長い黒髪が、とても美しい人だった。
流れるようなその色が、私は本当に好きで。何度その髪を褒めたか知れない。そのたびに、いつもあまり表情の変わらないあの人がほんの少し頬を染めて私に礼を言うのだ。
『ありがとう。……お前にそう言って貰えるのが、一番嬉しいな』
その時間が、私はとても好きだった。
たとえ名のある家の姫君と、彼女に使える家臣という――絶対に超えられる壁がそびえ立っているのだとしても。
「姫様!!」
私は叫ぶ。いつも物静かだ、と言われていたのはお互い様だ。普段から無口で、声を張り上げることなど殆どないという自覚ならあるのである。だから、こんなにも大声を出したのは――初めてのことなのかもしれない。少なくとも、“この世界に生まれて”からは、きっと。
「姫様!おやめください、姫様!!」
まるで、お伽草子に出てくるような美しい姫君。長い黒髪を風になびかせ、艶やかな赤い着物を纏った彼女は、崖の上でこちらに背を向けて立っていた。いや、正確には一人、ではない。その身にもう一人宿していることは誰もが知るところであったのだから。まだ、さほどお腹は大きくなってはいなかったけれど。
ああ、どうしてこんな時に限って、見張りの兵はうたた寝なんぞしていたのか。確かにこの家を襲撃しようなどという愚か者はそうそういない。今は戦国の世でもなく、治世は安定している。だからといって、こっそり酒を飲んで居眠りなどとサボりが過ぎるのではないか。そんなことでどうして門兵が務まると思ったのか。
いや。今頃真っ青になって慈悲を願っているだろう馬鹿どものことなんぞどうでもいい。肝心なのは、見回りの兵達が仕事をサボっていたせいで、彼女が屋敷を抜け出してしまったことだ。確かに、屋敷の裏山もすべてこの家の土地ではある。熊も出ないような小さな山と森だ。こんなところに迷い込む者などいない、と誰もが油断していたのは否定できない。
でも、だからって――何故こんな時に限って、自分は屋敷を離れていたのか。
彼女の心痛を考えれば起こりうることだっただろう。家が決めた結婚。彼女の家もかなりの名家だったが、申し込んできた家はそれよりもさらに格式高い家柄だった。帝の遠い親戚。そうそう断れる相手でもない。ちらりと歌の会で見かけた姫の美しさに一目惚れしたのだそうだ。確かに、多少の贔屓目はあるにしても――私は人生の中で一度も彼女より美しい人を見たことがないし、そういうことがあるのも分からない話ではなかった。きっと、家を守る為に彼女も覚悟して嫁いできたことだろう。
ただその嫁ぎ先の男が、想像以上の下衆であったというだけで。
――ああ、あんな男だと知っていたならば!私は絶対に、姫様をこんな家に嫁入りなどさせなかった……!こんなことになるなら無理にでも攫って、私だけのものにしてしまえば良かった!!
私と姫様は――ひそかに愛し合っていた。接吻以上のことは何もできぬ、清く淡く、そして絶対に報われぬ恋ではあったが。
それでも身を引いたのは、どう足掻いても結ばれぬと知っていたのと同時に、格式ある家柄に嫁ぐことが最終的に彼女の幸せに繋がるはずだと信じたからに他ならない。そう。
夫となる男が。男女問わず美しい者を手当たり次第辱めては、人を人とも思えぬ拷問を強いる屑野郎だと知っていなければ!
「姫様!そこからお離れ下さい、姫様!!」
彼女が何を考えているかなど、手に取るようにわかる。
私の声に気づき、美しい姫はゆっくりと振り向いた。艶やかな黒髪がさらりと流れるのを目にする。こんな時でなければ見惚れてしまっていただろう。満月を背に立つその姿は、まるで天女のような神々しさだ。与えられた派手な赤い蝶の着物でさえ、彼女本来の美しさを引き立てるものでしかない。
「
あまり笑うことのない彼女が――ゆっくりと唇の端を持ち上げて、笑みを浮かべた。涙を浮かべたその顔は、とても幸せそうなものではなかったけれど。
「来てくれて、感謝する。お前と過ごした時間は……私の短い人生の中で唯一無二の宝だった。お前を愛することができたこと、お前に愛されたこと…生まれ変わっても私は、きっと忘れぬと誓うぞ」
「そのようなこと、仰らないでください…姫様…っ」
「もう遅いのだ、利明。……私は知ってしまったのだ。この世には…どんな悪霊や妖怪にも勝る、恐るべき存在がいるということを。人間ほどの魔物はこの世にはおらぬ。私は身を持ってそれを刻まれた。……この身はあの下衆に穢され、いずれあの下衆の血を引く子を産み落とすことになるだろう。……私にはそれが…どんな責め苦よりも耐え難いことなのだ……」
自分が知らぬところで、見ていないところで――どれほど彼女は苦しみ、地獄を見たことか。もはや想像することさえできない。
けれどいつも凛と前を向いて生きてきた彼女が、此処までのことを口にしたのだ。どれほど恐ろしい思いをしたか知れない。私は間違いなく、彼女を救うことが出来なかった。彼女をこんな形で――泣かせてしまうなんて。こんな日が一生来なければいいと、“産まれる前から”願っていたというのに。
