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第13話 禍津姫

 春馬の顔面を激痛が襲い、視界もかすんでゆく。気を失えたらどんなに楽か。夏実を救う……そう決意していたはずなのに、女に頬を焼かれて無様に転がっている。



──僕はなんて情けないんだ……。



 春馬は痛みと悔しさをこらえながらおみの言葉を思い出した。



──目を見て、名前を呼んで、契約をすればいいだけだ……。



 春馬は震える膝を鼓舞して立ち上がる。両頬は赤黒く焼けただれたままだが、苦悶の表情を消し去って女を見つめた。真っすぐな眼差しには悲壮な覚悟が秘められている。ふと、春馬を見下ろしていた女は首を傾げた。



──はて……わらわはこの少年を知っている……。



 女は疑問に駆られ、ふわりと春馬の前へ舞い降りた。そのとき、。春馬は小さく息を吸いこんで語りかけた。



禍津まがつひめ。僕はあなたと契約を交わしたい」



 春馬は女の名前を呼んだ。『八頭やず大蛇おろち』ではなく『禍津まがつひめ』。まだ人間だったころの名前を呼ばれ、禍津姫は目を細めた。



──こ奴は……。



 目の前の少年と、かつて禍津姫を『鏡の中の世界』へと封印した男の姿が重なって見える。それは、八頭大蛇に身を堕とす前。人間だったころにただ一人、深く愛した男だった。



──な、なんということじゃ。



 禍津姫の顔に驚愕が広がったかと思えば、急に眉尻が下がる。今度は禍津姫が切なさで身を焦がす顔つきになった。



「とこしえとも思えるながい夜。隔世かくせいの道のりも、そなたを想えばこそ、耐えうることができたのじゃ。わらわの愛しき人……暗く、冷たい夜はもう嫌じゃ」



 禍津姫の白く細い手が春馬の胸や肩に触れる。今度は触れた部分のパーカーが腐食してボロボロと床に落ちた。



「ぼ、僕は……あなたと……契約……」



 春馬は激痛でふらつきながらも必死に言葉を絞り出す。それしかできなかった。すると、憐れむ目つきで見ていた禍津姫の口元が動く。



「正気かえ? わらわと『神約しんやく』をわしたいと申すか?」

「は、はい。僕はあなたと……あなたの持つ力が欲しい」

「……」



 少したつと禍津姫は愁眉しゅうびを開いた。一糸いっしもまとわぬ姿に狂気と威厳がよみがえる。禍津姫は再び宙へと浮遊して春馬を見下ろした。



「その脆い体で『神域しんいきことわり』に身を置き、神であるわらわと契約を結ぶ……ふふふ、面白い。そなた、わらわに何を捧げるのじゃ?」



 急に禍津姫の目が殺気立った。返答次第しだいによっては春馬を喰い殺すかに見える。



「禍津姫……僕は、あなたにを約束する」



 禍津姫の迫力に気圧けおされない、凛とした声だった。



「安住と安息……安住と安息……安住と安息……」



 禍津姫は胸に手を当てて春馬の言葉を反芻はんすうした。繰り返す内に瞳が潤み、頬が紅潮する。やがて、禍津姫は言葉を噛みしめながら、ゆっくりと降り立った。



いつわりは許さぬぞ……」



 禍津姫は顔を春馬へ近づける。春馬のたおやかな息づかいを肌に感じながらまぶたを閉じた。



幾久いくひさしく……連理れんりとなりて、この想いをつらぬかん」



 禍津姫はささやくと春馬の唇に自身の唇を重ねた。その瞬間、禍津姫の姿はき消え、グォ、グォと唸るような地鳴りがホール全体へ響き渡った。かと思えば、再び『猜火さいかかがみ』の表面が盛り上がる。しかし、今度出てきたのは大小様々、無数の黒い蛇だった。


 蛇たちは赤い口をめいっぱいに広げて、立ち尽くす春馬の瞳へと一直線に喰らいつく。春馬は抵抗を一切せず、されるがままにその身を預けていた。蛇たちは次々と春馬の瞳の中へ消えていった。


 全てが終わると、春馬は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。そして、あるじのいなくなった『猜火ノ鏡』も、ゆっくりと春馬に向かって倒れこむ。巨大な『猜火ノ鏡』は轟音を立てて倒壊した。



