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第六章 終わりの始まり 2

 病院に行くべきという天音の言葉通り、部屋を飛び出した天音に説明を受けた母さんが、血相を変えて部屋に飛び込んできたのが一時間前。

 もうすっかり日が傾き、夕焼けが街並みを照らす頃、俺たちは再びあの縄気総合病院にやってきた。


「担当の医喜川いきがわです。これから菅原さまの検査をしてまいります」


 新しい担当医は医喜川という、三〇代中ごろほどの比較的若い男性医師だ。

 彼は特別クラシックが好きというわけでもないが、テレビなどで俺のことは知ってくれているらしく、心配していたという。


「まためくるめく検査が始まるのか」


 俺はため息を漏らす。

 なんとか肩を貸してもらえたら歩ける程度には回復したが、完全に手放しでは歩けない。

 これは松葉杖がいるな。


「文句言わないの!」


 天音が俺の頭を小突く。


「痛いじゃないか」


「辛気臭い顔をするからよ」


 どうやら彼女の前で辛気臭い顔はNGらしい。

 初めて知ったよ、そんなの。


「今に始まったことじゃないだろう?」


「うんうん。昔から愛想は悪かったけど、真希人は一度も辛気臭い顔はしなかったよ」


 天音は自信満々に答える。

 そうだろうか?

 天音にも言われた通り、重度のコミュ障だと思うのだが……。


「真希人はいつも自信に溢れた顔をしていた。学校にいる時も、あまり人には興味を示さなかったけど、それでも辛気臭い顔はしていない。一度もしていない。下を向くことはあっても、後ろを向くことはなかった」


 天音はすらすらと答える。

 そこまで事細かに言われると、こっちが照れる。

 本当に母さんがトイレでいなくて良かった。


「つまり今は後ろばかり見ていると?」


 俺は確認する。

 そんな自覚はないのだが、彼女が言うのなら本当かも知れない。


「そう。だって真希人から、この三ヶ月で一度も未来の話を聞いたことがないもん。前は近い未来や遠い未来の話をしてくれたのに……」


 ああ……そうかもしれない。

 ピアノを失って三ヶ月。

 俺は確かに一度も前を見ていなかった気がする。

 言われて気がついた。

 俺は前に進んでいない。


 当然だ。

 後ろを向きながらどうして前に進める?

 俺は過去にとらわれ過ぎていたんだ。

 だけど……。


「だって仕方ないじゃないか! 先なんて、未来なんて俺にはもう……」


 途中、天音に言葉を遮られた。

 唇に暖かな感触が伝わる。

 脳が蕩ける感覚がする。


「天音……」


 俺は呆けてしまう。

 まさか天音にキスされるなんて思ってもみなかったから。


「いまは答えを急かさないよ。いまは真希人にとって一番辛いタイミング。私は待っているから、真希人が再び前を向けるその時まで、私は君を待っているから。いつも通り、あの桜の木の前で」


 そう言って天音は俺から距離をとる。

 視界の端では、母さんがこっちに歩いてくるのが見えた。


 俺は無意識に唇を触る。

 いまだに天音の体温が残っている。


 天音は戻ってきた母さんとなにやら話していた。

 俺は母さんの背中越しに天音と目が合う。

 天音は軽くウインクをして、声を出さずに口の形だけでこう言った。


「検査頑張って」


 俺は軽くうなずいて立ち上がる。

 検査室はこの先だ。

 またあっちこっちにぐるぐる歩き回るハメになるのだろう。


 せっかくの甘いキスの味は、辛気臭い病院の空気にあてられて霧散した。




 今回は時間も時間だったため、簡易的な検査に終始したが結果は同じ。

 異常はない。

 医喜川さんは残念そうに言った。


「ただまだ検査項目がいくつか残っていますし、日を跨ぐ検査も複数ありますので、もし差し支えなければこのまましばらく入院しませんか?」


 医喜川さんはそう提案する。


「今日このまま入院します。どうせこの状態じゃ学校なんか行けないですし」


 俺はその場で決めた。

 もうあまり学校にも行きたいとは思わない。

 心のどこかでちょうどいいと思う自分がいた。


 部屋は個室を借りることにして、俺はそのまま部屋に案内される。

 この縄気総合病院は県内屈指の規模を誇っており、その階数もえげつない高さを誇っている。

 ちなみに俺が案内された部屋は一〇階だ。


「随分豪華な部屋ね」


 一緒についてきた天音は、俺がこれからしばらく過ごす部屋を興味深そうに見て回る。


「母さんは手続き中か?」


「そう。この部屋見たら驚くんじゃないのかな」


 天音はテンション高く窓の外を見る。

 残念ながら窓は開けられないようになっている。

 転落防止のためだろう。


 部屋には大きなベッドと冷蔵庫、それにクローゼットまで置かれ、風呂や洗濯機もついている。


「毎日遊びに来るね!」


「来なくていい」


 俺は冷静にお断りする。

 毎日来られたんじゃ休まらない。


「なんでよ! 毎日会いたいじゃん! ってか会ってたじゃん!」


 確かに家が隣同士なのもあって、ほぼ毎日会っていた。

 だけど流石に、毎日面会に来てもらうわけにもいかない。

 ここは別に彼女の家の隣りではないのだ。


「退院まで我慢しよう」


 俺は提案しつつ、同時に頭の中で嫌な考えが浮かぶ。


 本当に退院できるのか?

 今回はただの検査入院ではあるが、何も異常が見つからなかったら?

 もしくは致命的な何かが見つかったら?

 もしかしたら俺はこのままずっと……。


「どうしたの真希人? さっきからボーっとして」


 気づけばさっきまで窓の外を見ていた天音が目の前にいた。

 やや俯き気味な俺の顔を覗き込んでくる。


「いや、なんでもない」


 俺は噓をつく。

 取り繕う。


「そう、なら良いけど」


 天音はそう言って病室のドアを開く。


「どこへ?」


 不意に呼び止める。

 なぜか不安になったのだ。


「おばさんのところ」


「そっか……」


「な~に~寂しいの?」


 天音がニヤニヤしながら揶揄からかう。


「うっさい。とっとと行っちまえ!」


 俺は照れ隠しで顔をそむけた。


「はいはい。また来てあげるから」


 天音には俺の心の内が全て筒抜けなのか、楽しそうに笑いながら病室を後にした。

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