春馬は自室のベットに腰かけると小夜からもらったポーンのキーホルダーをかざした。ポーンは歩兵を意味している……つまりは一兵卒。特別な能力があるわけでもない。まるで、今の春馬を暗示しているようだった。
──僕は無力でバカだ……。
そう思っていると突然、春馬のベットが重力に反応してギシッと
「……」
普通なら突如現れた神獣に驚く場面なのかもしれない。しかし、春馬は禍津姫を
「なんじゃ、驚かぬのか? つまらぬな……」
禍津姫は退屈そうに言いながら春馬へ顔を近づける。シャンプーの香りだろう、揺れる黒髪からは爽やかな匂いが
「痛々しいのぅ……」
禍津姫は細い指先でそっと春馬の傷ついた拳頭に触れた。
「妹を侮辱されて、さぞ悔しかろう。そなたが望むなら、奴らを
禍津姫は優しく甘い声で春馬へ語りかけてくる。暴力を肯定されると心地よく、春馬は心が少しばかり晴れる気がした。すると、気持ちと連動するように禍津姫のスカートがフワリと揺れる。
「春馬……」
禍津姫は体勢を変えて春馬に
「ま、禍津姫さん!?」
「ふふふ……」
禍津姫は戸惑う春馬を無視し、まるで恋人でもあるかのように春馬の首へ両手を回した。ベッドに立ち膝をして春馬を見下ろしている。潤んだ黒い瞳には春馬しか映っていない。朱に染まる艶やかな唇がゆっくりと春馬の耳元へ近づいた。
「春馬よ、そなたのためとあらば……わらわは
禍津姫はそうささやきながら制服のリボンをほどき、次に胸元のボタンを外した。胸元がはだけて雪のように白い
──お前は神獣に慰めてもらうほど価値のある男か?
もう一人の春馬は自分自身を
──なぜ、瞳に
もう一つの声は
「ダメだよ
──そう、僕の問題だ……。
春馬はやっとの思いで声を絞り出すと心のなかで繰り返した。
──夏実が昏倒して眠ったままなのも、両親の悲しみも、すべて僕のせいだ。夏実は僕が復讐するのを待っているはずだ。でも、母は僕の暴力をあれほど悲しんだ……。
暴力の肯定と否定。春馬の心はその狭間で振り子のように揺れ動いた。今、禍津姫の胸元に顔を
──僕は、どうすればいいんだ……。
答えなんて出るはずがない。春馬の心は葛藤でさんざんに乱れて千切れそうになった。そのとき、ふいに禍津姫の両手が春馬の両頬へ触れた。それは禍津姫を召喚したときに感じた激烈な熱さではなく、小夜と同じでひんやりとした感触だった。
「そんなに……苦しむな」
そう言うと禍津姫は春馬に唇を重ねた。あまりに突然で、春馬は両目を大きく見開き、身じろぎ一つできない。禍津姫は舌先を遠慮がちに春馬の口内へと侵入させてくる。春馬の舌へ触れて柔らかな感触が絡み合うと、禍津姫の手にだんだんと力が入った。その強さに春馬は思わず禍津姫を見た。すると、禍津姫の妖艶な瞳と視線が合う。禍津姫は満足したのか、目を細めながらゆっくりと唇を離した。
「そなたの妹や母を想う気持ち、愛しく思うぞ。本当に……温かい」
禍津姫は春馬の膝から降りるとボタンを留めてリボンを締める。春馬は呼吸を忘れてその姿に見入った。乱れた襟を慣れない手つきで直す禍津姫の仕草が可愛らしく思えた。
「媛さん……どうして……」
「愛おしいと思ったから唇を重ねたまでじゃ。それよりも春馬……そんなにわらわを見つめるな……」
禍津姫は気恥ずかしそうに頬を赤くする。さっきまでの態度と別人だった。そうかと思えば、春馬の心を見透かすように続けた。
「苦しみから逃れたいのなら……まずは妹を静寂の
「それはわかってるよ……でもどうやって……」
「
「……」
確かに臣は夏実を救うと約束してくれた。しかし、その約束がどのような形で果たされるのか春馬は理解していない。
「まずは臣と話してみることじゃ……」
禍津姫は再び春馬の顔を覗きこんだ。
「臣は約束を守らねばならぬ。守らぬなら……殺せばよい」
「え……」
春馬が戸惑っても禍津姫は気にしていない。口元を
「春馬が本懐を
そう告げると禍津姫の身体は淡い光に包まれ、すぐにその姿は
──『本懐を遂げる』……か。
心の中で何度も繰り返すうちに、春馬の瞳には強い意志が宿った。
──僕は……必ず夏実の復讐を果たす。
春馬は心に固く誓って部屋をあとにした。