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第一章 菅原真希人という少年 2

 大慌てでまだ幕の閉まった状態のステージに走り込み、なんとか間に合わせた俺は一度深呼吸をする。


 彼女に指摘されたことがまだ頭から離れない。

 確かに普段のコンサートよりも緊張しているかも知れない。

 親父の最期の晴れ舞台。

 まさにその場所に俺はいま立っている。


「見てろよ親父。アンタが死んでから、俺がどれだけ成長したか」


 一人っきりのステージの上で宣言する。

 舞台袖にはいつも通り天音が待機していて、顔を向けると手を振ってくる。


 本気でマネージャーみたいだな。


 一応マネージャーは別にいるんだけどな。


 さあショータイムだ。

 気合いを入れろ!

 天に昇った親父は、文字通り高みの見物を決めているに違いないのだから。


 天才ピアニストと呼ばれた者同士、本当はもっといろいろと話を聞いてみたかった。


 だけど親父はもういない。

 そんな親父にむけて今日は演奏する。


 世間から見たら単独公演会。

 だけど俺は、ここにきている客のことなど何も考えてはいない。

 到底褒められた考え方ではない。

 それは承知しているが、それでも譲れない。


 有象無象よりも、俺は天国にいる元天才ピアニストに向けて演奏する!


 この場所ならよく聞こえるだろう?


 そんな考えが渦巻く中、コンサートの幕が上がった。

 万雷の拍手の中、俺は静かに一礼し、両手を鍵盤の上に。


 たったそれだけの所作で、全員が静まり返る。

 ピアニストは指揮者でもあるのだとふと思う。

 そんなどうでも良い考えが頭に浮かぶ程度には、リラックスできているらしい。




 コンサートがスタートし、俺は懸命に鍵盤をたたき続ける。

 曲調の速い曲、遅い曲、弾き分けながら曲ごとに心の内も変化する。


 そんな中、もうじきコンサートも終盤。

 そんなタイミング。

 背後から何者かの気配がする。

 酷く懐かしいような、そんな感覚。


 だがここはコンサート中のステージの上、ここに立てるのは俺一人。

 もしも不審者がいたら関係者が取り押さえるだろうし、観客だって騒ぎ出すだろう。

 つまり誰もいない。

 そう結論づけるほかない。


 しかし背筋がひやりとする。

 嫌な予感とでも呼べば良いのだろうか?

 背筋が凍る感覚の中、演奏は止められないのでそのまま続ける。

 冷や汗が額から膝に落ちる。

 死の気配がした。


 その刹那。

 死の気配がした一秒後、俺は何かを刈り取られたかのような錯覚に陥る。

 実際は生きていて、怪我もしていなければ痛みもない。

 だけど確実に”何か”が刈り取られた気がした。


 現実と錯覚の狭間、一瞬耳が遠くなる。

 そのまま音が戻って来るかと思えば戻ってこない。


 嘘だろ!?


 内心焦る俺をよそに、観客はさっきまでと変わらずこっちをじっと見て聞き入っていた。

 音は鳴っていないはずなのに……。

 一体どうなっている?


 俺の耳に届く音の中に、ピアノの音はない。

 ただ自分の息遣いは聞こえるし、観客席のちょっとした物音や声なんかは聞こえる。

 普段ならピアノの音で聞こえるはずがない音たちが、一斉に俺の耳に押し寄せてくる。


 俺はパニックになりながらも指を動かし続ける。

 たとえ耳が聞こえなくても、ピアノを弾くことはできる。


 指先が、全身が、リズムを憶えている。

 記憶している。

 観客席の様子から、ピアノの音自体は発生しているようだ。

 ただ単純に”俺の耳に届いていない”だけで。


 そうであるならば演奏を続けるしかない。

 幸いコンサートも終盤。

 観客に聞こえているということは、天国の親父にも届いているであろうこの音色。

 途絶えさせるわけにはいかない!


