カコン、と小気味良い音が響く。トーストが焼きあがった。真新しいポップアップトースターから、薄茶色のパンが勢いよく飛び出した。焦げ付いた箇所一つない、完璧な焼き上がり。
「ほらほら、やんちゃさん、お寝坊さんは食べられないぞ〜!」
思わず口元が緩む。妻が作った、いつものクマさん型目玉焼きの目玉が、じっとこちらを見ている。
「おー、こっち見てる見てる。焼き殺さないでって懇願してるねぇ。悪いけど、いただきまーす!」
パクリと目玉焼きを一口で飲み込み、ニヤリと笑う。いつもの朝だ。平和で、幸せで、笑いに満ち溢れた朝だ。
テレビをつけると、陽気な音楽と共にニュース番組が始まった。トップニュースは、昨日発生した列車脱線事故。画面には、脱線して横倒しになった車両が映し出されている。流れる音声は妙に明るい。
「はい、こちら現場です!いや〜、列車がまるで巨大な芋虫みたいにゴロンと横になってますねえ!乗客の皆さんもびっくり仰天、まるで遊園地のアトラクションみたいだったでしょう!怪我人も多数いらっしゃいますが、アトラクションにしてはスリル満点!後でサイン会でも開いてもらいましょうかね!」
レポーターが楽しげに語り、スタジオからは笑い声が聞こえてくる。私はトーストをかじりながら、くすりと笑った。そうだ、このくらいでいい。みんなが笑っていられるなら、それが一番だ。
ポリコレ法が施行されてから、世の中はすっかり明るくなった。以前は、ニュース番組といえば悲惨な映像と重々しい口調で、見ているだけで憂鬱になるものだった。事故や事件、災害の報道は、目を背けたくなるようなものばかり。でも今は違う。どんな悲劇も、笑い飛ばせばいい。苦しみや悲しみは、言葉を選んでオブラートに包み込み、笑いのスパイスで味付けする。それが新しい常識であり、大人として守るべきルールだ。
職場でも、笑いはコミュニケーションの基本だ。部下が企画書を提出しに来た。その企画書は、以前私が却下したものとほぼ同じ内容だった。
「おーっと!これはまた懐かしいお顔ぶれ!また会えるとはね!こいつにしちゃあ二度目ましてってやつだね!えーと、君はあれかな?リバイバルブームに乗っかりたい的な?それとも、前回のダメ出し、全く耳に入ってなかった感じかな?」
私はにこやかに笑いながら言った。部下は緊張した面持ちで「いえ、あの…」と何か言いかけたが、私が手で制止する。
「ま、細かいことは気にすんな!もっとパンチのあるネタ持ってきて、腹筋崩壊させてよ!」
部下は「はい!」と力強く頷いた。私は満足して笑った。これでいい。
友人との食事会。話題は、先日捕まった連続通り魔事件の犯人のことに及んだ。
「いや〜、あいつ、どんだけ寂しがり屋なんだよ!捕まった時、『友達欲しかった』だって?もっと別の方法あっただろうに!てか、それなら最初から合コン開けって話だよな!」
友人が冗談めかして言うと、一同は爆笑した。私も声を上げて笑った。
「ほんとそれ!手っ取り早く友達作る方法、ネットで検索しろっての!」
笑いながら、ふと考える。被害者や遺族は、このジョークをどう思うだろうか?でもすぐに打ち消した。きっと彼らも、この明るさを望んでいるはずだ。みんなで笑って、悲しみを忘れようとしている。それが、この国を前向きに生き抜くための方法だ。
夜、妻が真剣な表情で話しかけてきた。
「ねえ、あなた。お父様の具合、良くないみたい。明日、お見舞いに行ってみない?」
私は少し驚いた。そういえば、最近父に電話をしていなかった。
「お、そうなのか!もしかして、お父さん、ついに憧れの異世界転生しちゃう?今どきのテンプレなら、トラックに轢かれるか、病死がベタだもんな!」
妻は複雑な表情で私を見つめた。「あなた…」私は慌てて笑ってごまかす。
「冗談だよ、冗談!明日行くよ、ちゃんと。久しぶりにお父さんのギャグ、聞きたいしな!」
妻は心配そうに頷いた。
翌日、私は病院へ向かった。父はベッドに横たわり、弱々しく目を閉じていた。顔色は悪く、痩せこけている。肺がんの末期だと、医者から聞かされていた。
「やあ、お父さん!生きてる?もしかして仮死状態?起こしちゃったらごめんね〜!」
いつもの調子で話しかけてみる。父は目を開けなかった。私は笑いながら続けた。
「どう?あっちの世界の居心地は?美少女ばっかり?それともイケメンハーレム?いいなぁ、ずるいなぁ!」
その時、父がゆっくりと目を開けた。かすれた声で、私の名前を呼ぶ。
「…ケン…ジ…?」
私は笑顔で答えた。
「そうだよ、ケンジだよ!お父さんの一人息子!この愛すべきダメ息子が来たからには、安心して成仏できるね!」
父は私を見つめたまま、何も言わなかった。私はさらに言葉を続けた。
「大丈夫、心配しないで。葬式は、お笑い芸人呼んで、盛大にやるから!泣く奴がいたら、笑いの刑に処すからね!ハッハッハ…!」
笑いながら、胸の奥に何か引っかかるような感覚を覚えた。これは一体何だろう?
