「にゃっはっ、にゃっほっ。にゃっはっ、にゃっほっ…………」
長老の魔法で、にゃんごろーのもふっと短い足でも進めるように下草の成長を抑えられた道が、木立の間を縫うように続いている。
長老の獣除けの魔法のおかげか、それとも火事で逃げ出したせいか、危険な獣に襲われることはなかった。それどころか、鳥の鳴き声すら聞こえてこない。
ネコーの住処からネコーたちが逃げ惑っている時に、森の動物たちも逃げ出していたのだろう。
自分の息遣いと、木の葉のざわめきと、不穏な音だけが聞こえてくる森。
危険な獣が現れないのは助かるけれど、鳥の鳴き声も羽ばたきも聞こえてこないのは、森の中ににゃんごろーしかいないみたいで、少し心細くなってくる。
お船はまだ、見えてこない。
今、自分がどのあたりにいるのか、さっぱり分からなかった。
邪魔な木立をすり抜けるように、長老の小道は、右へ左へと蛇行していた。おまけに、人間の大人なら視界の邪魔にはならないような茂みも、小さなにゃんごろーにとっては視界を遮る壁そのものだった。もっと背が高ければ、木立の隙間から見える景色であたりをつけられたかもしれない。もしくは、一度でもお船に行ったことがあれば、なんとなく感覚で見当がついたかもしれないのに。
もう、半分は過ぎたのだろうか?
まだ、全然だったら、どうしよう?
そう考えると、不安が湧き上がってくる。
今日はとってもいいお天気で、頭上を覆う枝葉の間から、木漏れ日が差し込んで来てくれることだけが救いだった。どんより曇り空だったりしたら、もう泣いていたかもしれない。
(にゃんごろー。ほんとにちゃんと、おふねまで、いけるのかな?)
そんな不安が、渦を巻いて押し寄せてくる。
あと、どのくらいでお船につくのか分からないのに、すでに疲れて来ていた。息が上がって、顎も上がってきているし、走るペースも大分落ちている。
座って休みたい気持ちで、いっぱいだった。
「くひゅぅん……」
ゴールが見えてこない不安と疲労のせいで、涙が滲んでくる。
それでも、短くてもふもふの手と足を動かすことだけは、やめなかった。
止まったら、二度と走れなくなってしまうかもしれないという予感と、背後から時折聞こえてくる、パーン、パーン、と何かが弾けるような乾いた音が背中を押す。
ここまで、聞こえてくる音に、びくぅっとなりながらも、足は止めずに走ってきた。走りながら、視線だけを後ろに流すたび、住処の辺りから立ち昇る煙は、色を変えていった。
ピンクから赤、青、それから紫に。
長老の奮闘のおかげが、炎が広がっている気配はないのだけれど、弾けるような音と煙の色変化は止まらない。火事の犯人であるルシアが、火を消そうと焦るあまり魔法を失敗して、悪気なく長老の足を引っ張っているのだろう。
逃げ出したネコーがひとりでも戻ってきてくれれば、ルシアの暴走くらいは抑えられそうなのにと思うが、あまり期待はしないほうがよさそうだった。
森へ逃げ出していったみんなの慌てっぷりを思い出して、にゃんごろーは浮かんだばかりの望みを、早々に諦めた。あの調子では、おそらく、疲れて動けなくなるまで走り続けるはずだ。止まって落ち着きを取り戻した頃には、住処へ戻る体力は残っていないだろう。
ネコーたちの助けは、やっぱり期待できないだろう。
そして、だからこそ。
(にゃんごろーが、がんばらないと! おふねにいって、たすけてくれるひと、よんでこないと!)
きっと長老も、ネコーたちの助けは当てにならないと分かっていたのだろう。だから、にゃんごろーをひとりでお使いに行かせたのだ。
(ちょーろうは、まほうがいっとーじょうずだけど、がんばってもがんばってもじゃまされたら、つかれちゃうよー! もーう、みんなのばかー! ちょーろうひとりにがんばらせてー!)
逃げてしまったネコーたちへ怒りをぶつけることで、少し元気が戻ってきた。つられて、走るペースも上がった…………のだが、それがよくなかった。
疲れた足はすぐに縺れて、短いくせに絡まってしまったのだ。
「にゃうん! にゃあああああああああ!!」
草むらの上にダイブした明るい茶色の毛玉は、そのまま滑り落ちていく。
ネコーの住処は、森の高台の方にある。対して、砂浜から森へかけて横たわっているお船は、ネコーの住処から森を下った先にある。
つまり、長老が作ってくれた魔法の道は、坂道になっていた。
加えて、直前でスピードを上げたため、少々勢いもついていた。
悲鳴と共に、うつ伏せで滑り降りていくにゃんごろー。
幸いにも、坂道がちょうどなだらかなになっていたことと、魔法の道がほぼ直線だったこと、そしてにゃんごろーの体が軽かったこともあって、前方のカーブの先の茂みに突っ込む前に、うまいこと止まることが出来た。
最悪の事態の一歩手前だったことに気付くことなく、にゃんごろーは茂みの手前でうつ伏せたまま、動かない。
やがて、その体が小刻みに震え始めた。
「…………ふ、ふにゃ、ふぇえええええん!」
むくり、と起き上がり、草むらにお尻をつけたまま泣き出すにゃんごろー。
顔はかろうじて無事だったけれど、手も足も腹も痛い。
明るい茶色と白が混じった毛並みは、草の汁で汚れていた。青臭い匂いが、体から立ち昇って来る。
本当の最悪は間一髪免れたとはいえ、にゃんごろーにとって、これは十分に大参事だ。
