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焦土に咲く赤

街を焼く炎、それはクライン軍の侵攻の炎だ。

かつて平和な都市だったエルディアは、今、巨大な鉄塊と火炎放射器が支配する焦土と化した。建物の残骸がそこかしこに転がり、空には黒煙が立ち込めている。クライン軍の兵士たちが、汚れた軍靴でアスファルトを踏みつけ、破壊を愉しむかのように叫び声を上げている。その騒乱のさなか、一筋の影がひっそりと、瓦礫の隙間を縫うように動く。リラ、28歳のエルディア軍情報部員だ。


リラの胸は絶望に塗り潰されている。昨日まで共に作戦を練っていた仲間たちの、変わり果てた姿を何度も見た。あの若く情熱に満ちた目は、最早永遠に開かれる事はない。死に際で虚ろに揺れた光景が、リラの脳裏にこびり付いている。リラは生きている、かろうじて。それは、奇跡か、それとも地獄からの悪戯か。


「どこだ、リラ。あのネズミ女を探せ」


大柄なクライン軍の兵士が、付近の瓦礫に向かって怒鳴った。金属質のヘルメットの下に隠された醜い顔が、歪み笑いを浮かべている。その目付きは獲物を探す肉食獣そのものだ。彼らの足音がすぐ近くまで迫ってきている。リラは物陰に身を隠し、呼吸を押し殺した。クライン軍の侵攻から3日、もはや彼女の体は疲労困憊の域を超えていた。一睡もしていない。そして彼女を追い詰めているのは敵兵だけではない。同じ部隊の人間、彼女の直接の上官であり、かつての恋人でもあったディオンの姿がない事が、重くのしかかっていた。あの夜、ディオンは必ず帰ってくると約束した。しかし彼はいない。


戦火の中、人間の心の脆弱さもまた、露呈する。


「貴様は何もできん役立たずだ」

「戦場には、女の居場所はない!」

「お前みたいな弱者は、最初から死ぬべきなんだ!」


普段から聞かされていたパワハラ発言が、戦場という極限状況下で、更にリラの心を蝕む。そんなディオンだったから、きっと戻ってくる、とリラは無意味な期待を胸に抱いていた。クライン軍の兵士が遠ざかったのを確認して、リラはよろめきながらも次の隠れ場所へと向かった。そこは、昔からよく利用していた地下道に繋がるマンホールだった。


リラがエルディア軍に入隊したのは、3年前。その時、情報部に配属された際に指導官だったのが、ディオンだった。ディオンの強引なやり方に反発しながらも、リラは彼に惹かれていった。ディオンの顔には深い傷跡があり、常に冷酷な印象を与える男だった。しかし時に、その冷徹な眼差しの中に優しさが見えた気がした。互いに惹かれあった二人は恋人となったが、それから3ヶ月後、ディオンは別人になったようにリラを拒絶するようになった。それは彼が以前の戦で、凄惨な目に遭った事が理由だと、後に聞いた。それからは日常的にリラへのパワハラと嫌がらせが続いた。それらすべてを受け止め続けたのは、彼を愛していたからだ。だが愛は報われなかった。


地下道に入り、湿った空気を肺いっぱいに吸い込んだ。下水のような臭いが鼻を突く。汚れた地下水を避けて慎重に足を進めていると、不意に微かな光が見えた。その光を目指して進むと、地下通路の奥で誰かが何かをしていた。


「…誰?」


警戒しながら声をかけた。


「あ、お嬢さん!驚かせたかな?」


その人物は振り向いた。初老の男性、オズモンドがそこにいた。昔、リラの家の近所に住んでいた人だった。オズモンドは目を細め、優しそうに微笑みかけた。彼は穏やかな雰囲気を纏っていたが、なぜか、どこか普通とは違う雰囲気があった。


「オズモンドさん、こんな所で何をしているんですか?」


リラが問う。オズモンドは照れたように頬を掻きながら、薄汚れた布をかぶせて隠していたものを示した。それは、泥まみれの車椅子だった。


「ワシはね、若い頃から機械いじりが好きでな、この街の地下に隠されていた電動車椅子を、ちょこっと改造してみたんじゃ。」


オズモンドが嬉しそうに語る。彼の手元を良く見ると、工具が散らばっており、いくつかは未完成の装置が、泥の上に置かれていた。明らかに電動車椅子ではない、何か、危険な装置に見えた。


「お嬢さんも知っていると思うけど、ワシはもう運転免許証なんて持ってないよ。だがね、コレに乗ればどこへだって行けるんだ!ワッハハハハ!」


オズモンドが笑いながら、装置の一部を調整する。その笑い声が、やけに地下道に響く。オズモンドは、リラを助けたいと、申し訳なさそうに言った。


「どうかね、ワシの車椅子に乗って一緒に逃げてはくれないか。こんなワシでも、多少はお嬢さんの役に立てると思うんだ」


「…え、いいんですか? ありがとうございます!」


「いいのさ。もう老人には怖いもんなんてないよ」


リラは、一瞬だけオズモンドに抱きしめられた。その瞬間、オズモンドから懐かしい匂いがした気がした。温かい人の温もり。それは数日前まで、当たり前だった日常だ。だが今は、それを思い出すだけで、涙が溢れてきた。