「これが、私に出来る最期の抵抗。私に残された最期の手札。……許しておくれ、利明。……愛している」
伸ばした手は――宙を掻いた。
彼女は月に向かって一歩踏み出し――その艶やかな黒髪が軌跡を描くのを見せつけるようにして、飛んだ。数秒遅れて響く、骨と肉を潰れるような惨たらしい音。私は力なく、膝をつくことになった。
助かる筈がないのはわかっている。この国の医療技術はさほど進んでいない。この崖の高さでは即死も充分有り得るだろう。きっと骨も肉も砕け、彼女の美貌は全て踏み躙られてしまったに違いないのだ。この下が普通の森ならまだ木に引っかかって助かる見込みもあったのかもしれないが、この崖の真下が商人も通る広い道になっていることは周知の事実である。
「また……」
どうして、いつも駄目なのだろう。
「また私は……私は、あなたを救えなかった……!」
無様に地面を殴りつける家臣の男を、集まってきていた他の兵達はどのような気持ちで見ていたことだろう。
どうでも良かった。たとえこのまま流刑に処されても、不義の疑いで処刑されることになったとしても。
「どうしていつもあなたは無残に、運命に殺されなければならないのですか……我が主、クシル……!!」
届かない声を、こうして私は殺し続ける。
もう何百回になるかもわからぬ声を――何度でも。
***
「!!」
がばり、と少女はベッドの上で目を覚ました。全身にはぐっしょりと汗を掻いている。息が荒い。視線が定まらない。現実と夢の境界線を――しばし、彷徨う。
「あ……」
時間をかけて、少女はやっと、自分が置かれた状況を理解するに至っていた。此処はそう、学園に併設された学生寮。自分はここで毎日一人寝起きして、就職のための勉強をしている。
さっきの夢は、現実ではない。
そう、今の。少女の現実では――ないのだ。
「……また、同じ夢…」
わかっていても、失望せざるをえない。ここ連日で同じ夢を見る理由を、少女――カサンドラはわかっていた。自分はどこまで後悔し続けるつもりなのだろう。いつものことだと、どうして割り切ることができないのか。こうして新しく“移って”しまった以上、前の世界のことを自分がどうこうすることなどできないのである。歴史は変わらない。時間は戻らない。そんなの、この魔法が当然のごとく存在する国であっても当たり前のことだというのに。
――情けない。……よっぽど私は…前の世界に未練があったと見える。
ベッドから抜け出し、カサンドラは鏡の前に向かった。金髪碧眼の、十五歳の少女がそこには映っている。美人か美人でないか、は自分ではよくわからない。ただ実年齢よりも幼く見えるらしいというのは周囲の評価から認識していることだった。こうも寝不足のせいでしっかりクマができていると、さすがに老けて見られそうなものではあるが。
――そうだ。今の私はカサンドラ。利明じゃないし、男でもない。……私が探し求めるべきはあの世界の姫様ではなくて……この世界の、“主様”だ。
未練タラタラになる理由などわかりきっている。何度も繰り返した転生の中で、初めて私とあの人は、相思相愛になることができたのだ。運命の主。自分が生涯お守りし、仕えるべき存在。そんなあの人と、たった一度でも恋人のような関係になれたことは、カサンドラにとってかげがえのない幸福だったのである。
それがまさか、あんな悲惨な結末を迎えることになろうとは。あんな腐った男に、神聖なあの人の身体を辱められて――あの人を身投げするほど追い詰められることになるだなんて。一生の不覚どころか、永遠の不覚だ。あの後カサンドラ、もとい利明は憎悪のまま下衆男を切り刻んで殺し、処刑されるに至ったが。復讐を果たしても、この心が晴れることなどなかったのである。
いつも、そうだ。何度巡っても、繰り返されるのはいつだって同じ。
カサンドラは転生し、運命の主『クシル』の生まれ変わりである人と巡り合う。そして、クシルが酷い死に方をするのを目にするのだ。どんな世界でも同じだった。必ずクシルはカサンドラと出会った後――二十の年を数えるより前に死ぬ。自殺で、あるいは事故で、他殺で。どの死であっても、残酷であることに変わりはない。
そして多くの場合あの人は、最期の時に泣いているのだ。
「……しっかりするのです、カサンドラ」
ぐっと拳を握り締め――鏡の中の自分に向かって、カサンドラは呟いた。
「今度の世界こそ……あの方を救う。そう誓いを立てたはずでしょう。他ならぬ、自分自身に」
折れている暇などない。こうしている間にもタイムリミットは迫っている。
カサンドラは顔を洗うと、素早く制服に着替えた。学生寮では朝食も出る。時間に遅れたら食いっぱぐれることは間違いない。
カサンドラ・ノーチェス。それが今の、己の名前。
少女は異世界へと転生し続ける。愛する人を“殺す”者の正体を突き止め――愛しい主を救う、そのために。