夜半に目が覚めた。
誰かが、椅子に掛けている。
「…久しぶりだね」
私の正面を向いた男は、穏やかな声でそう言った。
それは、私のよく知っている声だった。
「ナガノ…」
私は思わず口にしていた。もうずっと、口にしなかった名だ。
頭が、記憶が反応する前に、口はその名前を言葉にして外に放っていた。
「そうだよ、僕だよ」
彼はすっと立ち上がる。逆光に、その顔はまだよく見えない。
私は手探りで、手近なルームランプのスイッチを入れた。しかしそれは広いこの部屋の全体を照らす訳ではない。
それでも柔らかな光が、部屋の一部分に点ると、それまで見えていなかった、その姿が次第に明らかになってくる。
黒い髪を無造作に後ろで束ね、ラフなシャツとパンツだけの、すっきりした姿、そしてその、薄青の瞳。
あの時と同じだった。結びきれずに、顔の横に幾筋か垂れ下がった髪すらも。
最初に、あのウェネイクの食堂で出会った時と、変わらない姿が、そこにはあった。
「生きて… いたんだな」
「もちろん。でもずいぶんと遅くなった。すまない」
彼はそう言って、すっと私の方へ向かって手を伸ばす。私は引かれるようにその方向へ身体を動かし…
彼の手が触れるか触れないか、というところで、意識が身体を止めた。
「どうしたの」
「君が変わらないのに比べ、私はずいぶんと変わってしまった。歳を重ねてしまった。今の君に触れられるような、私はそんなものではない」
「そんなこと」
彼は首を横に振り、一歩前に足を進める。伸ばした手が、そのまま私の頬に触れた。
「僕は約束を守ったよ、サーティン」
*
彼が生きてるとは思っていなかった。だが死んでしまったとも思えなかった。
あの日の二人目の訪問者は、船から送り返されてきたミンホウだった。燃料の関係で、最寄りの廃コロニーに不時着していた所を、救助されたのだ。
彼はキリュッキに泣き喚かれながら、はたかれながらの再会を早々に果たすと、すぐに私の元にやってきた。
「そういうことは、最初から言って欲しかったですね」
苦笑いしながらその時彼は私に言った。
想像した通り、ミンホウは、茶番の様なこの騒ぎには必ず理由がある、と思い、友人にとっさに協力したのだという。
「俺は、奴が何であっても、別に友達であることは変わらないんですから、言ってくれれば、もう少しマシな方法で奴を逃がすことを考えましたよ、社長」
「マシな方法ね」
「ええ全く、あれじゃあその後に上手い逃げ道を探すのは大変だったのですから」
そう言ってから、ミンホウは彼には珍しくにやりと笑った。
「社長、あの撃墜された船は空だったんですよ」
私は一瞬その言われた意味が判らなかった。幾らナガノが天使種だとしても、その処刑方法が「爆死」であるのだから、撃墜されたらおしまいだろう、と私も考えざるを得なかったのだ。
それでも何とかしたのかもしれない、何処かに見つかる前に脱出していたのかもしれない、という考えが、私の僅かな希望だった。
「奴は、俺と一緒にあの脱出船に乗っていたんです。そして廃コロニーへわざわざ進路を向けた。あそこが何だか、俺達は既に知っていましたから」
そう言えばそうだ。この男は、大雑把に見えて、結構なデータをも所有しているのだ。
「そして何とか使えそうな船を修理して、とにかく何処か最寄りのコロニーまで飛べる様にした後、脱出船の燃料をそちらへ移したんです」
そう言えば、船を用意させたイーストベアが、何で燃料切れなんか起こしてるんだ、と頭をひねっていたことを私は思い出していた。
「その後奴がどうなったかは、俺にも判りません。だけど、奴のことだから、…撃墜されたんじゃなければ、何とでも、生きてくはずです」
彼は言葉に力を込めた。
「社長、奴は、約束を守る男ですよ」
判ってるよ、と私は笑った。
*
そのミンホウも既にこの社を離れて久しい。あれから、三十年という月日が経っているのだ。
「君はそう言うが、ほら」
私は僅かな灯りに手をかざす。
「この手はずいぶんと老いてしまった。君のいない間、君のおかげで手に入れることのできた会社を守り、広げることだけに使われてきたこの手は、ずいぶんと汚れてしまった」
皺もより、その皮膚も、決してかつてのみずみずしさは戻ってこない。
それは手だけではない。顔も髪も身体も…
無論、それだけの時間について、私は何ら恥じることはない。私は私の精一杯を尽くして、自分の社を守ってきた。MA電気軌道…今はLB社と名を変えたそれを、死にものぐるいで守ってきたのだ。
しかしそのためにしてきたことは、決して綺麗なことだけではないのだ。
そしてナガノは、その手を取る。
