玄関から現れたのは愛理栖のお母さん
それは、隣には愛理栖の知らない男の人と愛理栖の知らない幼い女の子がいて、 三人仲良く手を繋いで楽しそうに話している姿だった。
「……………」
愛理栖は目の前の信じられない光景に言葉を失っていた。
愛理栖の瞳は、まるで雨雲のようにどんよりと曇っていた。その瞳からは、深い悲しみと絶望が伝わってきた。
あの男は誰なのか。
あの女の子は誰なのか。
お母さんはどうしてそんなに笑っているのか。
愛理栖には何も分からなかったのではないだろうか。
しかし、
きっと愛理栖の心の中では、
今の僕とは比較にならないくらいの
胸が強く締め付けられるような苦しさと、
涙がとめどなく溢れそうになるような悲しさと、
何かを壊したくなるような激しい怒りと、
それらを抑え込もうとする絶望感や無力感
が交錯していたに違いない。
僕は深く深く心に刻んだ。
下水の水より濁り納豆より腐れきった目の前の奇行を。
僕は愛理栖を守ってやりたかった。
でも、僕には何もできなかった。
僕は心の奥底から湧き上がる怒り、悲しみ、絶望を、どうすればいいのかわからなかった。
僕はただ、愛理栖の手を握りしめて、
彼女の気持ちを察してやろうとした。
僕はただ、愛理栖のお母さんに対して、
憎悪と軽蔑と嘲笑とを込めて睨みつけた。
僕はただ、愛理栖に対して、
優しくて温かくて強くて頼もしい存在でありたかった。
しかし、僕は同時に
自分自身の無力さにも苛立ちを感じていた。
激しい憤りで煮えたぎったこのやり場の無い腹の虫に、
ただただ歯を喰い縛ることしか出来ず、
愛理栖の為に何一つ声を
僕は、愛理栖の母親を恨み、憎しみ、軽蔑した。
そして、愛理栖に何もしてやることができない、
そんな自分の無力さを呪った。
「あら、こんな時間に誰か来たわね」
愛理栖の母親らしき女性は、
遠目から見ている愛理栖には気付いていなかった。
そして、男と女の子に向かって笑顔で言った。
「これから一緒にご飯食べましょうね」
その言葉が愛理栖の耳に届くと、
愛理栖はさらに顔を歪めた。
お母さんはもう私のことを忘れてしまったの?
お母さんはもう私のことを愛してくれないの?
愛理栖の潤んだ目からは、
あたかもそう主張しているように僕には感じられた。
僕は、まるで魂が抜けたかのようにピクリともしない愛理栖を引っ張って、一緒に車のほうへと向かった。
僕は愛理栖の事があまりにも不憫で、
どのような言葉をかけるべきか思いつかずにいた。
すると、緊張が解けたのか、
愛理栖は突然、僕の胸に顔を
そして、声が枯れて出なくなるのではないかと僕が心配になる程に彼女は深く深く泣き続けた。
「頑張ったね。
もう我慢しなくて泣いたっていいんだよ」
僕はそう言って愛理栖を抱きしめた。
僕は彼女が泣き止むまでそばにいてやろうと決めた。
彼女が笑顔に戻るまで支えてやろうと誓った。
彼女が幸せになるまで愛してやろうと思った。
こうして、僕と愛理栖、二人の旅は終わった。
僕と愛理栖はそれぞれ変わらない日常に戻った。
そして何日か過ぎた。
僕は意気消沈している愛理栖をなんとか元気付けたいと思い、
映画館に誘う事にした。
これって考えてみると、 デートに誘ってるんだよな。
愛理栖は僕の誘いに応じてくれるかな?
僕はドキドキしながら愛理栖に電話をかけた。
「愛理栖この前観たい映画があるって言ってたよね!
