「もうすぐ……もうすぐその時が来てしまう」
薄暗い病室で、一人の美しい死神は言葉を紡ぐ。
長くのばされた黒い髪に、フード付きの白と黒のツートンカラーの死装束。
窓に反射した青白い顔には、血の涙が滴っていた。
ここには彼女の他にあと一人だけ。
ベッドに横たわる彼を、死神は愛おしそうに見つめる。
死神は人間の命を刈り取るための存在だ。
世界の仕組み。
だから死神が人間に好意を抱いてはいけない。
そのはずなのに……。
それでも彼女は彼、
ベッドから動けなくなった彼を愛してしまった。
声も発せないほどに、衰弱しきった彼を愛してしまった。
菅原真希人は類まれなる音楽の才能を有していた。
世界的な音楽家である父を持ち、幼少期からスパルタ教育を受け続けてきた。
その結果が、世界に誇る天才ピアニストの誕生だ。
メディアは彼を祭り上げた。
新たな国民的スターの誕生だと騒ぎ立てた。
結果、菅原真希人は一人になった。
孤独になった。
心を閉ざしてしまった。
人と心を通わすのを諦めてしまった。
世界は孤独な人間から命を奪う。
死神とは世界の仕組みそのもの。
自我はあるが、世界の仕組みには逆らえない。
菅原真希人を襲っているのは原因不明の病……。
病院ではそう診断されている。
別に医者が悪いわけではない。
これは病ではないのだから。
「才能を持つ者は孤立しやすい。世界はそんな君に目をつけていた。そして
死神はベッドの隣りで独白する。
夜闇に彼女の端正な白い顔が輝く。
ベッドの脇には、綺麗な桜の木の枝が活けられていた。
世界は孤独となった人間から生気を吸い上げ、やがて殺してしまう。
この
だから、真に想う人がいなくなった人間から消していく。
そのための世界の呪い。
そのための死神の存在。
しかし彼女はどこか違った。
彼女は断片的にではあるが、彼のここまでの一生を知っている。
何故か知っている。
これは記憶ではない。
これは記録だ。
故に彼女は、これから命を奪うはずの彼を愛してしまった。
「君が想像もできないほどのプレッシャーの中で、必死に生きてきたのを私は知っている。君を金儲けの道具としてしか考えていない大人たちの思惑に、君が気づいてしまったその瞬間を私は知っている。君の才能に嫉妬して、離れて行った友人たちを私は知っている。メディアやピアノの仕事ばかりで、学校に滅多に行けなかったことも私は知っている。そのせいでクラスで浮いていたことも私は知っている。君の音楽の才能が、君を孤立させていたのを私は知っている……」
死神は涙をこぼす。
まだまだ想いは溢れてくるのに、言葉はとめどないのに、悲しみが邪魔をする。
涙を流す死神なんて聞いたことがない。
そんな感情が彼女の内で不敵に笑う。
「それなのに……私はいま君の命を刈り取らなければならない。世界からの命令だから。
だけどもし、もしも彼を救う手段があるとしたら?
彼の命を繋ぎとめる手段があるとしたら?
「この大鎌なら……」
死神は自身の右手に大鎌を出現させる。
白と黒の大鎌。
数々の命を刈り取ってきた大鎌。
世界の仕組みであろうと、私たち死神は操り人形ではない。
自我だってちゃんとある。
これは死神たちが生み出した、世界に対するたった一つの反抗。
その唯一の手段。
「最後の願い。最後の奇跡……」
死神は悲しい笑みを浮かべながら言葉にする。
最後……。
最後の奇跡。
死神は自身の自由と引き換えに、一度だけ時間を操れる。
彼女が選んだ手段は過去に戻ること。
過去に戻って彼が、菅原真希人が、孤独になるのを防ぐ。
そのための時間跳躍。
そのための覚悟。
彼女が自身を賭けて行う、一つの奇跡。
「過去に戻り、私は君に鎌を振るおう。この鎌で君から音楽の才能を奪い去る。封印する。そうすれば君は、一人の普通の少年として生きることができる」
死神は間違った決断をする。
彼女は焦っていた。
彼の命を刈り取る時が迫っていたために、冷静さを失っていた。
「いま行くよ……」
死神は自身を黒いベールで覆い、静かで暗い病室から姿を消した。
「ここは……」
目を開いた死神の耳に聞こえてくるのは、見事な演奏。
踊るようなピアノの音色が心を揺り動かす。
いま死神が立っているのはコンサートホール。
その舞台袖。
目の前には、まだ学生の頃の菅原真希人が涼しい顔で演奏をしている。
病室で見た時とは違った姿。
艶のある黒い髪。
切れ長でありながら、どこか力強い目。
正装でピアノを奏でるその姿は、実に彼らしく凛としていた。
「うまく時間移動できたんだ……」
死神は内心胸を撫でおろす。
一生に一度しか使えないが故に、当然ながらやったことがない時間旅行。
うまくイメージした時に跳べたようだ。
舞台袖には、ステージで演奏する彼を見つめる少女がいた。
菅原真希人と同い年だろうか?
