、この部活。
僕が席に戻るときにも、『お前ドラマーだろ⁉』『ウチのバンドに入ってくれ!』みたいな声をたくさん掛けられた。そのたびにアオ先輩が、『ダ~メ。モヤシちゃんはボクのだよ』って牽制していた。そうして、今。
「ボクの目に狂いはなかったよ」さらに酒が入ったアオ先輩が、僕にしな垂れかかっている。「ね、軽音部に入ってよ。ボク、キミとセッ――がしたいな。キミはしたくない? ボクと」
「セッ⁉ セッ――っていうと、ままままさか」
「ふふふ、そのまさかだよ」アオ先輩が、僕の耳元で囁く。「セ・ッ・ショ・ン♡」
「セック――んんんっ! あわ、あわわわわ」で、ですよねー。セッ――ション。セッションか。でも、先輩の美声でドラムが叩けたら、きっとメチャクチャ気持ちが良いんだろうな。
「あはは。リアルに『あわわ』って言ってる人、生まれて初めて見た」
緊張で喉がカラカラだ。僕は、ちょうど目の前にあったコップをあおる。すっかり飲み干してしまってから、気が付いた。「あ、コレ、中身――」
途端、目が回った。そこから先の記憶はない。
「あれ? コイツ寝ちゃってるよ」
「いいよ。この子はボクが連れてくから」
……眠い。頭が働かない。
「をいをいをい男を家に連れてくのか⁉ さすがにヤベーだろ。俺ん家に連れてくぜ」
「ダ~メ。そんなこと言って、この子を取っちゃうつもりなんでしょ? この子はボクのだから。ボク専属のドラマーにするんだから」
誰かに背負われているような。甘い匂いがする。眠すぎて、目を開けることができない。
……チュン、チュンチュン
「――――はっ⁉」飛び起きた。右を見て左を見る。知らない部屋だ。「昨日、軽音部の飲み会に行って……それで? うっ」
頭が痛い! それに、
「トイレ!」足の踏み場もないほど散らかった六畳間を抜け、トイレと思しきドアを開くと、
「やっちゃん⁉ ――あっ」
「きゃあ~~っ⁉」お風呂上がりの――全裸のアオ先輩に出くわして、僕は悲鳴を上げた。
「わっ、わっ」なぜだか先輩が、カラダではなく両手を背中に隠そうとする。そんなわけだから、僕は先輩の見事と言うほかないバストをたっぷり堪能する羽目になってしまった。
僕は大慌てで背を向けようとして、「へぶ⁉」思いっきり、鼻先をドアの角でぶつけた。
「ご、ごごごごめんなさい!」DOGEZA。ジャパニーズ土下座。日本伝統の、最上位の謝罪方法だ。僕は部屋の隅で床に額をこすりつける。「許してください、何でもしますから!」
「ん、今何でもするって言った?」ちゃんと服を着た先輩が、ほんのわずかに微笑んでみせる。今日の先輩も、碧をアクセントにしたキャミソールに、革ジャンとホットパンツというスタイルだ。
「エッアッソノゥ」
「冗談だよ。ボクにも非があった。キミを家に持ち帰ったのはボクだし、キミが寝ている横で無防備にシャワー浴びてたのもボクだし、鍵掛け忘れてたのもボクだし。それよりも」先輩が、ずずいと詰め寄ってきた。めちゃくちゃ良い匂いがする。「何を見たの? 言ってごらん」
「エッナニッテソレハ」
「上から順に、一つずつ。お風呂場で、キミは、ボクの、何を見たの?」
何その共同羞恥プレイ⁉
「そ、その……綺麗な顔と」「お、うん」「濡れた髪と」「うん」「む、胸と」「ふふふ、Eカップだよ」「引き締まったお腹と」「ありがとう」「そ、鼠径部と」「ずいぶんエッチな単語を知っているね」「その下の……」「よく聴こえない。はっきり言ってごらん」
その後も根掘り葉掘り事情聴取された後で、僕はようやく解放された。
「うん。まぁ、分かった。――良かった」
先輩はほっとした様子だ。『良かった』って、どういうこと? あっ、そうか。お尻に、子供の頃に消える青いやつ――なんて言ったっけ、そう、蒙古斑。大人になっても蒙古斑が消えない人は一定数いるらしくて、アオ先輩はそれを恥ずかしがっているってことだな? なぁんだ、そんなの気にしなくて良いのに。いやまぁ、うら若き乙女にとっては死活問題なのかな? ふふふ、アオ先輩のアオい蒙古斑。なんて面と向かって言ったらぶっ殺されそうだけど。
