曲がり角でズドンとぶつかった女は俺を見下ろしていた。
ふんぞり返った姿は逆光で真っ黒で、まさに魔王のように威厳たっぷり、しかもなんだか長いベロをだらりと垂らしていた。一瞬俺はひるんだけれど、気を取り直して文句でもいってやろうと立ち上がる。なにせ普通に歩いていた俺に脇道から猛スピードで走ってきてぶつかったのはこの女のほうなのだ。
「はなはなんはってひふの!」
「何言ってんだかわかんねえよ!」
起き上がって気がつく。その女は俺と同じ学校の制服を着て、思ったより小柄だった。そして何故だかバタールを咥えていた。バタールとはずんぐりとしたフランスパンの一種で、長さは20センチほどはある。それが女の小さな口元から揺れている。
正気か?
学校までの距離でそのドでかいパンを食い切るつもりか? 普通、切って食うものだろ。
女は意思疎通できていないことに気がついたのか、右手でパンを持ってもしゃりもしゃりと食いつき咀嚼し、見る間にそのパンは半分くらいのサイズになった。狂気を感じた。
「何私にぶつかってるのよ! もぐ、危ないじゃない!」
「まてや! ぶつかったのはお前だろ!」
「なによ! 女子が走ってるのくらい避けなさい! もぐ」
女はそう言いながらパンをくわえ直し、シャドウボクシングのように俺の前に鋭い拳をくり出す。風をきる音を響かせる姿は少年漫画のようだ。
バタールの最も太い部分は既に口を通過し、隙間ができたのかモゴモゴ音は聞き取れるレベルにはなっていた。つか、それならお前がよければいいだろと思いつつ、再び口元からぶら下がるパンに目が釘付けになる。
女がかみちぎった時に溢れた芳醇なチーズの香りから、チーズバタールなんだろなと思った。いや問題はそんなことじゃなく、生地だ。そのパンは俺を突き飛ばすほどの衝撃にも、今の女の動きにも耐えて口に張り付いている。
「お前! そのパンをどこで手に入れた! どこに売っている!」
「何よ突然」
女は一転、怪訝そうに眉をひそめ、警戒心をあらわにする。
けれど俺にはそのパンが必要だった。何故なら俺は生徒会で運動会の担当だからだ。とはいってもだいたい毎年通り、綺麗に言えば歴史にならい、普通に言えば惰性の通りに行われる。マニュアルは整っていて、苦労をすることもない。
けれど俺は運動会に一つだけ不満があった。重大な不満で、決してそれを許せなかったのだ。
それはパン食い競争だ。
重要だからもう一度言う。パン食い競争だ。
パン食い競争に使われるアンパンはビニール袋に入って紐に吊るされている。
それじゃ駄目だ! 駄目なんだ!
だってパン食い競争だぞ! パンを食わなければ始まらない! それじゃ袋パン齧り競争だ! 夢がない! 俺はパンが好きなんだ!
