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第四章 学校 3

 家に帰ってベッドに寝転がる。

 人生が音を立てて崩れていく気がした。


 ただピアノの音が聞こえなくなっただけ。

 普段ピアノを弾かない人からしたら大した問題にはならない。

 だけど俺は違う。

 俺にとってピアノは全てだった。

 この才能が全てだった。


 あらためて思う。

 ピアノを失っただけで、俺には何も残らないのだと。

 しかも怖いのは、ピアノの音だけとも限らないところだ。

 実際、先日一人のプロデューサーの声が聞こえなくなったばかりだ。


「本当に何かの呪いか……」


 俺は仰向けになったまま右手を天井にかざす。

 窓から差し込む夕日を横目に、自身の手のひらを凝視する。

 ずっとピアノを弾き続けた手。

 それ以外を知らない手。


 手にしていたものを静かに奪われた気分。

 一度に劇的に失ったわけではない。

 遅効性の毒のように、じわじわとこの身を蝕む呪い。


 そんな時、ドンドンと部屋のドアを叩く音が聞こえる。

 一体何者だ?

 母さんはそういうタイプではないし、マネージャーの黒井さんを家に上げたこともない。

 そうなると思い当たるのは一人しかいない。

 しかも理由まで心当たりがある。


「真希人開けなさい!」


 まあまあ怒った天音の声がした。




「一体何の用だ?」


 俺はしらばっくれながらドアを開ける。

 開けたドアの向こうでは、両腕を胸の前で組んでご立腹の天音が立っている。


「入れて」


「はい」


 俺は素直に従う。

 いままでの経験上、俺に非があるときは何を言っても敵わない。

 抗うだけ無駄というものだ。


「隣に座って」


 天音は肩口で切り揃えられた茶色の髪を弾ませながら、当たり前のように俺のベッドに座り、隣りのスペースを手で叩く。


「分かったよ」


 俺は言われるがままに、そそくさと天音の隣に座り俯く。

 いつものやり取り、このポーズは俺がいつも怒られる時の姿勢。

 言ってくださいの合図。


「あの後こっちに来るって言ったよね? どうして帰っちゃったのかな?」


 ややピリッとした口調でこっちを見る。

 その圧に押されて俺の首の角度は、ますます下へ。


「いやその……忘れちゃって、勢いで……」


 俺は自分の部屋にいるはずなのに、信じられないほどの居心地の悪さを感じながら、言い訳をする。

 というよりも言い訳にすらなっていない。

 ただの説明だ。


「へぇ〜忘れちゃうんだ。こんな可愛い幼馴染みを? こんなに心配している可愛い幼馴染みを?」


 やっぱり忘れられたことにご立腹だった。

 男からするとそんなに怒らなくても良くない? って気もするが、いまそれを口にすると本気で蹴られかねないので黙っていよう。


「あんまり自分で可愛いとか言わない方が良いと思いますよ?」


 俺はついつい指摘してしまう。

 一応申し訳程度だが敬語で指摘する。


「そういうことは今はどうでも良いでしょ!」


 天音には敬語の配慮は通じず、むしろ火に油を注いでしまったようだ。


「それよりも、結果はどうなったのよ」


 天音は話を変えた。

 元々本題はこっちなのだろう。 


「もう俺は部活には顔を出さないと宣言してきた。退部の件は先生に言うと西条先輩は言っていたけど、実際に退部できようができまいがどうでもいい。俺は部活には参加しない」


 それだけは顔を上げて言い切った。

 ここは誰になんと言われようと変わらない。


「それはピアノの音が聞こえないから?」


「それもある」


 嘘は言っていない。

 でもそれだけじゃない。


「あとはなにがあるの?」


 天音のさっきまでの怒るような態度は吹っ飛び、今度は心配そうに尋ねる。

 横から俺の顔を覗き込むように、こちらをじっと見ている。


 天音の方を向くと、自然と目が合う。

 俺は迷う。

 正直に答えるか迷う。


 俺は怖かった。

 俺がやめる本当の理由を話したら、嫌われるんじゃないか? 

 それとも呆れられて見捨てられるのではないか?


 他の連中にどう思われても構わない。

 そもそも学校の連中や、メディアの連中、俺を応援してくれるファンの人たち。

 どれもが、俺が作り上げた架空のキャラクターを好きだと言っているだけだ。

 メディアが創作したストーリー込みで知ってくれているだけだ。


 天音とは違う。

 根本から違う。


 だから俺は、天音に本心を知られるのが怖い。

 俺が他の連中をうざったく思っていることも、うっすらとは分かっているとは思う。


 だけどそんな程度じゃない。

 俺は心のどこかで、学校の人たちを下に見ているところがある。

 それは紛れもない事実で、変え難い俺の醜さだ。

 自覚はしている。

 俺は自身の才能にうぬぼれて、音楽の才能にうぬぼれて、勝手に周囲を下に見ている。


 そんな醜い俺を天音に知られるのが怖かった。

 よりどころが無くなるのが怖かった。


 長い長い沈黙。

 お互いの目を見つめあったまま何分経っただろう?

 徐々に部屋が暗くなるのを感じる。


「ふふ、このままキスしそうな雰囲気だね」


 天音は沈黙に耐えきれず笑い出す。

 笑ってくれた。

 笑ってこの部屋の雰囲気を変える。


「茶化すなよ」


「そう思うんなら、とっとと答えとくんだったね」


 天音は微笑みながら立ち上がる。


「どこに行くんだよ」


「何言ってんの? 帰るのよ!」


 天音はそう言ってドアを開ける。

 そして半身を部屋の外に出した状態で停止する。


「今は深く聞かないでおくから、言えるタイミングが来たら必ず教えてね」


 背中を向けたまま天音は口にした。

 どんな表情で言ったのかは分からない。

 背中と声だけでは、彼女が何を考えているのか分からなかった。


「ああ、必ず」


 俺はなんとかそれだけ絞りだす。


 すると天音は振り返って笑顔を見せ、階段を下りて行った。

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