「アッソノゥ……お詫びに何かさせてください」
「だったら、ボクのバンドに入ってよ。ちょうどドラマーを探しててさ」
「それはもちろん、喜んで! でも、それじゃむしろご褒美というか、プラスで何かお礼を返さないといけない気ががががが」
「えっ、良いの⁉」先輩が目を輝かせる。デフォが無表情なだけに、めちゃくちゃ可愛らしい。「本当に⁉ 本当にドラムやってくれる⁉ まだボクらの演奏も聴いていないけど」
「あー」それは、確かに。
夏野は、性格はあんなだったけど歌とギターは上手かった。駿河くんのベースもものすごく安定していた。ギスギスはしていたけど、あれはあれでなかなか高レベルなバンドだったんだ。ひるがえって、もしもアオ先輩のバンドがド下手くそだったとしたらどうだろう。バンドを組むのはモテるための手段ではあるけれど、僕にだってドラマーとしての矜持がある。
それに、演奏を聴きもせずにバンドに加入しようとするのは、バンマスのアオ先輩に対しても不誠実だ。これじゃまるで、先輩のカラダ目当てみたいじゃないか。
「そうですね。一応、先輩方の演奏を聴かせていただいてからでも良いですか?」
建前上、そう言ってはみたものの、僕に不安はなかった。先輩の美声はもちろんのこと、足の踏み場もないほどそこかしこに散らばっている音楽系の雑誌や専門書とか、めちゃくちゃ散らかってるくせにキーボード周りだけはきちんと片付けられているところとか、壁に立てかけられた年季の入ったエレキギターとか。そういった諸々が、アオ先輩のバンドマンとしてのレベル、完成度合いを示していたからだ。
それに、それにだ。先輩には、なぜだか、何とも言えない『懐かしさ』を感じるんだよね。昨日が初対面だったはずなのに。前世で一緒にバンド組んでいた、とか? まさかね。
「あ、そうだ。片付けと掃除をさせていただく、というのはどうですか? お詫びに奢れるほどお金に余裕もないので。あっ、私物を他人に触られるのが嫌とかなら断っていただいても」
「んー、じゃあお願いしようかな。ボクは朝ご飯買ってくるから」
そう言って、アオ先輩は出ていってしまった。部屋に男一人残して、不安はないのだろうか。信頼されてるってこと? ほぼ初対面のはずなんだけど。まぁ先輩が独特なんだろう。
それにしても、散らかってるなぁ。これはもはや『汚部屋』一歩手前の様相だ。美人で大人気ボカロPで完璧超人だと思ってたけど、アオ先輩ってば意外と私生活はポンコツなのかもしれない。典型的なラノベヒロインだ。
床に散らばる書籍を拾い上げ、分類していく。音楽系の雑誌、流行りのアーティストの楽譜、作詞作曲の専門書、そして小説。
「ん、小説?」拾い上げてみれば、「村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』」
読んだことがある。コインロッカーに置き去りにされた主人公キクと、同じく遺棄乳児ハシの人生を描いた物語。人気歌手を目指すハシが、魅力的な歌声を手に入れるために舌の先をちょん切るシーンは、トラウマものだ。
小学生高学年の頃、僕は一時期小説にドハマリしていた時期があって、学校の図書館で片っ端から小説を読み漁っていたものだった。それを確か、当時付き合ってた――と言ってもおままごとみたいな関係だったけど――彼女にも薦めたりしてたっけ。
「アオ先輩、こんなの読むんだ」
本を棚に戻し、脱ぎ捨てられた衣類を洗濯かごに放り込み(黒の下着には心底ビビった)、掃除機をかける。台所の隅に積み上げられている空き缶を水洗いして、市指定のゴミ袋へ放り込んでいく。こんなズボラな生活をしているのに洗い物が溜まっていないということは、まったく自炊していないな、先輩。掃除も佳境に差し掛かった頃、
「はい、コレ」先輩が戻ってきた。サンドイッチと菓子パンを投げ寄越してくる。「モヤシちゃんの分だよ。飲み物は、紅茶かインスタンスコーヒーならあるから」