 決死の想いで演奏を続け、パニックと義務感で無我夢中になりながら、コンサートを無事に終わらせることに成功した。


 最後の曲目を消化した後、観客に向けて深々と頭を下げる。

 俺の耳に届くは、万雷の拍手と歓喜の声。

 そのどれもが俺の耳には届いている。


「良かった……」


 深いため息とともに安堵の声が漏れる。

 相当焦っていたのか足元が若干ふらついた。


 俺は心配をかけまいとキビキビ歩き、舞台袖に退出した。




「なんともない!?」


 舞台袖に移動すると、天音が俺に抱きつきながら涙声で尋ねてきた。

 彼女の体は震えていて、冗談でもなんでもなく本気で心配する声のトーンだった。


「一体何のこと?」


 俺は精一杯とぼける。

 ずっと俺のピアノを聞いていた天音にはバレていたのかも知れない。


 だから嘘をつく。

 勘ぐられていたとしても、なんとでも言い訳は立つ。

 俺の演奏の音がいつもと違うと指摘されても、そんな日もあると突っぱねるつもりでいた。


「何も感じてないの? どこも痛くないの?」


 突っぱねるつもりでいたのだが、天音の言っている意味が分からない。


 てっきり俺の演奏に関して何か言ってくるものだと思っていたのだが、彼女の言い分をまとめると、まるで俺が誰かに襲われたみたいじゃないか。


「落ち着いて話してくれ。それじゃあ全く意味が分からん」


 俺の知らない間に、一体俺の背後で何が行われていたのだろうか。


「笑わない?」


 天音は心配そうに尋ねる。

 なんだコイツ。

 俺を笑わせるつもりなのか?


「笑わないよ……たぶん」


「たぶん!?」


「いや、嘘だ嘘。笑わないから教えてくれ」


 天音で遊ぶと楽しいのだが、中々話が進まなくなりそうなのでやめておいた。

 それに彼女の必死さが、少々恐ろしく感じてきたところだ。


「あのね……さっき、真希人の後ろにね、綺麗な女の人が近づいて行ったの」


 そんな馬鹿な。

 だったら関係者が止めるだろうし、何より観客だって不思議に思うはずだ。


「私も止めようとしたんだけど、なんというか雰囲気というか、オーラが人間離れしていて体が硬直しちゃって……」


 つまり人間離れした綺麗な女性が、俺の背後に立っていた?


 あり得ない。

 そんなはずはない。

 本当だとしたら絶対に騒ぎになるはずだ。


 しかし絶対に無いとは断言できなかった。

 だってコンサートの終盤、背後に何かの気配を感じていたから……。


「なんだよそれ。人間離れしてるって一体どんな感じなんだ?」


「うーん……。死神? とでも呼べばいいのかな?」


「死神?」


 死神か……。

 綺麗な女性の死神?

 まるでホラーじゃないか。

 演奏中に背後に死神が迫るなんて。


「いっそのこと大鎌でも振るってくれた方がリアリティーが増すというものだ」


 俺は半分信じながら、茶化す。

 茶化さずにいられるものか。

 あの時の不気味な気配に説明がついてしまう。


「なんで分かったの!?」


 天音が驚いた声を出す。

 どうしてわかったの? だと?


 そんな言い回し、本当にあったことのようではないか。

 流石にそれは無いだろう。

 大鎌を振るわれていれば、間違いなく俺の体は真っ二つだ。


 だが彼女が最初に言った言葉を思い出す。


『何も感じてないの? どこも痛くないの?』


 これでは何かされたようではないか?


 俺は再び冷や汗をかきながら、天音を見つめる。


 聞きたくないけれど、聞かざるを得ない。

 俺の身に生じた違和感。

 ピアノの音が聞こえなくなった理由。

 何かのヒントになるかもしれない。

 だから……。


「何があった?」


 震える声で天音に尋ねる。


 しばしの沈黙の後、天音は覚悟を決めた表情で答える。


「死神は真希人の体を後ろから大鎌で切った後、そのまま体が溶けて真希人の影に沈んでいったの」


 天音の答えは想像の斜め上をいっていて、俺の頭は完全に停止してしまった。

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