カサンドラは、自分の沸点が極めて低いことを自覚している。端から見ればさほど表情が変わっていなくても、実はとんでもなく怒っている――なんてことも珍しくないらしい。
らしい、というのは自分の感情があまり表に出ていないのは、カサンドラが隠しているせいではなくそういう質だから、というだけだからなのだが。周囲の評価から、思っている以上に自分の喜怒哀楽は他人に見えにくいらしいと判断した、それだけのことである。故に、伝聞調。それでも付き合いが長くなれば結構わかるんだけどな、とはテリスの言なのたが。
まあ早い話。現在進行形でカサンドラはブチギレているのだった。周囲には何人も怪我をして動けない人間が痛みに呻いている。割れたステンドグラス、ガーネット神の彫像、なぎ倒された椅子、壁に開いた大穴――それらがもし、人間たちの愚行の結果に寄るものだと言うのなら、怒りを感じるのはお門違いだっただろう。少なくともドラゴン相手には。何故なら、先に領域を侵して迷惑をかける方が悪い。自分自身がやらかしたことでなくても、誠心誠意謝罪するのが当然の筋であるのは間違いないことだろう。
でも。
「……つまり。我々の側が、貴方がたの領域を侵したわけではない。ただ、貴方の主君が命じたから破壊行為に及んだ、と」
カサンドラの聴力はいい。いい、というのは単に小さい音を聞けるというだけではなく、雑音の中で選んだ音を自在に聞き分けられるという意味でもある。
泣いている声がする。足が、足が……と、明らかにカサンドラより幼い少年少女の泣き声がする。それ以外にも巻き込まれた生徒達が、恐怖に戦きながらも逃げられないままそこに佇んでいるのがわかる。
「一応お訊きしますが。……貴方の主君は何故、貴方に破壊行為をお命じになったのでしょう?そして、主君が望むものとは……一体?」
『貴様に説明する必要などないことだ、娘』
「おや、そうですか」
自分でも不思議なほど冷静だ。――怒りを感じれば感じるほど、脳髄の底から冷えてくるような感覚がある。まるで、焔が燃え上がると同時に一瞬にして凍てついていくかのように。
「それならば、つまり」
カサンドラは、槍を構え――そして。
「『説明する気もないし領域侵犯されたわけでもないけど主が命じたから、怪我人出ても死人が出ても関係ないし全部ぶっ壊すけどいいよな説明する気もねぇけど!』と……解釈してもよろしいですね?」
話をしても無駄なら、話す必要もない。そして、訳もわからず罪もない生徒達を傷つけ、これからもそれを続けるであろう相手を――黙って見過ごす道理がどこにあるだろう。
例えそれが大地の守護竜の眷属だったとして、だからどうだというのだ。先に喧嘩売ってきた方が悪いだろう、基本的には!
「はぁっ!」
カサンドラはそのまま、自らのソウルウェポンたる槍を空高く放り投げた。本来ならば屋内で使うには不向きな技。しかしありがたくもないことに、ガイア・ベビー・ドラゴンが大暴れしてくれたことで聖堂の天井は崩落し、見事な大穴が空いている。
「“
槍はそのままカサンドラの意思に呼応し、分裂しながら敵の頭上にバラバラと降り注いだ。一発ごとの威力は大したことはないが、まとめて食らえば戦車だろうと穴だらけにすることが可能な必殺技である。ドラゴンの上に降り注ぐ槍の雨。悲鳴と土煙が上がり、その隙に素早くカサンドラは周囲の状況を確認する。
今、テリスが治癒魔法をかけている二人はもうすぐ自力で立ち上がれるようになるだろう。思いの外彼は白魔法の筋がいいようだ。問題は、他にも数名逃げ遅れている生徒がいること。
左の通路に一人倒れている。真ん中の通路には三人。それから、扉の脇で震えながら腰が引けている女子二人、うっかり失禁しているようだが大した怪我はなさそうだ。なら、なんとか逃げることはできるか。このままだと倒れている四人の生徒は自力で逃げられず、戦闘に巻き込まれてしまいそうである。
「か、カサンドラさん!」
「ショーン!シーフ職コースなら、多少の薬は持ち歩いていますよね?」
「え?」
駆け寄ってきたショーンに、カサンドラは素早く指示を出す。
「怪我人の方々が非常に危険です。一人ずつでもいいので、彼らを動けるようにして聖堂から避難させてください。その間、私がドラゴンの目は引き付けておきますので!」
「ちょ……ちょっと!待ってくださいよカサンドラさん!そんなのっ……」
「危ないのは百も承知です。しかし文句があるなら、他にもっと有用な代案を考えてからにして頂けますか」
厳しいことを言っているのはわかっている。しかし、うだうだしている暇などないのだ。
さっきの一撃で、ドラゴンを倒しきれたとは到底思えない。多少のダメージは与えただろうが、それでも時間稼ぎになるかどうかが精々だろう。
「ご安心を。此処で死んでやるほど……私の命は安くないので」
ドラゴン、しかも大地の守護竜の加護を持つ眷属。高等部の生徒達でさえ、腰が引けるか我先に逃げ出すのがやっとだった相手だ。当然だろう、冒険者だって普通は戦うことなど想定しない敵だ。むしろ戦ってはならない相手だろう。カサンドラとして、もしも逃げられるのならそうした方がいいのはわかっている。無作為に生徒を傷つけたことは許せないが、それでも赤の他人といえば赤の他人。友人や自分の命に代えるほどではないだろう。
でも、もしここでカサンドラが戦わなければ、被害がもっと広がるのは明白である。次は死人が出るかもしれない。それは、カサンドラの友人や、クシルかもしれないのだ。
同時に、カサンドラは命を賭けるつもりはない。賭けなければならないような相手でないこともわかっている。だから、自分が戦う。“敵を恐れてなお”、震えることなく立ち向かうことのできる人間しか、戦う資格を得ることはできないのだ。それができるのは、自分だけ。他の生徒達は戦うこともできなかった。なら、それができる自分がやらずして、一体誰がやるというのだろう?
