正男の殴打事件から2日後、辺見家にはいつもの日常が戻っていた。
「正男君、おかえりなさい」
辺見家の3人とサブとモモが出迎えた。田代も同行している。
「この度はご心配をおかけしました」
田代の言葉に一郎や美恵子は逆に恐縮している。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。海水浴に行くなんてことがなかったら、正男君たちにご迷惑をおかけすることがなかったのに・・・」
「正男君、大丈夫? 守れなくてごめんなさい」
里香が泣きそうな声で言った。そして、正男にしがみついた。その様子はとても力強かった。サブとモモも正男に近づき、足元でくるくる回っている。正男の存在を感じているのだろう。海水浴には一緒には行っていないが、帰った時にみんなの雰囲気が暗く、正男がいなかったことで、動物の直感で何かを感じていたのかもしれない。それがこの日、みんなの前に姿を見せたことで家族全員が心から喜ぶことになったのだ。
「僕、大丈夫ダヨ。里香チャンモ大丈夫? アノ時、トテモ心配シタ。途中デ分カラナクナッタケド、ソノ後ノコトヲ聞イタ。顔ヲ見タラヤット安心シタ」
正男の言葉遣いの変化が見られた。これまでよりもスムーズな会話になっているのだ。里香は気づいていないようだったが、辺見夫妻はそのしゃべり方に少し驚いていた。
その表情に気付いた田代が2人に言った。
「今回のことについて私たちの反省点として、話し方がもう少し自然にできていれば、ということがありました。それで正男君のハード面だけでなく、話し方といったソフト面の強化ということを考え、バージョンアップしました」
「・・・田代さん、研究所の方としての話としては分かりますが、今、正男君はウチの家族です。ちょっとその表現は・・・」
美恵子が言いにくそうに言った。
この時、田代はハッとした。自分では正男の母親的な気持ちでいたものの、今回のことで研究所のスタッフに戻っていたことに気付かされた。研究所では違う気持ちで正男のことを考えていたが、一緒に生活した時間が長い辺見家の人たちのほうがより家族的な情愛を注いでくれたのだ、ということを改めて実感した。同時に、この点については自分のほうの意識について恥じる気持ちになっていた。正男を子供の様に感じていたのは辺見家の人たちが上だったのだ。愛情に上下は無いが、田代は自分の気持ちの中で改めて正男を辺見家に預けたことを良かったと思った。
しかし、同時に研究所で考えた別れの時のことを思い出した。この家族の様子を目の当たりにしながら、それが変わる姿を想像すると、自然に涙目になっていた。その様子を見て美恵子が言った。
「ごめんなさい、私の言い方が悪かったわ。変なつもりで言ったんじゃないので・・・」
「分かっています。私の涙は別のことですから、お気遣いなく」
田代と辺見夫妻の会話とは別に、正男と里香とサブとモモはみんなでいつものように遊んでいる。
正男が足を伸ばして座っているところにサブがやってきた。その様子を見ていた里香も同じように足を延ばして座っていると、そこにはモモがやってきた。
2匹とも両足の間で横になり、とても安心しきった様子だ。正男も里香の足のところで横になっているサブとモモを撫でている。その光景は平和そのものだ。辺見夫妻や田代はその様子を幸せそうな表情で眺めている。
ゆったりとして様子は時間が経つことも忘れさせてくれる。正男はともかく、里香の足がしびれてきたようだ。そのため姿勢を変え、モモを抱くような状態になっている。
そのタイミングで美恵子が気付いた。正男が戻ってまだ食事をしていないのだ。
「もうこんな時間、あなた、田代さん、お腹が空いたでしょう。今、簡単なものだけど用意するわ。夕食はしっかり作るから、とりあえずお腹に入れてください」
そう言われて時計を見ると午後2時を回っていた。言われて初めて空腹を感じたみんなだが、それよりも正男が元気で戻ってきたことの嬉しさが勝っていたのだ。