──もう、声を潰すなんてプロ失格だわ。
タマミは応急処置で買ったのど飴を口の中で転がしながら、最寄り駅の改札を抜けた。
学生時代からアナウンススクールに通い、厳しい指導を受けてきただけのことはあって、その強靭な声帯と滑舌の良さは彼女の自慢とするところだった。
特徴的なキンキン声がニュース向きではないとのことで、念願だったアナウンサーにはなれなかったものの、結婚式やイベントの司会には向いていたようだ。
小さいながらも各業界とコネのある芸能事務所に拾われ、声の仕事一本で生き抜いてきた。
頼まれた仕事はどんなに些細なものでも完璧にこなす、それが彼女のモットーであり、40代となった今でも複数の企業から指名され続ける所以であった。
──あのサル、あの馬鹿ザルさえいなければ。
タマミは商売道具を台無しにしたある男のことを思い出し、人目も憚らずに舌打ちした。
やはり素人が催眠術なんかに手を出すものではない。
男は披露宴の余興を頼まれ、軽いおふざけのつもりで催眠術を披露したのだが……。
まあ字数の関係上詳しいことは省略するとして、とにかくその男が大惨事を起こし、司会者であるタマミが事態を収拾すべく絶叫せざるをえなかった。
結果、彼女はジャニスジョプリンばりの塩辛声になってしまったというわけだ。
損害賠償でも請求したいところだが、もはや相手がヒトとして話の通じる存在ではなくなっている以上、泣き寝入りするしかない。
明日から三日間の予定で入っている〈年忘れ・全国ご当地フェア〉の司会は、毎年タマミが担当し、最終日には抱えきれないほどの手土産を持たせてもらう、一年で最もテンションの上がる仕事だった。
特産品が当たるビンゴ大会もあるから、観客たちの食いつきはバツグン。
そこに嫌味のないタマミならではの素人いじりも加わり、イベントはいやが上にも盛り上がる。
そんな司会者冥利に尽きる仕事を、自らキャンセルすることになるとは、泣いても泣ききれない。
──せめて正月用の昆布だけでもマネージャー経由でもらえないかしら。
そんなさもしいことを考えているところに、急遽、代役を任された事務所の後輩からメッセージが届く。
タマミさん
声の具合はいかがですか?
どうかお大事になさってくださいね
ところでご相談なのですが、私、明日みたいなイベントは初めてなんです
いつも原稿を読むだけだったのでドキドキが止まりません(笑)
何かコツなどがありましたら、ぜひアドバイスお願いします
その道の大先輩だけが頼りです!
梨花
読みたくもない文章を読むのに、わざわざ老眼鏡をかけなければならないとは情けない。
タマミは目をしょぼつかせながら、最後まで読むこともなく「フン」としゃがれ声を出した。
ちょっとした文面からも大先輩とやらに対する、そこはかとない侮蔑臭が漂ってくる。
梨花とはそういう女だ。
初めて挨拶回りに来た時も、タマミを雑用のオバさんか何かと勘違いし、素通りしかけた前科を持っている。
地方とはいえ、この春までニュース番組を担当していたという彼女は、司会の仕事をどこかしら軽く見ているフシがあるのだ。
──よりによってあんなのに声をかけるなんて、森ちゃんもどうかしてるわ。
タマミは長年、二人三脚で仕事をこなしてきたマネージャーの森にも怒りの矛先を向ける。
イベントの司会はアドリブが命。
原稿を読むしか能のない人間に務まるような仕事ではないのだ。
森も事務所の古参として新入りの指導を任されているから、あえて梨花に挑戦させ、仕事の幅を広げてやりたいのだろうが、実力不足にもほどがある。
──そういや、ああいうのが好みだったものね。
心の中でひとしきりマネージャーを腐したところで、タマミは歩道の端に寄り、面倒くさそうにメッセージを入力した。
梨花ちゃん
このたびはご迷惑をおかけしすみません
代役を引き受けてくれて感謝感激です!
この埋め合わせは必ずするからね
そして私なんかからアドバイスだなんてとんでもない!
梨花ちゃんなら絶対に大丈夫、私が保証します!
いつもの梨花スマイルでがんばれ!