「でも君は、この手で、守ってくれたのだろう? 僕の帰る場所を」
「ああ。君が私に託したもののおかげで、私は独立をすることができた。だが私は君に謝らなければならない」
「何」
「遊園地を、閉鎖してしまったんだ」
*
それは、唐突だった。
遊園地コロニーに私は、「ルナパァク」と名付けた。ナガノがずっと話していた、あの失われた国の、彼が感銘を受けた遊園地の名だ。
そしてその「ルナパァク」は、開園直後から、各地で話題となった。
何せ「遊園地」だ。この長い戦争の間に、失われ、忘れ去られようとしていた、ただただ年齢も立場も関係なく、楽しむためだけの場所。
それはウェストウェスト星系だけでなく、まず近隣の星域で噂になった。
既に戦争は九分通り終結していたと言ってもいい。星系によっては、既に一度壊滅的になったはずの場所が、復興を果たしている所もあった。また、当初から運良く、次の支配者となるはずのアンジェラスの軍と手を組んでいるおかげで、無傷のままの星域も存在した。
そんな、生活に余裕のある星域の人々が、珍しさに押し寄せたりもした。団体で、やってくる場合もあった。
星系の中だけでなく、外貨が入ってくるのだ。おかげで、星域内の宿泊施設や、その周辺の店、もちろん百貨店もそうだし、遊園地コロニーまで人々を運ぶ、チューブも連日忙しい運転となったものだった。
これは成功だ、と私は思った。
社をDグループから独立させて、最初の冒険だった。確かに予想はしていたが、これだけの経済効果が、周辺にまで及ぶとは考えてもいなかったのだ。
だからその時、私はいい気分になっていたのかもしれない。
また、その「依頼」がまたやって来るなどと考えてもいなかったのかもしれない。
そして、その「依頼」をまた断ることができると…うぬぼれていたのかもしれない。
アンジェラスの軍は、そんな風にルナパァクの経営が軌道に乗ってきた頃を見計らったかの様に、再び軌道のサイズの問題を持ち出してきたのだ。
*
「私はおそらく自分が彼等と対等に話すことができる、と錯覚していたに違いない」
灯りを挟んで座る彼に、私はまるで懺悔の様に、その時のことを口にしていた。
「私の答えは変わらなかった。NOだ。軌道の幅を、変えることなど、考えたくもなかった。その時点で、順調に流れている交通をいきなり差し止めたくもなかった」
「それは当然だろう」
「ああ。私は私の主張を間違っていたとは、その時も今も決して思わない。だが、正しい間違っているではなく、その時のそれは、ただの取引の材料に過ぎなかったのだ」
「取引」
「この先、アンジェラスの軍に、我々の社が服従していくか、という」
*
要求を呑む訳にはいかなかった。そして、呑める筈が無い、とその時の私は考えていたのだ。大丈夫だろう、今のこの状態の企業を一つ、脅かすことなどしないだろう、と高をくくっていたのだ。
考えてみれば、その自信に何の根拠があっただろう。私は成功に気を良くして、確かに戦争は終結に向かいはいていたが、まだ終わっていた訳ではない、ということを忘れていたのだ。
そしてそれは、一つの電波によって思い知らされた。
忘れもしない。あの日、全ての電波が、一つの強力な妨害電波のせいで遮られた。
その妨害電波は映像と音声を運んできた。
画面に映った顔を、今でも覚えている。ひどく禍々しい程に美しい、黒い長い髪を持った、将官がそこには居た。
いや将官と思ったのは、その時その人物の肩と胸にあった階級章のせいで、実際にはその人物は、それどころではなかったのだ。
その人物の、濃い色の唇が微かに動いた時、私は自分の耳を疑った。
その人物は、こう言ったのだ。
我々は、明後日共通時間正午にウェストアウトの以下のコロニーを爆撃する。なおこれは既に決定された事である。変更の余地は無い。
抑揚のひどく少ない声で、その人物は、そう言った。
私達は、その意味を数分間計りかねた。意味が判らなかったのだ。
それに一番最初に反応したのは、ミス・レンゲだった。彼女は呆然としている私に、平手打ちを一発食らわせると、いきなり叫んだ。
「何をしていますか! 居住コロニーの人々をすぐに避難させなくてはいけません!」
そうか、とその時ようやく私はその事の意味が判った。「以下のコロニー」と映像の人物が告げたのは、全て居住用のコロニーだった。
私は持ち船と、チューブの全線のダイヤを緊急時のものに切り替えさせて、居住区の人々を避難させた。
それは生半可なことではなかった。何せ「住む」ためだけのコロニーである。人口が他の商業コロニーよりずっと多い。
だから、彼等を一体何処へ送ればいいのか…私はその問題にまず突き当たった。