『小娘が……いきなり攻撃してくるとは、少々短気が過ぎるぞ』
土煙が晴れていく。ドラゴンはあちこち鱗に傷を作ったようだが、それでもさほどダメージはないようだ。小手調べもあって手加減したとはいえ、想像以上に装甲が固いらしい。デスペラードを食らってこの程度で済んでしまうとは。
「短気?お互い様では?宣戦布告もなしに、お昼休みの聖堂に押し掛けて滅茶苦茶にしてくれたのは、一体何処のどなたさんでしたかね」
『我等ドラゴンは、古代よりこの地を守り、統べてきた存在。お前たち人間が跡からこの地に至り、住み着いたに過ぎぬ。その、我等の気紛れを何故貴様のような小さき存在が咎める?何故、龍の怒りを恐れることなく向かってくるのか』
「どっちが格上とかそんなの関係なくないですか?別に人間がドラゴンの皆様より偉いなんて思ってはいませんよ。払うべき敬意は必要です。でも……いきなり何の説明もなしに喧嘩売られたら話は別だと思いませんか?」
『ふふ、なるほどなぁ?』
「か、カサンドラさん……」
おろおろのカサンドラ、そして怪我人達を交互に見るショーン。迷っている暇はない。カサンドラは少年に向けて一喝する。
「さあ、早く!分けもわからないまま死ぬなんて冗談じゃないでしょう、私も貴方も!」
瞬間、大きな地鳴りが起きた。カサンドラはとっさに身を低くして踏ん張り――目を見開く。彫像の下から、地面がどんどん盛り上がってくるのだ。巨大な石と土くれの混合物が大きく隆起し、そのままカサンドラに向かってくるではないか。
「“
なるほど、地属性のドラゴンらしい。カサンドラは迫ってきた土の大波をハイジャンプで躱すと、そのまま攻撃体制に移った。先程のデスペラードが効かなかったのは、全体の防御力が高いせいか?あるいは、攻撃箇所が悪かったのか?
――確かめる必要がある……!どんな生物だとしても、完全無欠の存在などない。必ず弱点は、ある!
カサンドラはただジャンプしただけではなかった。そのままの勢いでドラゴンの体さえも飛び越え、背後を取ることに成功する。基本的にはどんなモンスターでも頭を弱点とすることが多い。特に眼の回りは皮膚が薄く、攻撃が通ることが多いのだ。ただし、相手が巨大であればあるほど、高い位置にある頭を正確に狙うのは困難になってくる。3メートル級ドラゴンならばまだそのままでも狙うことは不可能ではないし、カサンドラの跳躍力なら充分倒さずとも頭を叩くことはでこるのだが――。
問題は、さっきのデスペラードが殆ど通らなかったこと。頭上から降り注ぐ技なので、普通に考えれば頭にも当たっていなければおかしい。特に、ドラゴンの場合は前足が発達していない。このドラゴンもその例に漏れない。ならば二足歩行の人間がよくやるように、両手で頭を守るような動作もできなかったはずである。
ならば考えられるのは二つ。手を使う以外の手段で防御したか、そもそもの装甲が固くて防御の必要もなかったか、だ。
「はあっ!!」
狙ったのはドラゴンの左足。二足歩行のガイア・ベビー・ドラゴンは、当然片足にかかる体重は半端ないものとなる。片足が機能しなくなれば立っていられなくなり、地面に引き倒すことができるようになるはずだった。冒険者がモンスターを狩る最の王道である。相手の足を潰して倒してやれば、背丈の小さな人間も自由に頭を狙えるようになるだろう。
「っ!!」
ガギィン!と鈍い音がした。ドラゴンの足首に突き立てようとした槍の穂先が弾かれて、鈍い感触がじんじんと腕の骨まで響いてくる。
嫌な予感は的中。コイツの鱗は、堅いなんてものではないようだ。
「ドラゴン種は総じて物理攻撃への防御力が高いことが多い。特に、守護竜の使徒ともなればその固さは鋼をも凌ぐとされている」
その時だった。
カサンドラの耳を――懐かしい声が走り抜けたのは。
「倒すには鱗の薄い箇所に刃を捩じ込むか……魔法を使うか、だ。助太刀するぞ。さすがに、ジョブ訓練もまだの中等部の生徒にばかり、良い格好させるわけにはいかないからな」
ああ、と――カサンドラはこんな時だというのに、全身を走り抜ける歓喜を抑えられそうになかった。
転生するたびに、彼の声は変わっているはずである。それなのに、聞けば一発で“あの人だ”とわかるのだ。優しくて、穏やかで、それでいて一途で真っ直ぐな――カサンドラが長い人生で唯一と定めた、愛しい主の聲。
――やっぱり、やっぱりそうだ。そうだった。私の予想は間違っていなかった……っ!!
ぶんっ!と振り回される尾を転がって躱し、カサンドラはその聲の主の元に跳んだ。長い艶やかな黒髪、蒼いサファイアの瞳、黒いローブを纏った美しい青年。クシル様、と呼びたい気持ちを堪えてカサンドラは尋ねる。
今だけは、鉄面皮と呼ばれる自分で良かった、と心から思いながら。
「……貴方の、名前は?」
震えそうになりながら尋ねた声に、青年は微笑みながら返してきた。
「クオリア。高等部二年、黒魔導士のクオリア・スカーレットだ」