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第二章 音楽のない世界 1

 いま俺は自室のベッドで横になっている。

 どうしてだか力が出ない。


 演奏会の後、天音と一緒に母さんの運転する車で家に戻ってきた。


 俺と天音は一切死神の話などせず、車の中では他愛もない会話をしていた。

 急に息子が死神に切られたなんて話をしだしたら、母さんはショックのあまり事故るかもしれない。

 そうなると本当に死神が迎えに来てしまう。


「なんだったんだ?」


 俺は胸を押さえる。

 何かが通ったような違和感。

 背筋が凍るような感触。

 そして天音がしきりに口にする、女の死神の存在……。


「それに途中でピアノの音が聞こえなくなった……」


 耳が悪くなったわけではない。

 突発性難聴でもない。

 俺の耳は健全に機能し、天音の声は届いていたし拍手もシャッターの音も、何もかもが聞こえていた。

 聞こえなくなったのはピアノの音だけ。


「続きは明日だ」


 俺は演奏会が終わった疲労感に包まれながら、ウトウトし始める。

 毎度のことだ。

 何度やっても慣れない。

 自分が主役のステージを終えると、気が抜けて一気に疲れが来る。


 俺はそのまま眠りについた。




 翌朝、俺は大量の汗をかいて飛び起きる。

 何か嫌な夢でも見たような、そんな感覚。

 しかし何も覚えてはいなかった。


「なんなんだ一体……」


 俺は部屋を見渡す。


 普通の家よりは、どう考えても広い部屋。

 世界的な音楽家だった父の稼ぎは、並大抵なものではなく、家もその収入に比例して豪邸と言って差し支えないレベルだった。


 俺の部屋には当然のようにグランドピアノが置かれていて、床には毛皮の絨毯、壁には様々な音楽家の写真。

 棚には俺が今までに獲得したトロフィーの数々。

 俺と他者を明確に分ける証。

 俺の全て。


「試してみるか」


 俺は立ち上がってピアノに向かって歩き出す。

 昨日の演奏中の出来事は何かの間違いだ。

 そう信じたいがための確認作業。


 静かに席に着く。

 物音や自分の足音は聞こえている。

 独り言だって聞こえる。


 俺は慣れた手つきでピアノのカバーを開け、

スッと鍵盤に手を置く。

 寝起きでも頭は冴え渡っている。

 ピアノに触れるとホッとする。


「いくぞ……」


 誰かにというわけでもなく、俺は決意表明をする。


 静かにゆっくりと、俺は鍵盤を押す。


 押した。

 確かに押した。

 しかし音は鳴らなかった……。

 そのままいつも弾いている曲を、半分ほど奏でる。

 音はならない。


「なんだ壊れたのか?」


 ピアノが壊れたのだ。

 そうに違いない。


 そんな時、部屋のドアがノックされる。

 母さんか……もうそんな時間か?


 今日は日曜日なのだが、規則正しい生活を是とする父の教育方針もあり、この家では曜日の概念はなくなっていた。


「起きたの? 相変わらず良い音だけど、起きたらまず降りてきなさい」


 母さんはそれだけ言って去っていく。

 いつもそうだ。

 ドアも開けずに一言だけ言い残して去っていく。


「”相変わらず良い音”だと?」


 俺は母さんが言った一言で肝が冷えた。

 ”良い音”ということは、母さんには音が聞こえていたということになる。

 ピアノの音は確かに母さんに聞こえていたと?


 いやいやそんな馬鹿な!


 俺は確認するために、急いで部屋から飛び出す!

 階段を焦って駆け下りる。

 一段飛ばしで降りていく。


「母さん!」


 俺はリビングのドアを開けると、自然と叫んでいた。


「一体どうしたっていうのよ……いきなり大きな声を出さないで」


 驚いた母さんは目を丸くして俺を見る。

 今まで俺がこうやって、慌ただしく母さんを呼んだことなど無かったから。

 心底驚いた顔をしていた。


「なあ母さん! さっき、良い音って言ったよな? ピアノのことか?」


 俺は母さんに尋ねる。

 切羽詰まった俺の表情は、母さんを困惑させるのには十分だった。


「当たり前でしょう? 朝演奏してたじゃない」


 まるでおかしな子を見るような目だ。


 俺はそんな母さんの視線など全く気にしていなかった。

 ただただ母さんの答えがショックだった。


 確かに俺は朝ピアノを弾いた。

 半分ぐらいの長さだったが演奏した。

 その音色は俺には聞こえず、母さんには聞こえた。


 ありえないありえないありえないありえない!


 メロディーが聞く人を選ぶなど聞いたことがあるか?

 どうして俺だけ聞こえない?

 なんでだ?

 どうしてだ?


 頭の中で様々な疑問が湧いては消えていく。

 消えていったピアノの音色のように、弾きなれた楽譜の音符のように、軽く消える。


「どうしたの真希人? 調子でも悪いの?」


 母さんは俺の異常な態度を不審に思ったのか、心配そうに俺の顔を覗き込む。


「だ、大丈夫だよ母さん……ちょっと出てくる」


 俺は辛うじてそれだけ言葉にして、リビングを後にする。

 混乱する頭を抱えながら、フラフラと玄関に向かう。

 行き先は決まっている。

 俺が唯一心を許せるのは天音しかいない。


「天音、ちょっと話がしたい」


 俺は靴を履きながら電話する。


「分かった……上がって」


 天音は半分予想していたのか、すんなりと何も聞かずに俺を招く。


 「助かる」


 俺は冷えた肝と凍える背筋を引きずりながら、桜の花弁が舞う道をノロノロと歩く。

 天音の家は隣りだが、俺の家とのあいだに一本だけ立派な桜の木が生えている。

 毎年ここで写真でも撮っていたっけ……。


 そんなどうでもいいことを思い出しながら、俺はブザーを鳴らす。

 開かれたドアから出てきた天音は、無言のまま手招きをする。

 俺は彼女に誘われるがまま、彼女の部屋へと入っていった。

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