いま俺は自室のベッドで横になっている。
どうしてだか力が出ない。
演奏会の後、天音と一緒に母さんの運転する車で家に戻ってきた。
俺と天音は一切死神の話などせず、車の中では他愛もない会話をしていた。
急に息子が死神に切られたなんて話をしだしたら、母さんはショックのあまり事故るかもしれない。
そうなると本当に死神が迎えに来てしまう。
「なんだったんだ?」
俺は胸を押さえる。
何かが通ったような違和感。
背筋が凍るような感触。
そして天音がしきりに口にする、女の死神の存在……。
「それに途中でピアノの音が聞こえなくなった……」
耳が悪くなったわけではない。
突発性難聴でもない。
俺の耳は健全に機能し、天音の声は届いていたし拍手もシャッターの音も、何もかもが聞こえていた。
聞こえなくなったのはピアノの音だけ。
「続きは明日だ」
俺は演奏会が終わった疲労感に包まれながら、ウトウトし始める。
毎度のことだ。
何度やっても慣れない。
自分が主役のステージを終えると、気が抜けて一気に疲れが来る。
俺はそのまま眠りについた。
翌朝、俺は大量の汗をかいて飛び起きる。
何か嫌な夢でも見たような、そんな感覚。
しかし何も覚えてはいなかった。
「なんなんだ一体……」
俺は部屋を見渡す。
普通の家よりは、どう考えても広い部屋。
世界的な音楽家だった父の稼ぎは、並大抵なものではなく、家もその収入に比例して豪邸と言って差し支えないレベルだった。
俺の部屋には当然のようにグランドピアノが置かれていて、床には毛皮の絨毯、壁には様々な音楽家の写真。
棚には俺が今までに獲得したトロフィーの数々。
俺と他者を明確に分ける証。
俺の全て。
「試してみるか」
俺は立ち上がってピアノに向かって歩き出す。
昨日の演奏中の出来事は何かの間違いだ。
そう信じたいがための確認作業。
静かに席に着く。
物音や自分の足音は聞こえている。
独り言だって聞こえる。
俺は慣れた手つきでピアノのカバーを開け、
スッと鍵盤に手を置く。
寝起きでも頭は冴え渡っている。
ピアノに触れるとホッとする。
「いくぞ……」
誰かにというわけでもなく、俺は決意表明をする。
静かにゆっくりと、俺は鍵盤を押す。
押した。
確かに押した。
しかし音は鳴らなかった……。
そのままいつも弾いている曲を、半分ほど奏でる。
音はならない。
「なんだ壊れたのか?」
ピアノが壊れたのだ。
そうに違いない。
そんな時、部屋のドアがノックされる。
母さんか……もうそんな時間か?
今日は日曜日なのだが、規則正しい生活を是とする父の教育方針もあり、この家では曜日の概念はなくなっていた。
「起きたの? 相変わらず良い音だけど、起きたらまず降りてきなさい」
母さんはそれだけ言って去っていく。
いつもそうだ。
ドアも開けずに一言だけ言い残して去っていく。
「”相変わらず良い音”だと?」
俺は母さんが言った一言で肝が冷えた。
”良い音”ということは、母さんには音が聞こえていたということになる。
ピアノの音は確かに母さんに聞こえていたと?
いやいやそんな馬鹿な!
俺は確認するために、急いで部屋から飛び出す!
階段を焦って駆け下りる。
一段飛ばしで降りていく。
「母さん!」
俺はリビングのドアを開けると、自然と叫んでいた。
「一体どうしたっていうのよ……いきなり大きな声を出さないで」
驚いた母さんは目を丸くして俺を見る。
今まで俺がこうやって、慌ただしく母さんを呼んだことなど無かったから。
心底驚いた顔をしていた。
「なあ母さん! さっき、良い音って言ったよな? ピアノのことか?」
俺は母さんに尋ねる。
切羽詰まった俺の表情は、母さんを困惑させるのには十分だった。
「当たり前でしょう? 朝演奏してたじゃない」
まるでおかしな子を見るような目だ。
俺はそんな母さんの視線など全く気にしていなかった。
ただただ母さんの答えがショックだった。
確かに俺は朝ピアノを弾いた。
半分ぐらいの長さだったが演奏した。
その音色は俺には聞こえず、母さんには聞こえた。
ありえないありえないありえないありえない!
メロディーが聞く人を選ぶなど聞いたことがあるか?
どうして俺だけ聞こえない?
なんでだ?
どうしてだ?
頭の中で様々な疑問が湧いては消えていく。
消えていったピアノの音色のように、弾きなれた楽譜の音符のように、軽く消える。
「どうしたの真希人? 調子でも悪いの?」
母さんは俺の異常な態度を不審に思ったのか、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫だよ母さん……ちょっと出てくる」
俺は辛うじてそれだけ言葉にして、リビングを後にする。
混乱する頭を抱えながら、フラフラと玄関に向かう。
行き先は決まっている。
俺が唯一心を許せるのは天音しかいない。
「天音、ちょっと話がしたい」
俺は靴を履きながら電話する。
「分かった……上がって」
天音は半分予想していたのか、すんなりと何も聞かずに俺を招く。
「助かる」
俺は冷えた肝と凍える背筋を引きずりながら、桜の花弁が舞う道をノロノロと歩く。
天音の家は隣りだが、俺の家とのあいだに一本だけ立派な桜の木が生えている。
毎年ここで写真でも撮っていたっけ……。
そんなどうでもいいことを思い出しながら、俺はブザーを鳴らす。
開かれたドアから出てきた天音は、無言のまま手招きをする。
俺は彼女に誘われるがまま、彼女の部屋へと入っていった。