それから数日後、父は息を引き取った。私は葬儀の準備を進めながら、友人や知人に連絡をした。
「おやじがね、ついにレベルアップして、天国に旅立ったんですよ。悲しい?いやいや、めでたいでしょ!新しい冒険の始まりですよ!」
そう言いながらも、心の中は晴れない。ずっと何かモヤモヤとしたものが渦巻いている。葬儀当日、お笑い芸人が舞台に上がり、いつものように軽快なトークで会場を盛り上げた。参列者は笑っていた。私も笑っていた。でも、心は空っぽだった。父の遺影が、じっとこちらを見ている気がした。その目は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
火葬場へ向かう車の中。私は助手席に座り、外の景色を眺めていた。雲一つない青空。父の旅立ちを祝福しているようだ。本当に祝福なのだろうか?ふと、幼い頃の父との思い出が蘇る。キャッチボール、旅行、誕生日。いつも優しく、温かく、私を包んでくれた。病床の父の、弱々しい声。私の名前を呼ぶ、あの声。…ケンジ…。胸が締め付けられる。溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んだ。笑わなきゃ。笑わなきゃいけないんだ。それが、今の世の中のルールだから。でも、どうしても笑えない。笑うことすら苦痛に感じられた。
火葬が終わり、骨壺を抱えた。ずっしりとした重み。これが、父の全て。本当に、全てなのだろうか?その時、込み上げてくる感情を抑えきれなくなった。父との思い出、悲しみ、後悔、感謝…様々な感情が波のように押し寄せ、私の心を激しく揺さぶる。
「お父さん…」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「…寂しいよ…もっと話したかった…一緒に笑いたかった…」
その言葉と共に、涙が溢れ出した。止めようと思っても止まらない。嗚咽が漏れる。初めて、感情を素直に表現できた瞬間だった。
周りの人々が驚いた顔で私を見ている。
一人、また一人と、嗚咽が漏れ始めた。
今まで我慢していた感情が、堰を切ったように溢れ出した。泣き声が広がっていく。みんな、本当は泣きたかったから。悲しみを、苦しみを、押し殺して生きてきたから。笑いの仮面の下で、ずっと泣いていたから。私も、彼らも。
私は泣きながら、骨壺を抱きしめた。
「お父さん…ありがとう…」
その言葉は、笑いではなく、涙に濡れていた。でも、心は温かかった。本当の気持ちを伝えられたことで、父と繋がった気がした。ポリコレ法?笑いのルール?そんなものはもうどうでもよかった。大切なのは、自分の心を偽らずに生きること。悲しい時は悲しみ、嬉しい時は喜ぶ。それが、人間らしい生き方なのではないだろうか?
葬儀場に響き渡る、人々の嗚咽。それは、抑圧からの解放の叫びだったのかもしれない。偽りの笑顔を捨て、心の底から感情を吐き出すことで、人々は救われた。そして私も。私は泣きながら、同時に、かすかな希望を感じ始めていた。
もしかしたら、この世界はまだ変われるのかもしれない。