「わっわっ。おいくらですか?」
「いいよ。出世払いだ。おおお、何も踏まずに歩ける!」
「あ、あはは……」文字どおり、『足の踏み場もない』状況でしたからね。
「ほら、行くよ」食べ終わるや否や、アオ先輩が立ち上がった。
「エッドコヘ⁉」
「部活」
「アッソノゥ……僕、授業あるんですけど」
「でもキミ、ボクのハダカ見たよね」
「さっきのは不可抗力と言いますか……」
「見たよね?」
「アッハイ」
北向きのアパートを出て、大学へ向かう。徒歩五分。僕が正門に入ろうとすると、
「こっちだよ」アオ先輩が僕の手を引く。引っ張られるままついていくと、
「ここは……」
「部活棟」
ところどころにひびの入った、年季モノの三階建て。
「こっち」
薄暗い階段を上り、二階、三階へ。じょじょにタバコ臭くなっていって、同時に僕の緊張が高まっていく。その緊張が頂点に達したときに、
「おっせーぞゴルルルルルルァア!」
「ンヒィ⁉」ドスの利いた声に怒鳴りつけられ、僕は悲鳴を上げた。
「もう試験は始まってンだぜ⁉ バンマスなら時間くらいちゃんと守れってンだよアオ!」
声の主は、少女だった。いや、ここにいるってことは大学生なんだろうけど、何というか全体的に『小さい』んだ。その少女が僕に向かってニカっと笑い、
「んお、わりぃわりぃ。おめーに向かって言ったんじゃねぇから気にすンな」
「そうだよ、気にしないでね」とアオ先輩。
「てめぇは気にしろよ!」と少女。
「あはは、ゴメンゴメン」まるで悪びれる様子もなく、アオ先輩。相変わらず口だけで笑う。
何というか、漫才を見せられているような気分だ。
少女の隣では、昨日会った『でかい』女性――白玉シロ先輩が微笑んでる。シロ先輩のすぐ横に立っていることもあって、この少女がことさら小さく見える。
大きな二重まぶたの目、人形みたいに整った顔立ち、気の強そうな眉。背中まで伸びた長い金髪のツインテール。金髪ツインテール⁉ 改めて字面にしてみると、すごいな。ゲームかアニメの世界かよ。身長は、僕よりも頭一つ分も低い。一四〇センチあるかないか。上はぶかぶかなパーカー、下は何を履いているのか見えない。そして、細いナマ足の先にあるのはドでかいバッシュ。極めつけに、少女が武器みたいに肩に担いでいるのは、通常のものよりもひと回りもふた回りも大きなベース。な、な、なんというか、
「……サイズギャップ萌え?」
「おおおっ⁉」少女が駆け寄ってきた。僕の肩をバンバンと叩く。「分かってんじゃねぇか! そうそう、サイズギャップ萌えだぜ! ガールズバンドなんて所詮は見た目が命、曲なんて誰も真剣に聴いちゃいねーんだからよ、こうやって工夫してンだ」
「イナズマちゃん、誰も聴いてない、は言い過ぎ」とアオ先輩。
「けどよアオ、可愛いバンドとダサいバンドがあったら、どっち見に行くよ?」
「可愛いバンド」
「だろー?」少女――イナズマちゃん? が僕に再び笑いかけてきて、「俺様ぁ性格がこんなんだからよ、せめて色目使ってバンドに貢献しようとがんばってやってンだ。だっつーのに肝心のバンマス様は遅刻しやがるし……」
はぁ~と大げさにため息をついてみせるイナズマちゃん先輩。なるほど、このバンドにおけるツッコミ役兼苦労人枠はこの人らしい。前のバンドの駿河九郎くんと同じポジションだ。
「ところで赤ちゃんは?」アオ先輩が廊下を見回しながら言う。
「赤ちゃん?」
「あぁ、うん。ウチのもう一人のメンバーなんだけど」
「赤ちゃんはアカンわぁ~」シロ先輩がスマホから顔を上げた。手で涙を作ってみせて、「心が風邪引きサ~ンバ」
「また? 長いね」
「まぁ『今日』の『結果』が出るまでは、さすがになぁ~」とシロ先輩。
「俺様ぁ赤の気持ち分かるけどな」とイナズマちゃん先輩。
「あはは。イナズマちゃんってば言動おっさんなのに心は乙女だよね」とアオ先輩。
「てめーは心がおっさんだけどな」
女三人寄ればなんとやらで、ずいぶんと姦しい。けど今、『遅刻』って言わなかったっけ?