本星に送る、という手もあった。実際ある程度の受け入れは可能だった。だが、向こうではその受け入れを渋った。向こうの言い分はこうだった。君達に協力したと知れると、こちらもまた爆撃を受けるかもしれない、と。
報復措置だ、と気付いたのは、その時だった。あくまで、私及び会社に対する報復措置なのだ。彼等には、人々を抹殺しようという意志は無い。だが、この攻撃によって、我々の損害が、どれだけになるのか。
それでも、全体の1/5位を、何とか頼み込み、本星へと送り込んだ。各コロニーに、人々を機械的に割り振った。機械的だ。そこで何かの気持ちが入り込む余地は無かった。どんな知り合い同士だろうが、それを慮る余裕など、その時の我々には全く無かったのだ。
しかしそれは功を奏して、何とか、かなりの世帯が、あちこちのコロニーに治まり、一つの家を数世帯で住む様なことらなってでも、とにかくは殆どの人々を収容することができたのである。
…そしてその時、最も多くの世帯を運び入れたのが、ルナパァクだったのだ。
*
「仕方なかったんだ」
私は彼に向かって言った。
「四散するコロニーと、そこまでつながるチューブが崩れ落ちていくのを、私は見ていた。ルナパァクの空扇閣の中に設けられた事務所の中で、私はその様子をずっと見ていたんだ」
「…うん」
「君が、あの時の私が、かなえたかった場所は、それからずっと、人々が住み着いている。普段の生活を離れた、夢の遊び場だったはずなのに、今や生活にまみれている。君に会わせる顔が無い、と私はずっと思っていた…」
「それで、君はこの本星に移り住んだの?」
ナガノはゆったりとした口調で訊ねる。私は首を横に振る。一応、それは仕事のためでもある。何かとあの後、本星の信頼を取り戻すために、私は自分の家を本星に置く必要があったのだ。
しかし、もしかしたら、彼が言う様に、そんな気持ちがあったのかもしれない。彼に会いたかった。しかし会わせる顔が無い、と思っていた。
そして、三十年という月日が経ってしまっていた。
長い時間の中で、ミス・レンゲは既にこの世を去り、ヴィヴィエンヌは時々思い付いた様に、別の名前で私に招待状を置くってくる。そのたびに別の場所でローカル・スタァになって。
ミンホウは社を離れて独立し、企業を興し、なかなかの形にしている。イーストベアぐらいの世代は、もう引退して楽隠居している者も居れば、別の会社で開発スタッフの指導に当たっている者もいる。
私の上には歳が積み重なり、それでいて、遺伝子は何処にも残って行こうとはしない。私は結局ずっと独り身のままだった。考えなかった訳ではない。血縁関係は企業間のつながりの上で大切なこともある。別に妻が欲しいとは思わなかったが、子供が居る風景に憧れを持たなかった訳でもない。
しかし、結局は、こうなった。
そして、この私の前の男だけが、何も変わっていない。
「色々あったんだ」
ナガノはつぶやく。
「でもその色々は、帰る場所があるから、何とかできたんだよ」
きっと彼は彼で、私とは違う意味の「色々」があったに違いない。だが彼はその内容は口にしない。ずるい、と思う反面、それでいいとも思う自分が居る。
もう、そんなことは、どうでも良かったのだ。
「…ああ、もうそろそろ夜が明ける。僕はもう、行かなくては。そろそろ庭に転がしておいた犬も目が覚めてしまう」
ナガノは座っていた椅子から立ち上がると、窓の方を向いてつぶやいた。
「行って… しまうのか?」
「この会社を守ってくれてありがとう、サーティン。でも僕はここに居る訳にはいかないだろう。また昔の様なことが無いとも限らない」
「それで行ってしまうのか?」
私は思わず彼の手を掴んでいた。傷一つ無い、あの時と変わらないその手を。私は首を横に振る。朝の光が、私と、彼の姿を次第に明らかにしていく。
「駄目だ、行かせない」
「サーティン」
彼は苦笑する。無言で駄目だ、とその表情が言っている。
「何が駄目なものか」
そして私はその表情に対抗する言葉を探す。
「あの時とは違うんだ。もう戦争は、本当に終わったんだ」
「…」
「遊園地を、やろう、ナガノ」
「ルナパァクを…」
「そうだ、ルナパァクを。君が考え、私が進めた、あの遊園地を、もう一度、蘇らせたいんだ。戦争は終わったんだ。今は平和なんだ。平和なはずなんだ」
私はそこまで一気に言って、一度大きく息をついた。
「あの場所を、取り戻すんだ」
時間は、取り戻すことができない。だけど、夢は取り戻すことができる。
できる、と私は信じたかった。
そして、掴んだ手に、力が込められるのが、判った。