「春馬さん!!」



 ようやく起き上がったおみが叫んだ。寛は脳震盪のうしんとうでも起こしたのか、臣のかたわらで呻いている。



「春馬さん!!」



 臣はもう一度叫んだが、春馬からの返事はない。ホールは何事もなかったかのように静まり返っていた。



×  ×  ×



 不思議なことに巨大な『猜火さいかかがみ』は跡形もなく消え去っていた。かわりに、鏡のあった場所では禍津姫まがつひめが春馬に膝枕をしている。春馬のサラサラとした髪に細い指先を絡め、愛おしそうになでていた。そして、なぜかわからないが江陵館こうりょうかん高校の制服を着ていた。



「これはどういうことでしょうか……」



 臣は寛が気がつくと一緒になって禍津姫へ近づいた。春馬の頬は火傷やけどが癒えて元通りになっている。しかし、顔色は死人のように真っ青で生気が全く感じられない。Tシャツやパーカーの一部もちたままだった。臣は心配そうに眉をよせた。



「は、春馬さん……」

「キング、下がっててください。……お前、何をした!?」



 寛は臣の前に出ると禍津姫を睨みつけながら手榴弾を握りこんだ。緊迫した雰囲気になると禍津姫はゆっくりと顔を上げた。



「案ずるな。契約はった。危害は加えぬ。男よ、兵仗へいじょうを置け」



 手榴弾を知ってか、知らずか。禍津姫は静かに寛を制した。口調は穏やかで敵意はまったく感じない。



「春馬は寝ているだけじゃ……静かにいたせ」



 禍津姫は春馬へ視線を戻している。臣は歩みよって禍津姫を見つめた。



「禍津姫さん、その姿は……?」

「……春馬の記憶じゃ。現世において、わらわと容姿の近しい娘はこのような格好をしておるのじゃな。面白いものじゃ、神職のころもに似ておる」

「あの、そうではなくて……なぜ、外に出ていられるのですか?」

「わらわの本体は春馬の瞳のなかで眠っておる。この姿は、いわば化身……」

「化身?」

「ふふふ。安心いたせ。春馬の許しなくして、わらわが暴れることはない」



 禍津姫が力を振るうためには春馬の許可が必要らしい。転封てんぷうの儀式は無事にんでいた。臣は安堵あんどのため息をつき、寛の肩からは力が抜けてゆく。そんな二人を見て禍津姫は釘を刺した。



「勘違いせぬ方がよいぞ。呪縛者の末裔よ、もはや、わらわに禁言きんごんの呪法や梵字の魔法陣は通用せぬ。わらわを縛るものはただ一つ……」



 禍津姫は細い指先で春馬の唇をそっとなぞる。愛おしいものを決して傷つけないように……禍津姫の仕草は愛といつくしみにあふれていた。やがて、春馬をでることに没頭していた禍津姫はポツリと口を開いた。



「春馬の心のなかは他者に対する嫉妬、羨望、欺瞞ぎまんに満ちておる。じゃが、それと等しくして……人に優しくありたいとこいねがう気持ちも存在しておる。暖かくて住みよい場所じゃ……」



 ささやかれた言葉の端を臣が拾った。



「……それはよかったです。じゃあ、ボクは『転封てんぷう』が無事に終わったことを皆さんに知らせてきます。迎えをよこして春馬さんを運ばせますので、春馬さんが目覚めたら一緒に今後を決めましょう」



 臣は寛から天冠てんかん小刀こがたなを受け取り、禍津姫に背を向けて扉へ向かう。そのとき。



「……待て」



 禍津姫が臣を呼び止めた。



「一つせぬことがある。確かに、成瀬春馬の瞳のなかは安住の地じゃ。じゃが、るとは聞いておらぬぞ?」



──先客だって??



 寛は振り返って禍津姫を見る。禍津姫は春馬の顔を覗きこみながら付け加えた。



「春馬のなかにはもう一人、がおる……」



──なんだと!?



 寛は慌てて臣へ視線を送る。しかし、臣に動じた様子はない。



「それはのちほど話しましょう……」



 臣は静かに答えて歩き始めた。すると、禍津姫はクスクスと笑い、遠ざかる臣の背中へ向かって呼びかける。



「呪縛者の末裔よ……そなた、知っておったのであろう?」

「……」



 臣は問いかけに答えない。そのかわり一瞬だけ歩みを止めた。しかし、無言のまますぐに歩みを再開する。



──ど、どういうことだ??



 疑念に駆られた寛は臣へ追いつき、真偽を問いただそうとして臣の顔を覗きこんだ。



「キン……グ?」



 寛はゾクリとして言葉を失った。臣の均整の取れた顔が醜く歪んでいる。赤い口角はつり上がり、目はいっそう細くなっている。臣はわらっていた。それは、寛が今までに見たことのない、悪意に満ちあふれた笑顔だった。

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