リラが車椅子に乗り込んだ。オズモンドは満足そうに頷くと、ハンドルに繋がるレバーを操作し始めた。


「掴まってな。いくぞ、出発だ!」


低く唸る音が、地下道に響き渡った。加速装置が始動し、車椅子が急加速する。予想をはるかに上回るスピードと加速にリラは驚いた。車椅子は壁にぶつかりそうになりながらも、まるで暴走機関車のように、闇の地下道を進む。進むにつれて、奇妙な音も増していった。金属が擦れるような、壊れるような音もする。


この電動車椅子、ただものではない。


オズモンドが作り出したもの、それはもはや、人の手を離れた危険な代物に見えた。リラの背中に、今までとは別の、底知れない恐怖が迫る。一方で、どこか突き抜けたような、狂気に満ちた爽快感があった。それは絶望の中で、初めて感じた感情だった。


地上に繋がるハッチを突き破り、車椅子は路上に飛び出した。街の風景は相変わらず悲惨だ。焼け焦げた瓦礫、殺戮を楽しむ兵士達、血と焦土の匂いが蔓延する。それらを目にしたリラは、奥歯を噛み締めた。自分は何が出来るのだろう。何も出来ずに終わってしまうのか? リラが思考を巡らせていると、近くを走っていたクライン軍の戦車がこちらを向いた。それはリラたちを、格好の獲物と認識した。戦車の主砲が、唸りを上げた。


「オズモンドさん、あれは…!」


「フハハ! 大丈夫だ、お嬢さん!あの程度、恐るるに足りんわ!」


オズモンドがハンドルに付いているレバーを更に倒すと、電動車椅子が更に加速する。それはまるで、狂気に突き動かされる猛獣のようだった。主砲の砲弾は、電動車椅子が残した残像に激突する。戦車兵達の驚愕した表情が目に浮かぶ。リラの背中に、狂喜が満ちてきた。もう何もかも壊れてしまえ、と。


突如、車椅子は方向転換した。目的地は、クライン軍が拠点にしていた病院だ。この街に残された、最後の希望だった病院だ。ディオンは、恐らくここに捕らわれている。


「オズモンドさん、病院へ!どうか…どうか!」


「ああ!ワシに任せておけ!」


オズモンドが吠えるように答えた。狂気の笑みだ。電動車椅子は更に加速した。破壊兵器と化した電動車椅子は、次々とクライン軍兵士達を轢き倒した。兵士の悲鳴と怒号が入り混じり、戦場は更に混乱に陥った。病院の前にはクライン軍が壁のように立ちはだかる。電動車椅子の改造に狂ったオズモンドと、絶望と復讐心で狂ってしまったリラ。二人の絶望は加速する。オズモンドが叫んだ。


「全速力じゃああああ!!!」


電動車椅子は加速し、凄まじい轟音と共に病院に突入した。粉々になったコンクリートが飛び散り、鉄骨が歪む。阿鼻叫喚の中、破壊は続き、無差別に、人を轢き倒し、なぎ倒していく。血と肉片がそこら中に散乱し、阿鼻叫喚が止まらない。そこにあるのは、惨劇だけだった。


リラは、病院の奥へと進んだ。そこで、変わり果てた姿のディオンを見つけた。彼の顔は泥だらけで、着ていた軍服は破れて血まみれになっていた。腕を怪我しているようだ。目の前にはクライン軍の兵士達が何人もいて、彼の首に剣を突きつけている。


「ディオン!」


リラが叫ぶ。その声に気が付いたディオンは、顔を歪めながら、リラの名前を呼んだ。


「リラ…逃げろ…!」


次の瞬間、剣がディオンの首に振り下ろされた。鮮血が噴き出し、彼の首が地面に落ちる。それを目撃したリラの中で何かが弾けた。彼女の中で今まで抑制されていた破壊衝動が、爆発した。リラは、オズモンドに頼んだ。


「もっと速く、もっと…もっと速く走って!!」


電動車椅子が、狂気の叫びを上げる。改造車椅子は制御不能になり、病院全体を破壊し尽くした。リラを突き動かすのは、もはや破壊衝動だけだった。そこに未来はない。全てが崩れ去っていく。その中で、一筋の、かすかな希望が見えた。


破壊の中から、何かが生まれる。


リラはそう確信した。燃え盛る焦土の上で、悪魔の嘲笑のように、リラの笑い声だけが虚しく響いていた。それは、絶望という名の、黒い炎が燃え尽きる、刹那の光芒だった。

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