「アッソノゥ……それで今から、何が始まるんです?」
三人が一斉にこちらを向いて、
「「「入部テスト――だよ」だぜ」やで~」
薄暗い廊下を抜けると、半分屋上みたいになったスペースに出た。そのスペースの上にどどんと乗っかっているのが、「防音室?」
「そ。我らが軽音学部の部室。とは言ってもボクらは人数がめちゃくちゃ多いから、部活棟三階の廊下は全部ボクらの部室みたいになっちゃってるけど。ほら、入って」
「アッハイ。失礼しまぁす……」二重になった防音扉を開こうとすると、
「ぐすっ……ぐすっ……」中から泣きはらした様子の女子が出てきた!
「アッスイマセン」僕が慌てて飛びのくと、女子はそそくさと去っていく。「今の何デスカ」
「あー。落ちた子だろうねぇ」アオ先輩がさらりと言う。
「えっ、落ちることあるんですか⁉」
「そりゃ入部テストだからね。けどモヤシちゃんなら大丈夫」
何を根拠にそんな……。
僕が震えながらドアを開くと、ちょうど次の入部希望者がハイハットを鳴らしはじめたところだった。部室の中は、広い。普通、音楽スタジオだと六畳くらいの広さしかないのに、この部屋はその三倍はある。けど、それほどの広さを持つはずの部屋が、今はひどく狭く感じる。たくさんの上級生たちが、壁際にずらりと立ち並んでいるからだ。
「ヒッ……」
昨晩は和気あいあいとしていた上級生たちが、鬼気迫る表情で部屋の中心――テストを受ける入部志望者を見据えている。
青い顔でドラムを叩いているのは、昨日見かけた覚えのある新入生。上級生らしきボーカル、ギター、ベースが一緒に演奏している。曲は流行りのJポップ。ボーカル、ギター、ベースは、かなり上手い。夏野のバンドよりも、圧倒的に上手い。プロ並みだ。対する新入生ドラムスの方はというと、うん……まだ、ちょっと、うーん、という感じ。エイトビートは叩けているけど、フィルイン(繋ぎ目の即興フレーズ)でもたつく。リズムキープもできてない。
――ドワワァァアア~~~~ンッ! 突然、ドラのような音が部室に鳴り響いて、僕は飛び上がった。見れば部屋の隅で、Zildjanのチャイナシンバルを叩く男性がいる。筋肉モリモリマッチョマン。『ザ・ドラマー』って感じの男性だ。
「そこまで!」その男性が言った。
「そんな⁉」入部志望者が立ち上がる。「まだ時間はあるはず――」
「そんだけ見りゃ十分だよ。残念だが他を当たってくれ」
「せっかく推薦人を五人集めたのに!」
「悪いな。次は――…おっ」筋肉先輩が僕を見た。「例の貧乏ゆすりボーイだな? 推薦状は持ってきてるか?」
「エッスイセンジョウ⁉」
「もちろん」と、アオ先輩が紙束を取り出す。「はい、ドラムパートリーダーさん」
なるほど、この筋肉先輩が軽音学部におけるドラムのパートリーダーらしい。いかにも『ドラムやってます』風な筋肉だ。うらやましい。僕がこの人くらい筋肉モリモリだったらきっと、夏野も僕をクビになんてしなかったんだろうな……。
「推薦人はアオにイナズマ、シロにくれなゐ。おわっ、くれなゐのヤツ、二枚とも貧乏ゆすりボーイにぶっこんでんのか⁉」
くれなゐ、紅、赤ちゃん先輩のことか。変わった名前。でも、なんだか懐かしいような。
「さて、貧乏ゆすりくん。入部テストのルールは簡単。制限時間の十分以内に、俺をうならせるドラムを叩ければ合格だ」
でも、お粗末な演奏だと十分を待たずに銅鑼を鳴らされるわけだよな。さっきの新入生、聞くに耐えないほど下手くそってほどじゃなかったと思うけど……厳しい試験になりそうだ。
「ウチはご覧のとおり大学イチの強豪で、本来は飛び入り参加は許可しない方針なんだ。けどくれなゐとアオがやたら推すから、こうしてねじ込んだ。だからお前さんには、追加でハンデを負ってもらう」
「エッ⁉」
「課題曲は、アオが作詞作曲した中で最も難易度が高いモノを選ばせてもらった。さらには、この場で曲を受け取って、覚えて、演奏してもらう」
「十分の中で、ですか⁉」
「そうだ」
な、何てこと……。早速、楽譜を渡される。ドラム譜というヤツだ。だけど……あぁぁぁ!