だから同じ生徒会役員を犠牲に試したところ、袋パン化する理由がわかった。パンは落下する。かじる熟練度かパン自体の弱さなのかはよくわからないが、ある程度トライすると紐からパンがちぎれて落下し、パンを取り落とす。紐を弾力のあるゴムにしても結果は同じ。余計にパンを振り回すだけだ。
悔し涙を飲みながらも諦めかけていた俺にとって、この女のパンはそのどん底に差した一筋の光明だ。このパンなら紐から落下せず食べることができるに違いない! 世界が輝いた。
気づけば女の肩をガシリと掴んでいた。イースト菌の酸っぱい香りが漂う。腹に結構重い拳を貰っているが気にするものか。
「そのパンはどこで売ってるんだ! 俺はどうしてもそのパンが欲しいんだ!!」
「ぱ、ぱん? 私じゃなくて?」
「は?」
女は戸惑い、混乱している。パンはいつのまにか消え失せていた。凄い。あの量をまるで水でも飲むかのように。それだけ食べやすいということか。
パン食い競争にパンを使いたいと力説すると、女は次第に、何故だか恥ずかしそうに目を伏せた。
「俺はこのパンに惚れた! 教えて欲しい!」
「あの、その、このパンは私が焼いたの……」
「何!」
「研究を重ねてて」
女は恥ずかしそうにカバンからもう一本バタールを取り出した。フルサイズの。女が開いた肩掛けバッグの中には他にもパンらしきものが詰まっているのが見えた。
思わずうめく。パンは好きとはいえ、長さ30センチものパンだ。大人でも食い切れる量じゃないが欲しいと言ったのは確かに俺。恐る恐る口をつけ、その疑念はすぐに晴れた。一口かじればその分厚い皮はサクリと切れ、小麦の香ばしさが鼻腔をくすぐる。そしてその中身はふわもちで、食べ始めれば最早とまらず、気づけばあっという間になくなっていた。
「凄い……本当に美味かった。何故こんなにさっくりと噛み切れるのに走っても破れないんだ?」
「えっとそれは私が学校行く途中に走っても大丈夫なよう、垂直、つまり歯が入る方向にはさっくり噛み切れるけれど、横の動きには抵抗、というか強い弾力を保持できるように研究したからで……」
「狂……天才だ!」
それでならかじりついたところのパンは噛み切れるけれど、それによって揺れる振動では千切れないパン、ができる。
いや、そもそも。
「家で落ち着いて食べてから来ればいいだろ?」
「や、それはなんていうか、真夜中まで新しいパン作ってたら5秒でもギリギリまで寝ていたいというか……」
髪の毛をいじる女は少し恥ずかしそうにしていたが、ちぎれないパンを作って夜更かしするのは本末転倒では。それほどの情熱、はどこから生まれたんだ? 天才は狂気と妄執の先に新しいものを生み出すと聞いたことがある気がする。
「でもこれをパン食い競争に出すの?」
「そう思っているが」
「その、なんていうか……私はパン好きだからいいんだけど、普通はこんなに食べられないんじゃないかな、とか」
バタール一本丸々食えとは俺も思ってない。恥ずかしそうな女に狂気を感じる。
「何分の一かに切り分けて吊るそうと思う」
「あ、それじゃ駄目だよ! 面で強度を保持してるからちぎれちゃう!」
「それは……本末転倒だなぁ。何とかならないかな」
「もう少し小型で作ってみる、とか?」
「できるのか⁉︎」
そんな話で盛り上がり、俺たちは結局遅刻した。随分怒られた。けれどめげずに放課後、家庭科室を借りて試作品を作る。どれも美味い。女の腕は本物だ。たくさんの人間に試食してもらい、一番好評だったものが採用された。
運動会当日は気持ちよく晴れ渡っていた。調理用凧糸にくくりつけられ風にゆれるたくさんの小型パン。採用されたのは一口サイズのフランスあんぱん。フランスパンのようにサクリとした生地の中にとろけるあん、万全の体制だ。
美味さも相まって、来年も続けて欲しいという意見がたくさん寄せられた。
こうして俺の運動会は幕を閉じたのだ。
しばらく経ったある日。俺はまた曲がり角で倒れていた。見上げると、逆光を浴びた影から声がかかる。
「はらはんらなほ」
「走りながら食べるのはやめた方がいい」
「だって遅刻しちゃう!」
片手はパンを握っていたが、もう片方の手は俺に差し伸べられた。起き上がると、1メートルはあろうかというバケットをくわえていた。
「もう少しマシなサイズにしたら」
「いくら食べても食べ足りないの。それよりあんた、名前なんて言うんだっけ」
女は走って上気したのか、あるいはパンの巨大さからくる呼吸困難のせいなのかはわからないけど、頬をわずかに赤らめていた。
そういえばお互いに名前を名乗っていなかったことに気がつく。
もうすぐ夏が来る。
Fin