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第二章 音楽のない世界 3

「菅原真希人さん」


 開かれたドアから看護師が顔を出し、俺の名前を呼ぶ。

 俺たちは立ち上がって診察室へ。

 席に座ると、様々な資料でごった返しになった机を見ながら、となりに座った母さんの顔が目に入る。

 俺以上に緊張した面持ちでそわそわしている。


 まったく……本人より緊張してどうする。


 母さんとは反対側に天音が座る。


 天音にとっては他人事なのか(他人事には変わりないが)母さんとは正反対で、妙に落ち着いている。

 もう少し心配する場面だぞ、と心の中でツッコミながら、俺は正面を向いた。


「今回様々な検査を行いました。普通はここまでしないのですが、あの菅原真希人さんのためならと、原因究明とその治療法について検討しました」


 医師はボードに映し出された資料を示しながら、それぞれの検査でどのような内容を調べたのかと、その結果を述べていった。


「そして我々の結論から申しますと……分からないというのが正直なところです」


 医師は申し訳なさそうに、心底悔しそうに、そう告げた。

 彼は言った。

 ”分からない”とそう言ったのだ。


「分からない……」


「ええ、まことに残念ながら」


 俺の言葉に医師は反応する。

 分からない。

 原因が分からないということは、つまるところ治療法も分からないということだ。

 治らない?

 もしもの想像が当たってしまった。


「本当に……本当に息子は治らないのですか?」


 気づけば、母さんは消え入りそうな声で呟いていた。

 その声は震え、立ち上がろうとするがふらついて俺の肩に手を置く。


「お母さま落ち着いてください」


 すぐに近くの看護師が母さんを座らせようとするが、母さんはその看護師を撥ね退け、医師の眼前に迫った。


「分からない、分からない、分からない! 原因不明? いつもそう。貴方たち医者はいつもそうよ! あの人の時だってそう! みるみる弱っていくあの人を横目に、原因が分からないの一点張り! そして今度は息子の症状も分からない? 一体何のために!」


 母さんがそこまで言ったあたりで、俺は後ろから押さえつけて椅子に座らせる。


「母さん落ち着いて」


「なんでアンタは動じないのよ!」


 母さんは怒りの矛先を俺に向ける。

 動じない?

 俺が?

 冗談じゃない!


「いいから落ち着けって! ここで医者を責めたって結果は変わらないだろ!」


 俺は強い口調で指摘した。

 ほとんど怒鳴っているのに近い。

 母親に怒鳴ったのは初めてかもしれない。

 その証拠に全員が静まり返り、シーンとした室内に響くのは換気扇の音と雨の音だけだった。


「真希人も落ち着こう……ね?」


 静まり返った部屋の中、天音が俺の手を握ってそう言った。


「ああ、分かってるよ」


 俺は天音に半分引っ張られる形で、強引に椅子に座らされる。

 母さんはダブルの意味でショックだったのか、そのまま呆けていた。


「本当に申し訳ありません。全ての検査を行いましたが何もわからず、その……仰っていた、ピアノの音だけが聞こえないという症状も聞いたことがなく……」


 医者は歯切れが悪そうに弁明する。

 頭では分かっている。

 医者は悪くない。

 現代医学で解明できないことがあるのは、俺だってよく知っている。


「他に手段はないんでしょうか?」


 今度は天音が尋ねる。


「はい。当院でやれることはこれ以上ありませんが、医師会にこのことを公開し、なんとか治療法を探していこうと考えています」


 天音の問いかけに予想通りの答えが返ってきた。

 そりゃそうなるよな。

 天才ピアニストから音楽が失われてしまったら、そこには何も残らない。

 医者としては、なんとしてでもこの奇病を判明させて治したいだろう。


「そうですか……あまり期待しないで待っています」


 俺はそう言って立ち上がる。

 今頃になって実感がわいてきた。

 足元が覚束ない。


「行くよ母さん」


 俺は横で呆けている母親に声をかける。


 母さんはなんとか立ち上がって、俺に続いて診察室を出る。


「ありがとうございました」


 最後に天音がお礼を告げて、診察室のドアを閉めた。





 診察室を出た後、ショックが抜けない母さんをなんとか励まして運転させる。

 家に戻ってきた俺たちは、一度母さんを部屋に連れて行って寝かすことにした。


「大丈夫ですか?」


 天音は心配そうに母さんをベッドに寝かせ、布団をかける。


「ええ大丈夫よ天音ちゃん。ごめんね取り乱して。真希人も悪いね」


 運転中に頭の整理がついたのか、ようやく正気に戻った母さんは申し訳なさそうに謝罪した。


「別にいいって、気にしてない」


 俺はそう言って歩き出す。


「どこに行くの?」


「自分の部屋だよ」


 俺は天音の質問にシンプルに回答し、部屋を出て自室に向かった。


 自室のベッドに仰向けに転がり、いまだに振り続ける雨の音を聞きながら頭を働かせる。


「ああなっちゃうのも無理はないのかな……」


 俺は病院での母さんの様子を振り返る。


 普通では無い反応。

 別に俺は死んだわけではない。

 しかし親父のことがあるせいで、母さんは医者というものをあんまり信用しなくなっていた。

 だからああいう反応になってしまうのも理解はできる。

 決して褒められた態度ではないが……。


 親父の時と違って俺は死んでいない。

 衰弱もしていない。

 ただピアノの音が聞こえなくなっただけ。


 病院に行く際に母さんに説明したが、なかなか信じてくれなかった。

 しかし俺と天音の本気の表情を見て理解したらしい。

 これは嘘や冗談ではないと。

 それに俺が母さんに、この類の嘘をついたことなどなかった。


「母さんからしたら俺ってなんなのかな?」


 俺はポツリと無人の室内で呟く。

 五年前に親父が死んでから、この家には俺と母さんだけ。

 母さんは俺に親父を重ねていたのかも知れない。

 今さらながらにそう思った。

 病院での態度を見れば、その思いはさらに強固なものになっていた。


 母さんからしたら、音楽の才能が失われた俺は、もう俺では無いのかも知れない。


 そんな不穏な考えが頭から離れない。

 俺はちゃんと一人の人間として認識してくれる人が欲しかった。

 音楽の才能ありきでできた人間関係など、全てまやかしだ。

 嘘の類だ。


 それを俺はこの五年間で嫌という程味わった。

 だからせめて母親ぐらいは、そうではないと思いたかった。

 俺を才能を抜きにして見てくれるのは、母さんと天音だけ。

 あとの人間は……。


「これは俺の甘えか? そこのところどうなんだい?」


 俺は天井に向かって呟く。

 天国にいるであろう父親に向けて呟く。

 同じ境遇に置かれていた親父に、俺は五年ぶりに声をかけたのだ。

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