「ほらほら座って座って。椅子の高さ調整して」アオ先輩が僕をドラムの席に座らせる。「スティックはコレ使ってね。タムの角度は大丈夫? シンバルの高さはどうかな」慣れているらしく、アオ先輩は僕の体格に合わせてドラムの高さ・角度を手早く修正してくれる。
隣ではシロ先輩がシンセサイザー(キーボード)の電源を入れ、アンプの音量を調節しはじめる。イナズマちゃん先輩もドでかいベースをベベベベ、と鳴らしはじめる。
僕は気が気でない。だって、だって僕は、僕は――!
「それじゃ、始めよう。ワン・ツー・スリー・フォー」
♪ ♪ ♪
(…………は? はぁぁぁああああっ⁉)ドラムパートリーダーはびっくり仰天した。アオが連れてきたドラム志望者の、あまりの下手くそ振りに。
辛うじて8ビートは叩けている。が、そもそもこの曲は8ビートではなく16ビート。しかも単純に右・左の順にハイハットを叩けば良いような単純なシロモノじゃない。アオの癖が前面に出た、ドラマー泣かせな超テクニカル16ビート。多彩なルーディメンツを駆使してハイハット部にライトシンバルを織り交ぜ、スネア部もスネアとタムタムを交互に叩き、裏拍やさらにその裏、32ビート拍にキックを織り交ぜるようなエグさを極めたオシャレビートだ。
(軽音イチ上手い俺ですら、簡略化させないと叩けないビート。そんなエグいビートを叩ける逸材が現れたって聞いたから、無理やりねじ込んだってのに……)
見れば、さきほど十分を待たずに不合格にされた新入生が、鬼の形相で貧乏ゆすりボーイを睨んでいる。それはそうだろう、とパートリーダーは同情する。彼は入学初日から入部を希望していて、自分の手で推薦状を五枚集めてきたのだから。新歓コンパ当日に突然現れて、推薦状も二回生に任せっきりなぽっと出がこんなポンコツだったら、そりゃ怒りたくもなる。
(こりゃ、炎上する前にさっさと中止させたほうがいいか)
パートリーダーがチャイナシンバルに向けてスティックを振り上げた、そのとき。
♪ ♪ ♪
ダメだ! このままじゃ、僕は確実に不合格になる。せっかくアオ先輩に拾ってもらえたのに。セッションしたいって言ってくれたのに! 諦めたくない! どうしよう、どうすればいい⁉ ――そうだ!
「あっ、あのっっっっっっっっ!」僕は演奏を止め、あらん限りの声で叫んだ。こんなに強く叫んだのは、多分、人生で初めてだ。「僕、楽譜が読めないんです!」
「「「「「…………は?」」」」」ドラムパートリーダー先輩、周囲の上級生、アオ先輩に至るまでのほぼ全員が、ポカーンとした顔になる。
そう、僕は楽譜が読めない。今までのバンドでは、音源を渡されて聴いて覚える方法、『耳コピ』しかしたことがなかったから。
「だから、耳コピさせてもらえませんか⁉ 先輩は先ほど、『この場で曲を受け取って』と言いました! だったら音源を『受け取る』のはルール範囲内のはずです!」
「残り七分だぞ」ドラムパートリーダー先輩が顔をしかめる。「できるのか?」
「やらせてください」
「分かったよ。――アオ」
「うん」そのときにはもう、アオ先輩はスマホを取り出し、音楽再生アプリを起動させていた。イヤホンを僕の耳に差し込んでくれる。
「ありがとうございます」僕は曲を再生させる。テクニカルな16ビート。確かなベースと暴れ回るギター。ギターとユニゾンして一緒に暴れ回るドラムのフィルイン。
動画再生時間は三分五十七秒。間に合わない。二倍速で聴く。集中する。音の一粒一粒に至るまで聞き逃さない。いつしか左足が貧乏ゆすりをしている。テンポを足で取っている。この曲、めちゃくちゃテンポが速い。でも、何だか聴き覚えがある。人間が歌うことを前提にしてない、早口な曲。そう、YouTubeやニコ動で人気のボカロP『青子緑子』。これは、青子緑子の曲によく似た早口アップテンポなテクニカルロックだ。
推定、216bpm。
一般的なJポップが160bpmなのを思えば、ちょっと異常なほど早い。しかも16ビート。手数は単純に二倍。一昔前の僕なら、とてもじゃないけど出せないかったスピードだ。
「残り五分だ」パートリーダー先輩がわざわざ時間を知らせてくれる。優しい人なんだな。