体の痛みとびっくりしたのとで、お使いのことも、美味しいもので乾杯のことも、頭から吹き飛んでいた。
「ふぐっ、ぐしゅっ、ふにゃぁああああん…………」
蹲るように小さな体を丸めて、肉球のお手々で目を覆い、泣きじゃくるにゃんごろー。
そんなにゃんごろーを叱咤するかのように、パァアアアアン!――――と甲高い破裂音が遠くで鳴り響いた。
「ひゃああああん!?」
弾かれたように顔を上げ、音がした方角を見上げるにゃんごろー。
驚きのあまり、涙はすっかり引っ込んでいた。
何事か、と涙を拭い、目をパチパチさせてからまじまじと見上げた先で、今まで以上にカラフルな煙が天高く、もくもくと立ち昇っている。
赤と青と緑と黄色の四色が、自己主張激しく混じり合いながら、空へ登っていく。
ぽーん、ぽーんと音が響いて、煙の中から、なぜか旗がいくつも飛び出してきた。旗は綺麗な弧を描きながら地面へと落下していく。
これだけならば、お祭りでも始まりそうな陽気な光景だ。
だが、そうではない。錯乱して暴走しているルシアはある意味お祭り状態なのかもしれないが、それは、すぐにでも鎮めなければいけない質の悪いお祭り騒ぎだ。あそこでは、よくないお祭り騒ぎをなんとかせねばと、長老が必死で頑張っているのだ。
魔法で火を消そうと頑張る傍ら、「なぁにをやっておるんじゃー!?」と絶賛お祭り騒ぎ開催中のルシアに怒鳴っている姿が目に浮かんできた。
もっと小さな失敗だったら、笑って見ていられたのに、住処で見たあの火柱は笑い事ではない。
にゃんごろーが今いるところから見えるのは、怪しさ満載の煙と旗だけで、炎の柱までは見えていない。けれど、あの調子だと、ルシアの奇行と森へ燃え広がるのを抑えるのに手いっぱいで、消火作業の方は進んでいないのだろう。
むん、と口を引き締めて、にゃんごろーは少々よろめきつつも立ち上がった。
長老ひとりに、頑張らせるわけにはいかない。
転んだ拍子に何処かへ転がり落ちていったやる気が、にゃんごろー目指して駆け寄って来て、小さくて、もふもふの体の中にスポンと納まった。
キリッと目元を引き締め、カーブの先に続く小道を睨みつけるようにして、にゃんごろーは気合を入れた。
「ころんれも、ひとりでおきちぇはしれっちぇ、ちょーろーに、いわれてたんらっちゃ。うん。らいじょうぶ。おおきい、けがは、しちぇいない! にゃんごろーは、まら、はしれりゅ! まってちぇ、ちょーろー! にゃんごろーも、ちょーろーといっしょに、らんらるからね!」
ふん、とお腹に力を入れ、足先にも力を入れて、再び走ろうと意気込むにゃんごろーだったが、非常に残念なことに、さっきの滑り込みダイブのせいで、足元の草は潰れて滑りやすくなっていたのだ。
案の定、力み過ぎた子ネコーは、ツルッと足を滑らせた。
「んにゃ!? にゃ、にゃぁああああんでぇえええええええええ!?」
ツルッ、ストーンと尻もちをついた勢いのまま、魔法の坂道を滑り降りて行く子ネコー。重ねて運の悪いことに、ダイブ地点の先は、少し傾斜が急になっていた。
目の前に、さっきとは逆方向へのカーブが現れる。
さっきよりは緩いカーブだが、上手く曲がれなければ、もじゃもじゃの茂みの中に突っ込むことになる。茂みの中に突っ込んだら、折れた枝が刺さって怪我をするかもしれない。怪我がなくても毛に絡まって、茂みから出るのに苦労することだろう。
「ひぃいいいいいいいいいいい! とま! まが! まほ! にゃんとかしにゃ…………んにゃぁああああ! みゃにあわにゃいぃいいいい!!!!」
魔法を使って止まるなり曲がるなりしなければいけないのだが、何をどうすればいいのか、分からない。まだ、あまり魔法が上手くないにゃんごろーには、咄嗟に何かをどうにかするような芸当はとても無理だったのだ。
急斜面のせいで、茂みはどんどん目前に迫って来る。おかげで、余計にいい考えが浮かばない。
(もう、だめにゃー!)
ぎゅっと閉じた目を肉球のお手々で覆った次の瞬間。
子ネコーの小さくて軽い体は、ふわりと浮き上がった。
「大丈夫?」
「にゃ?」
明るくて優しい、若い女性の声が、頭の上から降って来る。
恐る恐る目を開けると、木漏れ日がサッと差し込んできた。
にゃんごろーとは違う、ツルツルのお顔が見えた。頭にだけ、毛が生えている。陽光を受けて輝く綺麗な赤い毛は、ツルツルのお顔を彩るように緩くうねっていた。クルンとした毛先が、顎のあたりで踊っているのが可愛らしい。
にゃんごろーが、初めて遭遇した人間だった。
人間の若い女性に、脇の下を両手で持ちあげられて、ぷらーんと抱えられている。
「危ないところだったね! でも、もう大丈夫だよ! わたしはミルゥ、お船の人間だよ! 可愛い子ネコーさん!」
「ミ、ミルゥ…………しゃん…………」
木漏れ日にも負けないくらいにキラキラと光を放ちながら、ミルゥと名乗った人間は、にゃんごろーに明るく笑いかけた。
陽光を優しく照り返す赤毛。喜びにあふれた瞳は、濃い緑色をしている。
(トマトのめがみさま、みたい…………)
森の女神様…………ではなく、トマトの女神様。
食いしん坊のにゃんごろーらしい感想を抱きながら、にゃんごろーは大参事から掬い上げてくれた女神様を眩しそうに見上げた。