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第二章 音楽のない世界 2

「それで……昨日のことかな?」


 天音は早速口を開く。


 俺と天音は、彼女の部屋で横並びに座っている。

 座っているのはダイニングテーブルの椅子。

 勉強が嫌いな彼女は、勉強机の代わりにダイニングテーブルを壁際に押し付け、そこに椅子を二つ並べるスタイルをとっている。


 なのでいつも俺と天音は横並びとなるのだ。


「関係あるかは分からないんだけど……ピアノの音が聞こえないんだ」


 俺は白状する。

 今朝試したこと。

 そもそも昨日の演奏会の時も途中から、自分の奏でるピアノの音が聞こえなかったことも話した。

 全て話した。


 前からそうだ。

 何かあったら天音に相談したし、心のどこかで常に頼っていた。

 父がまだ生きていた時も、練習が辛すぎて天音のところに避難したことが何度もあった。

 母さんは父の言いなり、学校の連中は俺を有名人扱い、学校の先生も扱いにくい生徒としてしか俺を見ていなかった。

 だから俺は天音に依存した。

 自分以外で唯一心を許せるのは彼女だけだった。


「そう、だったんだ……」


 天音はそのまま黙ってしまった。

 それもそうだろう。

 にわかには信じられない事態だ。


 昨日の死神の件でさえ信じられないのに、今度はピアノの音だけが聞こえないというのだ。


「一応聞いてみて」


 天音はそう言ってピアノに向かう。

 彼女も俺に影響されてか、ずっとピアノを続けている。

 俺たちの間では、部屋にピアノがあるのはもはや当たり前なのだ。


 天音はピアノに手を伸ばし、鍵盤を何個か押すが、俺の耳には一切届かない。


「ごめん。やっぱり聞こえない」


 俺は謝る。

 それしか出来なかった。

 天音は何とも言えない表情を浮かべ、俺を見る。

 そこにはいつもの天真爛漫な笑顔は無かった。


「ねえ真希人。おばさんに話して検査を受けよう。今の私たちにできることなんてなんにもないよ」


 天音は慎重に、言葉を選ぶようにそう言った。


「やっぱりそれしかないよな」


「気が進まない?」


 天音はやんわりと指摘する。


 確かに気は進まない。

 母さんは俺の音楽の才能に縋って生きている。

 親父が死んだいま、それはより顕著になった。


 できることなら秘密裏に解決したかったが、仕方がない。

 一人で行ったってどうせ親に連絡は入るだろうし、メディア露出が多すぎたせいか絶対に気づかれる。

 腹をくくるしかない。


「……行こう」


 俺が絞りだした答えに天音はにっこりと笑い、着替えるために俺を自室から追い出した。




 いま俺は、縄気総合病院の診察室の前で待っている。

 白い長椅子に座って、隣りには顔を覆っている母さんとそれを宥める天音がいる。


 病院に着いた俺は早速受付の人にバレ、耳鼻科の部長室に通された。

 耳鼻科の部長はクラシックが好きだったらしく、俺のことも当然知っていた。

 なんなら昨日のコンサートにも来ていたらしい。


 事情を話すと腕まくりをして、私にお任せ下さいと言わんばかりに、ありとあらゆる検査を実施した。

 ほとんど丸一日かかった。

 基本的な耳の検査はもちろんのこと、頭部のMRIやら血液検査やらエックス線やら、考え得る限りの検査を行った。


「疲れた……」


 気がつけば夕方。

 天音や狼狽える母さんと一緒に病院に来たのは、午前一〇時ごろ……。

 疲れない方が不思議である。


 そして医師の診断をただ待っているだけの時間。


 もしも難病の類だったらどうなるだろう?

 治療期間は?

 一応一曲程度なら聞こえなくても弾ける。

 音が聞こえなくとも、体が、指が、楽譜のメロディーを憶えている。


 ただ単独公演となると話が変わってくる。

 流石に自分だけのステージで、音無しで演奏し続ける自信はない。

 だから早く治さないと……。

 幸いお金はある。

 どんなに高額な治療費だったとしても、何としてでも治す。


 俺の耳には、ピアノの才能には、それだけの価値があるのだ。

 少なくとも俺はそう信じているし、周囲の大人たちが俺をチヤホヤするのも、このピアノの才能ありきだ。

 そんなことは分かっている。

 分かっているからこその自負だ。


 気が遠くなるような時間。

 俺はこの時間が嫌だ。


 親父が死んだ時だってそうだ。

 あの時だってこうやって、医師の診断を待っていた。

 世界的な音楽家だった親父は、原因不明の病に倒れた。

 どれだけ検査しても衰弱している理由が分からず、どんな名医を連れてきても、ついぞ治せなかった。


 お見舞いに行く日々の中、毎度別の医師がやって来るたびにこうやって病院の長椅子に座って待っていた。


 ふと窓の外を見ると、何かの啓示であるかのように雨が降り始めた。


 俺は雨が嫌いだ。

 ピアノの音を遮るし、なにより親父が死んだ日も雨が降っていた。


「よりによっていま降るかい?」


 俺は母さんと天音をよそに雨を皮肉る。

 天気は実に嫌な性格をしている。

 環境が、状況が、徐々に俺を不安にさせる。

 もしもの時のことを考えてしまう。

 親父の病気で思い知った。


 現代の医学でも原因不明の病というのは存在するのだと。


 それを知ったいま、ある想像が頭から離れない。


 もしも俺にピアノの音が戻らなかったら?

 もしもこのまま音楽を手放すことになったら?


 嫌な想像が次々浮かび上がる。

 深呼吸をして落ち着こうとするが、大して効果はなかった。

 このまま想像の沼に溺れそうになった時、診察室のドアが静かに開けられた。

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