彼女は僕の担任だった。黒髪を長く伸ばし、いつも一つにまとめていた。その黒髪が、放課後の教室に差し込む西日に照らされて、まるで聖女の光輪のように見えた。いや、見えたんじゃない。彼女は聖女そのものだった。少なくとも、あの頃の僕にとっては。世界は灰色で、何もかもがつまらなくて、希望なんて欠片も見えなかった。そんな僕の前に現れた彼女は、唯一の光だった。
「ユウキくん、進路のこと、ちゃんと考えてる?」
誰もいなくなった教室。机の上に散らばった教科書やノート。沈黙に沈んだ空間の中で、黒田先生の声だけが優しく響いた。いつもの落ち着いた口調。少し大人びた、それでいて甘い香りが、僕の周りの空気を満たしていく。
「まあ、ボチボチっすかね」
本当は何も考えていなかった。将来のことなんて、考えたところでどうなるわけでもないと思っていた。ただ、先生と話したかった。先生の傍にいたかった。だから、どうでもいいような返事をした。
「ボチボチじゃダメよ。ユウキくんには、もっと色んな可能性があるんだから」
黒田先生は僕の肩にそっと手を置いた。その温もりが、僕の凍りついた心を溶かしていくようだった。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、僕は先生の顔を見つめた。深い愛情が込められた、優しい眼差し。その瞳に吸い込まれそうで、僕は思わず息を呑んだ。
それからというもの、放課後に黒田先生と話すことが多くなった。先生は、僕の話を真剣に聞いてくれた。くだらない冗談にも、顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。勉強のこと、友達のこと、家族のこと。誰にも言えなかった悩みも、先生には素直に打ち明けられた。先生は、僕にとって、唯一心を許せる存在だった。
ある日、先生は僕をドライブに誘った。「気分転換になるわよ」と優しく微笑みながら。真新しいレンタカーに乗り込み、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めていた。車内は、先生のお気に入りのバニラの香りで満たされていた。心地よい静寂と、甘い香りが、僕を不思議な安堵感で包み込む。母の胎内にいるような、そんな安心感だった。
「ユウキくん、将来何になりたいの?」
先生は、ハンドルを握りながら、優しく尋ねてきた。視線は前方の道路に向けたままだ。その声には、僕だけに向けられた特別な温もりがあった。
「……わかんないっす」
僕は、正直な気持ちを吐露した。将来のことなんて、真剣に考えたことがなかった。目標もなく、ただ漠然とした不安だけが、胸の中に広がっていた。
「そう。じゃあ、色々見てみようか」
そう言って、先生はアクセルを踏んだ。車は滑らかに走り出し、街の喧騒から僕たちを連れ去っていく。現実の世界から、どこか別の世界へ連れて行かれるような、そんな感覚だった。
辿り着いたのは、巨大なショッピングモール。僕たちは、様々なお店を見て回った。色とりどりの服、最新のゲーム、分厚い小説。何気ない時間が、キラキラと輝いて見えた。あの時、僕の世界は、先生と二人だけの小さな宇宙だった。他の誰にも邪魔されることのない、二人だけの楽園。
フードコートでハンバーガーを頬張っていると、先生は唐突に言った。
「ユウキくん、下着は何色が好き?」
僕は驚いた。心臓が口から飛び出しそうになった。一瞬、時間が止まったように感じた。なぜか嫌な気はしなかった。不思議な興奮が体を駆け巡るのを感じた。
「……黒っすかね」
少し照れくささを感じながら、答えた。
「ふーん。私も黒が好き」
先生は意味ありげに微笑んだ。その笑顔は、いつもより少しだけ大人っぽく、艶っぽく見えた。秘密を共有したことで、僕たちだけの特別な繋がりが生まれた気がした。
ショッピングモールを後にして、駐車場に戻った。車に乗り込むと、先生は何も言わずに僕に抱きついた。バニラの香りと、先生の柔らかな体温に包まれて、僕の思考回路はショート寸前だった。頭の中は真っ白になり、ただ、先生の温もりを感じるだけで精一杯だった。
先生は、ためらうことなく僕の服を脱がし始めた。僕も、自然と先生の服に手を伸ばした。初めて見る先生の裸体。白い肌、柔らかな曲線。息をするのも忘れて、ただ、その美しさに見惚れていた。
「ユウキくん…好き…」
先生は僕の耳元で囁いた。その声は、甘く、そして、切なかった。まるで、全てを捧げるような、そんな覚悟が込められているように聞こえた。
その言葉が、僕の最後の理性を吹き飛ばした。僕たちは、狭い車内で一つになった。初めて経験する、激しい快感と、深い愛情。今までに感じたことのない、強烈な感情の渦だった。あの瞬間、僕たちは、世界でたった二人の恋人同士だった。
その後も、僕たちは何度か会った。ドライブで海へ行き、二人で夕日を見つめたり、ショッピングモールで他愛のない買い物をしたり。そして、いつも最後は、車の中で体を重ねた。先生は僕に「ぎゅってしたかった」「裸で抱き合うのも気持ちいいけど、次は出すところ見てみたい」とメールを送ってきた。僕も、先生に夢中だった。先生は僕だけの聖女で、僕は先生だけの信者だった。
しかし、そんな幸せな日々は、永遠には続かなかった。ある日、学校に刑事が来た。黒田先生は、児童福祉法違反の疑いで逮捕された。
信じられなかった。頭の中が真っ白になった。突然、目の前が真っ暗闇になった。先生は、裁判で僕との関係を全て否定した。「性的行為は同意していなかった」と主張した。
僕は、混乱した。何が真実で、何が嘘なのか。僕たちは愛し合っていたんじゃないのか。それとも、僕は最初から最後まで、先生に騙されていたのか。答えが見つからないまま、僕は深い闇に落ちていった。
黒田先生は懲戒免職になった。もう二度と、あの優しい笑顔を見ることはできない。僕の世界は、音を立てて崩れ落ちた。高く積み上げられたジェンガが、一瞬で崩れていくみたいだった。
それでも、僕は生きていかなければならない。あの時の先生の笑顔、温もり、香り。全てが、消えない傷跡のように、僕の心に深く刻み込まれている。
この苦しさから解放される日は来るのだろうか。希望の光は、心の奥底で微かに輝いている。暗闇に迷い込んだ僕を導く、小さな灯台のように。
いつか、この閉ざされた楽園から、飛び立てる日が来るのだろうか。