どこかの高校の制服を身に纏い、きらきらとした熱いまなざしを彼に注いでいる。
ぱっと見で分かる。
彼女と彼は親しい関係なのだろう。
そうでなくては舞台袖に侵入することなど許されない。
「それでも私は、私のやることを実行するのみ」
普通の人間に死神の姿は見えない。
死神の姿を見ることができる人間は、死神とかかわりの深い人間のみだ。
だから……だから彼女が、大鎌を構えて彼の後ろに立っていても気づかない。
誰も彼女を止めない。
止められない。
死神は綺麗な涙をスポットライトに反射させながら、静かに白と黒の大鎌を構える。
これは命を刈り取る行為ではない。
これは彼の持つ音楽の才能を刈り取る行為。
彼の幸せを願って行う、世界への反逆。
彼女の生涯を賭けた博打。
この大鎌がどこまで対象者の能力を奪うかは分からない。
どこまで影響を及ぼすか分からない。
けれども彼女は実行する。
静まり返ったコンサートホールに彼の見事な演奏が響き、ステージ上の彼に向けて無数のスポットライトや視線が重なる中、彼女は、死神は大鎌を振りかぶった。
死神の大鎌が彼に触れた瞬間、彼の肉体の代わりに半透明な何かが大鎌に絡まり、振り切った大鎌についてくる。
これが彼の音楽の”才能”……。
斬られたはずの彼を見ると、彼は何事もなかったかのように演奏を続けていた。
「なんだ……失敗したのね」
死神は落胆の色を浮かべながら、腰を抜かしてその場に座り込む。
効果があったかは分からない。
彼の死の未来を変えられたかも分からない。
それでも死神にはペナルティが発生する。
分かっていたこと。
これから自分は消える。
死神という存在ではなくなり、ただただ彼の影として過ごすのだ。
彼が死ぬまで、彼の影からは出られない。
「上手く行きますように……。彼の死の運命を変えられますように……。彼を孤独から救ってください!」
死神は、地面から這い出る無数の影に巻きつかれながら、最後に願う。
死神のくせに神様に祈るように。
自身のことなど顧みずに一心不乱に……。
死神の体が半分ほど彼の影に吸い込まれたあたりで、偶然ステージの舞台袖に視線を向ける。
彼を熱心に見つめていた制服の少女と”視線”があう。
”視線”があってしまった。
「貴女はいったい……」
死神は最後の力を振り絞って、声をひねり出して尋ねる。
普通の人には見えるはずがないから。
死神が発した声は、しかし皮肉なことに彼の奏でるピアノの音によってかき消されてしまう。
その直後、死神は彼の影の中に引き摺られていった。
あっけなく彼女は消滅した。
今後、彼の影の中から見守ることしかできない。
これで彼が助かるのなら……。
死神は彼の影に落ちて行って尚、そう考えた。
彼女のこの気持ちが、どこから湧いてきた感情なのかは分からない。
それに才能をキチンと奪えていたのかも怪しい。
何かが狂ってしまったかのような手応えを感じる。
まるで呪いが歪んだような、そんな感覚。
それに最後に目が合った少女が気になった。
彼女は明らかに怯えていた。
化け物を見るかのような、そんな目だった。
でも全てはもう終わったこと。
もう死神には何もできないのだから……。
そう結論づけ、彼女は、死神は眠りについた。
長い長い眠りの中、彼が助かることを願って……。