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第19話 ポーン

 春馬は自室のベットに腰かけると小夜からもらったポーンのキーホルダーをかざした。ポーンは歩兵を意味している……つまりは一兵卒。特別な能力があるわけでもない。まるで、今の春馬を暗示しているようだった。



──僕は無力でバカだ……。



 そう思っていると突然、春馬のベットが重力に反応してギシッときしむ。慌てて隣を見ると制服姿の禍津姫まがつひめが腰を下ろしていた。



「……」



 普通なら突如現れた神獣に驚く場面なのかもしれない。しかし、春馬は禍津姫を一瞥いちべつしただけで何も言わなかった。禍津姫は幾千の時を越えて復活した神獣。もはや、不意に姿が現れても驚かない。



「なんじゃ、驚かぬのか? つまらぬな……」



 禍津姫は退屈そうに言いながら春馬へ顔を近づける。シャンプーの香りだろう、揺れる黒髪からは爽やかな匂いがただよっていた。



「痛々しいのぅ……」



 禍津姫は細い指先でそっと春馬の傷ついた拳頭に触れた。



「妹を侮辱されて、さぞ悔しかろう。そなたが望むなら、奴らを九属きゅうぞくもろともりくすことも可能じゃが……いかにする?」



 禍津姫は優しく甘い声で春馬へ語りかけてくる。暴力を肯定されると心地よく、春馬は心が少しばかり晴れる気がした。すると、気持ちと連動するように禍津姫のスカートがフワリと揺れる。



「春馬……」



 禍津姫は体勢を変えて春馬にまたがった。スカートの合間から白い太ももがあらわになり、春馬は両膝に神獣の重さを感じた。



「ま、禍津姫さん!?」

「ふふふ……」



 禍津姫は戸惑う春馬を無視し、まるで恋人でもあるかのように春馬の首へ両手を回した。ベッドに立ち膝をして春馬を見下ろしている。潤んだ黒い瞳には春馬しか映っていない。朱に染まる艶やかな唇がゆっくりと春馬の耳元へ近づいた。



「春馬よ、そなたのためとあらば……わらわは現世うつしよのすべてを敵に回して、一戦まじえようともかまわぬ」



 禍津姫はそうささやきながら制服のリボンをほどき、次に胸元のボタンを外した。胸元がはだけて雪のように白い柔肌やわはだが覗く。黒く澄んだ瞳は潤んだままで、切なげな瞳は何かを訴えかけるようにジッと春馬を見つめている。春馬は禍津姫の華奢な身体を力いっぱい抱きしめたいという衝動を感じた。しかし、そんな自分をめた目で見ている自分もいる。



──お前は神獣に慰めてもらうほど価値のある男か?



 もう一人の春馬は自分自身を嘲笑あざわらっている。



──なぜ、瞳に八頭大蛇やずおろちを宿した? なぜ、デッドマンズハンドに入った? 本来の目的を忘れて女を求めるなんて……お前の決意なんてそんなモノさ。嘘つき春馬。



 もう一つの声は躊躇ちゅうちょなく春馬の心をえぐる。春馬は叫びたくなるのを必死にこらえ、禍津姫の両肩をつかんで自分から引き離した。すると、禍津姫は意外そうに眉を上げながら首を傾げた。春馬は困り顔になり、禍津姫の現世うつしよでの名前を呼んだ。



「ダメだよあきさん。これは僕の……問題だから……」


──そう、僕の問題だ……。



 春馬はやっとの思いで声を絞り出すと心のなかで繰り返した。



──夏実が昏倒して眠ったままなのも、両親の悲しみも、すべて僕のせいだ。夏実は僕が復讐するのを待っているはずだ。でも、母は僕の暴力をあれほど悲しんだ……。



 暴力の肯定と否定。春馬の心はその狭間で振り子のように揺れ動いた。今、禍津姫の胸元に顔をうずめれば、昼間のようにタガが外れる。そんな気がしてならなかった。



──僕は、どうすればいいんだ……。



 答えなんて出るはずがない。春馬の心は葛藤でさんざんに乱れて千切れそうになった。そのとき、ふいに禍津姫の両手が春馬の両頬へ触れた。それは禍津姫を召喚したときに感じた激烈な熱さではなく、小夜と同じでひんやりとした感触だった。



「そんなに……苦しむな」



 そう言うと禍津姫は春馬に唇を重ねた。あまりに突然で、春馬は両目を大きく見開き、身じろぎ一つできない。禍津姫は舌先を遠慮がちに春馬の口内へと侵入させてくる。春馬の舌へ触れて柔らかな感触が絡み合うと、禍津姫の手にだんだんと力が入った。その強さに春馬は思わず禍津姫を見た。すると、禍津姫の妖艶な瞳と視線が合う。禍津姫は満足したのか、目を細めながらゆっくりと唇を離した。



「そなたの妹や母を想う気持ち、愛しく思うぞ。本当に……温かい」



 禍津姫は春馬の膝から降りるとボタンを留めてリボンを締める。春馬は呼吸を忘れてその姿に見入った。乱れた襟を慣れない手つきで直す禍津姫の仕草が可愛らしく思えた。



「媛さん……どうして……」

「愛おしいと思ったから唇を重ねたまでじゃ。それよりも春馬……そんなにわらわを見つめるな……」



 禍津姫は気恥ずかしそうに頬を赤くする。さっきまでの態度と別人だった。そうかと思えば、春馬の心を見透かすように続けた。



「苦しみから逃れたいのなら……まずは妹を静寂の彼方かなたへと連れ去った元凶を探し出すのじゃ」

「それはわかってるよ……でもどうやって……」

おみたちはそなたに夏実を救うと約束したのじゃろう? ならばその約束を果たさせればよい」

「……」



 確かに臣は夏実を救うと約束してくれた。しかし、その約束がどのような形で果たされるのか春馬は理解していない。



「まずは臣と話してみることじゃ……」



 禍津姫は再び春馬の顔を覗きこんだ。



「臣は約束を守らねばならぬ。守らぬなら……殺せばよい」

「え……」



 春馬が戸惑っても禍津姫は気にしていない。口元を淫靡いんびに歪ませた。



「春馬が本懐をげたなら……そのときこそ、わらわはそなたに抱かれよう……」



 そう告げると禍津姫の身体は淡い光に包まれ、すぐにその姿はき消えた。静寂が訪れると春馬はぼんやりと天井を見上げた。



──『本懐を遂げる』……か。



 心の中で何度も繰り返すうちに、春馬の瞳には強い意志が宿った。



──僕は……必ず夏実の復讐を果たす。



 春馬は心に固く誓って部屋をあとにした。

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