タマミ
あまりの嘘くささに『!』が多くなるのはご愛嬌。
もう一度読み返してから、無表情で送信ボタンを押す。
それからまた歩き出すのだが、ふと気づけば彼女の足は自宅のある住宅街ではなく、行きつけの居酒屋『べろんべろん』へと向かっているのだった。
声枯れにアルコールは禁物。
そんなことは百も承知だが、今日みたいな夜にシラフでいられるわけがない。
豪快で底抜けに明るい大将から有り余るほどのパワーをもらい、嫌なことすべてをアルコールで洗い流してしまいたい、そんな気分だった。
──きっとこの声じゃ、びっくりするわね。
タマミは軽く咳払いしてから、縄のれんの先にあるすすけた引き戸を開けた。
「……こんばんは、今日は一人なの」
案の定、大将は目をまん丸くして笑い出した。
「タマミちゃん? 俺てっきり森ちゃんが来たかと思ったよ」
「うそ似てる?」タマミはそう言われて初めて、自分の声が森のハスキーボイスそっくりになっていることを知った。
「だってその声で『こんばんは』なんて言うもんだからよお」
「やだ、笑わせないでよ」タマミも思わず爆笑してしまった。
というのも、森には「こんばんは、森…信二郎です」と、歌手の森進一風に自己紹介をする、鉄板の持ちネタがあるのだ。
「もう一回言ってよ」
「こんばんは、森…」タマミも調子に乗り、今度は目を見開いて熱演してみる。
「アッハッハ、腹痛え」
「フフッ」
こんな短い会話だけでも、ささくれだった心がいくらかほぐれてくるのだから、さすが大将だ。
「そういや今日、限定の純米吟醸が入ったよ」
「やった。じゃあ、あとは大将のおまかせで」
「あいよ!」
タマミはいつも一人で来る時に座るカウンター席に落ち着き、「似てるんだ」とひとりごとを言った。
その後、ほんの少しの時間差で立て続けに団体客や家族連れが入り、店はあれよあれよという間に満席になった。
大将は刺身包丁を振り回し、てんやわんやしていたが、とりあえずタマミの飲み物だけはつまみが遅くなる罪滅ぼしとばかりに、なみなみと注いでくれた。
「おっと出しすぎた」
「ラッキー」
表面張力でこんもりとした冷酒を、タマミは前屈みになりながらゆっくりと口に運ぶ。
滑らかな液体が、渇いた喉と空きっ腹に染み渡っていく。
今夜はあっという間に酔いが回りそうだ。
それからパートの朋子がちょっとした乾き物を持ってきてくれた。
「これサービス。食べ物、時間かかりそうだからさ」
「ありがと」
「タマミちゃん、その声もいいわよ」朋子はそう言ってニッコリすると、慌ただしく団体客の注文を取りに行った。
──やっぱりこの空間が最高。
タマミはしみじみしながら、あたりめを奥歯で引きちぎり、その風味豊かな味わいを堪能した。
しかしアットホームな雰囲気に癒されたのも束の間、酒量が増えるにつれ、タマミの頭の中はまたいけすかない女に占領されているのだった。
──明日は台本があってないようなもんだから、きっと梨花はグダグダでしょうね。
イベントが大失敗する場面を妄想し、その口元は意地悪く歪む。
──フン、いい気味だわ、……でも。
ここで少し神妙な面持ちになり、タマミはグイッとグラスをあおった。
──もしも万が一、あの子が何事もなく無事にやり遂げたとしたら、来年からあのイベントは、いや、ほかの仕事だって……。
そんな考えが頭によぎった瞬間、タマミはいても立ってもいられなくなった。
「朋子ちゃん、お勘定して!」
「えっ、もう帰るの?」
「ちょっと、急用思い出しちゃって」
「何だよタマミちゃん、今、マグロのいいとこ切ってんのに」大将も残念そうだ。
「ごめん、今度ゆっくりね」そう言いながらあたふたと会計を済ませ、タマミは元来た道を戻るよう、駅の方向へと走り出した。
──消す、しかないわね。
窮鼠猫を噛むかのごとく、タマミは一瞬にしてある作戦を思いついた。
これから森になりすまし梨花に電話をかけ、明日の打ち合わせ時間が遅くなったと、嘘の情報を伝えるのだ。
打ち合わせとはいえ、主催者側から見れば司会者が遅刻するなど言語道断。
森にしても、自分に心当たりのない電話を遅刻の言い訳にする女など、今後、目をかける気にはなれないだろう。
──これで一石二鳥、われながら冴えてるわ。
タマミは自画自賛しつつ、年の瀬で混雑した商店街を忍者のようなステップで駆け抜けていく。
一目散に向かった先は、駅前の電話ボックス。
公衆電話からかけて番号を非通知にするためだ。
中に入ったタマミは再び老眼鏡をかけ、携帯に表示された数字を確認しながら、慎重に公衆電話の番号を押した。
数回のコール音がやけに長く感じられる。
そしてついに、受話器からあの媚びたような声が聞こえてきた。
「……もしもし」番号が非通知ということで、訝しげに応答する梨花。「どちらさまでしょうか」
ここからが本番だ。
タマミはゴクリと唾を飲み込み、受話器にそっと語りかけた。
「こんばんは、森…」そう言うタマミの目は、向こうから見えるわけでもないのに、大きく見開かれている。
「えっ、森さん?」やはりお嬢さん育ちの梨花、疑うことを知らないのだろう、拍子抜けするほどあっさりと騙された……。
かに思われたが、その後、堪えきれぬかのように笑い出した。
「やっだあ、タマミさんでしょ。今、森さんと打ち合わせしてなかったら、絶対に騙されてましたよ」
喉元から心臓が飛び出るとはこのことだ。
タマミは思考停止に陥り、思わず電話を切りそうになった。
しかし、さすがはアドリブ女王を自称するだけの猛者だ。
咄嗟に頭を切り替え、柔らかな口調で話し出した。
「ウフッ、びっくりしたでしょ。ちょっと明日のことで直接、梨花ちゃんにアドバイスしたくなって」
こうしてタマミは長年の経験で培われた司会業の極意を、惜しむことなく可愛い後輩に伝授するのだった。