それなんだけどね。 今度行かない?」
僕はドキドキしながら愛理栖にそう伝えた。
「映画館ですか? 行きたいですが、 いつなんですか?」
「土曜日で考えてるんだけど、
愛理栖はその日大丈夫そう?」
「土曜日ですか~。
その日はおばさんの仕事の手伝いで長野市に行くんですが、
昼の1時から5時までの間なら抜けられますよ」
愛理栖に断られるんじゃないか不安だったが、 オッケーをもらえた。
「じゃあ今度の土曜日2時に
長野駅善光寺口外の銅像前で待ち合わせにしようか?」
「わかりました。 土曜日楽しみにしてますね」
僕はその日、まるでウサギが跳ねるかのように飛び上がって喜んだ。
待ち合わせ当日
愛理栖との待ち合わせ当日を迎えた。
僕は待ち合わせの30分早く、 待ち合わせ場所に着いて愛理栖が来るまで待つ事にした。
同じ長野県なのか疑いたくなるくらいに最近の長野駅周辺の発展は著しい。
駅周辺だけで言えば、 日本の三大都市にも劣らない夜も眠らない街と化しているのだ。
待ち合わせの15分くらい前、
僕は昼食を食べ過ぎお腹が少し痛かったので、
愛理栖に会う前に駅の公衆トイレに行っておくことにした。
公衆トイレの場所は待ち合わせ場所から目と鼻の先ですぐに解った。
しかし、そのときたまたま清掃中だったので、
他の公衆トイレを探すため東口へ向かった。
駅の構内図を見ても他の公衆トイレの場所がなかなかわからなかったので、 少し遠回りかとは思ったが、
東口から出て近くのコンビニのトイレを借りることにした。
それは、ちょうど僕がコンビニから出て、東口側の大きな柱の上の時計で時間を確認していた時だった。
「しく、しく」
遠くの方で幼い男の子が一人で泣く声が聞こえてきた。
僕は迷子かもしれないとすぐに思ったが、
『愛理栖との約束』と『男の子の親探し』を
天秤にかけてしまい、 しばらくその場を動けなかった。
迷子の子の親探しをするべきかな?
いや、 でも映画を観れなくなっちゃうと愛理栖がっかりするよな……。
僕が頭の中でいつまでも考えを巡らせていると、 いつの間にか泣いていた男の子はいなくなっていた。 ご両親みつかったのかな?
それから待ち合わせ場所に戻り、 待ち合わせ時間を30分過ぎても愛理栖から連絡が無かった。
僕は心配になって愛理栖に電話をかけた。
『プー、お掛けになった電話番号へは、 現在お客様の都合によりかかりません。 誠に申し訳ありませんが番号をお確かめになるか、しばらくたってからまたおかけ直しください。
ツー。 ツー。 ツー』
愛理栖出ないな。どうしてだろう?
仕方ない、 メールをしてみよう。
『愛理栖どうしたの? 都合が悪いんだったら無理はしなくて大丈夫だけど、とにかく連絡ちょうだい』
「送信!」
僕は愛理栖がトラブルに巻き込まれた可能性も考えて、
駅の入口から出て辺りを探す決心をした。
元々は晴れていた今日の天気だが、
まるで僕の心を映す鏡のように急に激しい大粒の雨を降らせてきた。
僕はバスの停留所の雨避けの下で愛理栖から連絡が来るのを待つことにした。
それから更に一時間くらい経ってからだろうか。
愛理栖からやっとメールが来た!
『ごめんなさい』
『どうしたの?』
僕は間髪入れず、 すぐにメールでそう送ったが、
愛理栖からの返信は来なかった。
僕は祈るような気持ちで愛理栖に電話を3回かけ、
やっと愛理栖と電話が繋がった。
「愛理栖、 もしかして泣いてる?」
僕はその泣き声が妙に近くからだったので、
もしやと思い一呼吸置いてから肩を大きく回した。
すると、 その声の先には……。
土砂降りの中傘もささず、 ずぶ濡れな人影があった。
泣きながら僕の電話を受ける愛理栖だった。
「あ、 あ、 あ……」
僕の肺は、 まるで首を絞められているかのように
普通に呼吸する事さえ許してはくれなかった。
僕が言葉に詰まっている間に、愛理栖は僕の側まで一気に距離を詰めてきた。
「パチ~ン!」
「え…………?」
それは一瞬の出来事だった。