雨の音が、やけに大きく聞こえる。カーテンの隙間から、外のネオンが滲んで部屋に流れ込んでくる。時計の針は午前二時を少し回ったところ。ベッドの中で、私は目を閉じたまま、規則正しい呼吸を繰り返している彼の背中を見つめていた。優しい寝息が聞こえるたび、胸の奥が締め付けられる。彼は知らない。私が今、どれほど深く傷ついているのか。私が今、どんな地獄を見ているのか。
あの夜から、私の時間は止まったままだ。一週間前、会社の飲み会の帰り道。人通りの少ない裏路地で、私は男に襲われた。恐怖で声も出せず、ただされるがままに身を委ねるしかなかった。抵抗すればするほど、男は興奮し、暴力を増していった。殴られ、蹴られ、髪を引っ張られ、まるで人形のように扱われた。そして、意識が朦朧とする中で、私は尊厳を奪われた。あの瞬間、私の未来は粉々に砕け散った。
警察に被害届を出し、男はすぐに逮捕された。でも、私の心の傷は癒えるどころか、日増しに深くなっている。フラッシュバックが襲い、眠れない夜が続く。食欲もなく、体重は減る一方だ。鏡に映る自分の顔は、やつれて別人のようだ。それでも、私は日常を演じなければならない。彼の前では、いつも通りの笑顔を作らなければならない。
「……ん、どうしたの? こんな時間に起きてて」
彼が寝返りを打ち、私の方を向いた。寝ぼけ眼で私を見つめる彼の顔には、無邪気な優しさが溢れている。私は咄嗟に目を逸らし、
「少し、目が覚めちゃって。すぐ寝るから、気にしないで」
と、小さな声で答えた。
彼の腕が伸びてきて、私をそっと抱き寄せた。温かい体温が心地よい。でも、私は彼の体に触れることができない。あの男の感触が、まだ肌に残っている。あの男の匂いが、鼻を突く。私は彼の腕の中で、硬直したまま動けなかった。
彼は私の異変に気付いたのだろうか。「大丈夫だよ」と囁き、私の髪を優しく撫でた。その仕草が、あの夜の男の行動と重なり、私は思わず身震いした。
「…ごめん。ちょっと、トイレ」
私は彼の腕から抜け出し、ベッドから這い出た。急いでバスルームに駆け込み、ドアを閉めた。そして、便器に縋り付き、激しく嘔吐した。胃の中のものが全て出尽くしても、吐き気は収まらなかった。
鏡に映った自分の顔は、青白く、唇は紫色になっていた。瞳孔は開き、焦点が合わない。まるで、死人のようだ。私は自分の体を抱きしめ、震えながら蹲った。あの夜の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
男の暴力的な手つき、冷たい目つき、下卑た笑い声。全てが、私の脳裏に焼き付いている。特に忘れられないのは、男の顔だ。暗くてよく見えなかったが、どこかで見覚えのあるような、そんな気がしていた。
私はフラフラと立ち上がり、洗面台の引き出しを開けた。中には、夫との結婚式の写真が入ったフォトフレームがあった。私は写真立てを取り出し、夫の顔をじっと見つめた。そして、気づいてしまった。夫の目元、鼻筋、口元。それらが、あの夜の男の面影と重なっていることに。
まさか。そんなはずはない。彼は、私が愛した人だ。私を大切にしてくれる人だ。信じたくない。でも、一度生まれた疑念は、頭から離れない。私の心は、深い闇の中に突き落とされた。
私は震える手でスマホを取り出し、あるサイトを開いた。そこは、「サレ妻」たちが集まるコミュニティだった。私は恐る恐る、自分の状況を書き込んだ。すぐに、たくさんのコメントが寄せられた。
『つらいですね。私も同じ経験をしました』
『絶対に許せない。徹底的に戦いましょう』
『証拠を集めることが大切です』
私は皆の言葉に励まされ、夫の浮気を疑い始めた。そして、私は夫のスマホを盗み見することを決意した。夫がシャワーを浴びている間、私はこっそり夫のスマホを手にした。パスコードは、私の誕生日だった。簡単にロックを解除できた。
メッセージアプリを開くと、そこには見知らぬ女性とのやり取りが残っていた。露骨な性的な言葉、二人きりで会う約束、そして、ラブホテルの予約確認。私の手は、わなわなと震えていた。怒り、悲しみ、絶望。様々な感情が、私の心をぐちゃぐちゃにかき回した。
さらに、写真フォルダを開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。夫と見知らぬ女性が、性行為をしている写真や動画が大量に保存されていたのだ。男の顔は、あの夜の男の顔と重なった。私の夫は、あの男だったのだ。私はスマホを床に落とし、泣き崩れた。
私は夫のスマホを元の場所に戻し、ベッドに倒れ込んだ。全身から力が抜け、何も考えられなかった。ただ、涙が止まらなかった。私は、夫に裏切られたのだ。それも、最悪の形で。私は夫に性的暴行を加えられ、さらにその事実を隠され、平然と日常を送っていたのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。夫がシャワーから上がり、ベッドに戻ってきた。私は必死に涙を堪え、眠っているふりをした。夫は私の隣に横たわり、何も知らない様子で私の体を抱き寄せた。私は吐き気を催しながらも、じっと耐えた。
夫は私の耳元で、甘い言葉を囁いた。「愛してるよ」と。私はその言葉を聞いて、全身の血が凍り付くのを感じた。愛? この男が、私に愛を語るのか? ふざけるな。私はこの男を、絶対に許さない。
私は静かに目を開け、夫の顔を見つめた。夫はにこやかに微笑んでいた。その笑顔が、私には悪魔の仮面に見えた。私は夫の首に手をかけ、力いっぱい締め上げた。
夫は苦しみ出し、私の腕を掴んで抵抗した。しかし、私は力を緩めなかった。夫の顔はみるみる赤紫色に変色し、目を見開いて苦悶の表情を浮かべた。やがて、夫の抵抗は弱まり、手から力が抜けた。私は、夫の息の根が止まるまで、首を締め続けた。
夫の体から力が抜け、完全に動かなくなったのを確認すると、私はようやく手を離した。夫の顔は、恐怖と苦痛に歪んだままだった。私は夫の死体を見つめ、冷たい笑みを浮かべた。これで、終わりだ。私の地獄は、終わったのだ。
雨はまだ降り続いていた。カーテンの隙間から差し込むネオンの光が、夫の死体を照らしていた。私は立ち上がり、窓を開けた。冷たい風が部屋に吹き込み、夫の髪を揺らした。
私は窓の外を見つめた。暗い夜空には、星一つ見えない。でも、私は知っていた。この闇の向こうには、必ず光がある。未来は向こうからやってくる。私の未来は、これから始まるのだ。
私は静かに部屋を出た。そして、新しい人生を歩み始めるために、雨の中へと消えていった。未来は、向こうからやってくる。希望と共に。復讐と共に。そして、新たな面影と共に。