さらに数十秒して、僕の方も演奏を聞き終わった。もう、残り時間は四分と少ししかない。
「――いきます」僕は短く告げて、カウント代わりのハイハットを四回。
演奏が、始まった。まず、最初の二小節でベ-スがぐいんぐいんと暴れ回る。音源を聴く前は意味が分からなかったけど、今なら分かる。今日不在のギターの代わりを務めているんだ。続く二小節、ベースに絡み合うようにして、ドラムのフィルインがベースとユニゾンする。四小節目でシンセサイザーが乗り、それでイントロは終了。
アオ先輩が、鋭く息を吸った。マイクが拾ったその音が、ドラムの返し(スピーカー)から僕の耳に襲いかかる。
すごい。ブレスまで可愛いだなんて。
歌が、始まった。
僕は夢中になった。
♪ ♪ ♪
(何だ、コイツ……)ドラムパートリーダーは目を疑った。
軽音学部で一番上手いはずの自分ですら叩けないルーディメンツマシマシのえげつない16ビートを、貧乏ゆすりボーイが寸分たがわず叩ききっている。貧乏ゆすりボーイの左足が、ハイハットペダルを保持している足が、激しく振動している。メトロノームかと思うほど正確に振動している。
(そう、そうだ。上手いドラマーは、必ず左足でテンポを取る。左足でテンポが取れないヤツは、安定しない。アップテンポな左足は、貧乏ゆすりのように見える。というか、貧乏ゆすりをして足首と膝を鍛えるんだ。先代のドラムパートリーダー、ゴッド先輩のように!)
ドラムパートリーダーは、もちろん耳も疑った。だが、耳よりもなお疑ったのが、目だ。
(アオが……笑ってる)
あの、気難しいことで有名なアオが。リズムキープにメチャクチャうるさくて、数bpmでもズレようものなら、途端に顔をしかめるアオが! かく言うドラムパートリーダーも、つい先日、アオのバンドを追い出されたばかりなのだ。
(は、ははは……お前、ついに理想のドラマーを見つけたんだな!)
ちょんちょん、と隣のサブパートリーダーが肩をつついてきた。彼女は青い顔をして、パートリーダーにメトロノームを見せる。
216bpm。
演奏と、メトロノームの針の動きが完全に一致している。彼は数秒待つ。針の動きは演奏と完全に一致している。さらに数十秒待つ。やはり寸分の狂いもない。……結局、演奏が終わるまでメトロノームを見つめ続けたが、最後の最後まで1bpmすらズレなかった。
(人間業じゃない)パートリーダーは恐怖する。(絶対おかしい。こんなの、人間ができることじゃない。コイツ、天才だ。リズムキープの、天才。リズムキープ力の――…バケモノ)
♪ ♪ ♪
演奏が、終わった。
僕は顔を上げる。いつの間にか、全身汗だくになっていた。
アオ先輩が、振り向いた。アオ先輩が笑っている。顔が、全身が、喜びを表現している。
「「「「「わぁあああああああああっ!」」」」」
大歓声が沸いた。上級生たちが、新入生たちも、さっき落ちたドラム志望の人すらもが、熱狂しながら拍手をしている。それは、そうだろう。これほどの演奏だ。
土台を守りつつギターの代わりまで務めるイナズマちゃん先輩の鋭いベース。ギター不在で足りない音域をさり気なくカバーしつつ、けっして邪魔にならないよう裏方に徹するシロ先輩のキーボード。そして何より、ぞっとするほど可愛くて艶やかな声から繰り出される、聴く者の心を虜にさせるボーカル。216bpmという早口な歌なのに、ただの一度もつっかえることなくスラスラと、それでいて情熱的に歌い上げたアオ先輩。この拍手は、賞賛は当然だ。
――ドワワァァアア~~~~ンッ!
視線がドラムパートリーダー先輩に集まる。先輩が大きく息を吸って、「――合格っ‼」
たくさんの拍手。それは、抑圧されたバンド生活しか知らなかった僕にとって、生まれて初めて得られた快感だった。脳が痺れる。全身がゾクゾクする。高揚感で頭がパンクしそうだ。
「ようこそ」アオ先輩が、汗だくで微笑んでいる。そうして、手を差し出してきた。「ようこそ、ボクたちのバンド――キング・ホワイト・ストーンズへ! 今日からキミが、ウチのドラマーだ。最高の演奏を頼むよ?」
「はい!」僕はその手を取った。じんわりと、二人分の汗が混じり合う。そんな感覚すら、愛おしくて誇らしい。「アオ先輩のご期待に添えるよう、全力を尽くすと誓います!」