「軍が…? それは以前の、あの軌道の問題をぶり返して…」
「いや」
私は首を横に振る。
「他言無用だ、ミス・レンゲ。君を信用している。だから言う。信用していいのだな?」
彼女は眉を寄せ、何か言いたそうに口を動かしながら、胸に両手を当てた。
「私は…」
「信用している。それとも君はずっと、D伯のもと、私を監視していたとでも?」
「社長!」
彼女はばん、と胸に置いていた両手を机に叩きつけた。
「…幾ら何でも、それは言いがかりというものです。確かに私達は、Dグループの傘下ですから、それなりのことはしていますが、それ以上ではありません。ましてや社長を」
「うん、冗談だ。冗談にしておきたい。だから君には言っておく。そして他言無用だ。いいな?」
ナガノが言った、言葉に力を込めて人の心を動かすという力。私にはそんなものは無い。私は彼等の種族ではない。ただの人間だ。
だが今、ひどくその力が欲しい、と思った。
「アンジェラスの軍は、ある一人の人物を捕らえに来る。それは我々のよく知っている人物だ」
「…!」
「彼はおそらく、軍が来る前に、この地を離れるだろう。どんな手段を使っても」
「…では、それを… 彼を、軍には」
「いいかいミス・レンゲ、私達は、そんなことは、知らないんだ」
「知らない、ということは…」
「私達は、彼がどうやってこの星域を抜け出すのか、さっぱり知らないんだ。もしかしたら、人質を取って脱出するのかもしれない。そうその人質は、我が社にとって、とても有能な人材なので、もしも向こうの軍が、それを見殺しにしてでも彼を抹殺しようとしたら、我々はそれを何とかして止めなくてはならない」
「社長その彼とは…」
私はそれには答えなかった。だが、私はどんな表情をしていたというのだろう? 彼女は降ろした手を、今度は口元に当てた。そしてしばらくそれで口を塞いでいたが、やがてゆっくりと外すと、かしこまりました、と穏やかな声で返した。
私はしばらく部屋中をうろうろと歩き回り…やがてソファに腰を降ろした。
何を今したらいい? 頭の中に、鋭い声で詰問が響く。何をするべきだ? 何ができる?
駄目だ、とその一つ一つに圧力がかかる。私はそれを前もって気付いていては、いけないのだ。そうでなくては、彼が私と、自分の今まで作り続けてきたものを守ろうとしている行動を無駄なものにしてしまう。
しかしその一方で、その前に、どうしても、一目でも、彼の姿を見たい、会いたいと思っている自分が居るのだ。
後者を押さえつけなくてはならない。私は唇を強く噛む。両手を握りしめる。端末からやってくるだろう、次の報告を、ただ待つばかりなのだ。次の報告が来ないことには、次の手を打てない。これが本当に「知らない」なら、今できることは幾つかある。ここで次の手を幾通りか考えることができる。
だが、次の手は判っている。すべきことも、判っている。私はただ、待つことしかできない。頼む、私に何か考えるべきことをくれ。そうでないと。
「…社長、ビトウィンからの通信が入りました」
ミス・レンゲは私の方を向くと、端末を切り替える。私は飛び跳ねる様に立ち上がると、デスクの上のそれに飛びついた。画面の中のムリャーマ支店長の表情は、明らかに変化していた。それまでの人の良さそうな顔つきが、厳しいものになっている。
「…どうだった?」
『最悪です』
端的な答えだった。そしてそれは予想されていた答えだった。
「どう、最悪だったんだ? 具体的に言ってくれ」
『工事現場のコロニーが、占拠されました』
「占拠…? それは、何処かの敗残兵か何かか? それとも」
『信じられませんことに…』
「信じられませんことに、何だ? はっきり言ってくれ」
『我が社の一員です』
「何だと?」
私は殊更に大きな声を出した。
『共通時15:18に出た星間交通情報が、ファニュ星域ポイントにアンジェラス軍の戦船の通過を知らせた後にそれは起こったそうです。星域より毎時40pの速度で垂直方向3時40分、水平方向9時37分の方向でウェストウェスト星系へ向かっている、という情報が入った後に』
「つまり、アンジェラス軍が、こちらへ向かっている、という情報だったのか?」
はい、とムリャーマはうなづいた。
『その直後、その社員は、何を考えてか、同僚の一人を人質に取り、遠距離仕様の小型艇を要求しています』
「…」
筋書き通りの物事が、実感もなく、私の前を言葉だけで通り過ぎていく。これは本当のことか。本当のことなのか。嘘だと、誰か言ってほしい。
『…如何致しましょう』
「君はまだ、私に肝心なことを言っていないんじゃないか?」
画面の向こうのムリャーマ支店長に、私は問いかけた。
『…と、申しますと』
「それは、一体、誰なんだ?」
『あ、失礼致しました…』
ムリャーマは横を向く。小声で別の端末に確認している様だった。私は判っている答えを、ひたすら待つしかなかった。
『…確認できました。えー… ナガノ… ナガノ・ユヘイ…?』
確認した名前を読み上げた本人が、驚いている。それはそうだろう。今度の遊園地プランにおいて、ナガノの名は社内に響いていた。私はそれを知っていた。知っていた上で、この鋭いのだか凡庸なのか判りにくい支店長に読み上げさせたのだ。
『…社長、これは、どういう…』
「私が知るか!」
わざと大きな声を上げてみせる。どん、と両手で机を叩く。
「何で、彼が、そんなことをするんだ!」
「社長!」
ミス・レンゲはその私の豹変した様子に声を上げる。画面の向こうのムリャーマ支店長はいきなりの私の声に、口を半ば開けたままで、次の言葉を探しているかの様だった。
「ナガノを…」
私は思わず叫んでいた。怒れるリーダー、という役割にふさわしい言葉、を無意識に叫んでから、私はそれが自分のもう一つの無意識から出ていることに気付いた。
だが、それを止めることはできなかった。
「ナガノを呼べ! どんなことをしてもいい! 奴をこの画面の前に連れてこい! 私が直々に問いただしてやる!」
はっと顔を上げると、指示された大きな命令に対しては(そしてそれがどんな命令であろうと!)、即てきぱきと行動をムリャーマ支店長は、私の単純な怒りの言葉を命令に置き換えて、次の行動を始めた。
言ってしまった、と自分で思った。それが本音だ。たとえその画面ごしに、どんな罵倒が自分の唇からあふれようと、向こうがどんな悪党面をして、友人を、ミンホウを、殺気をもあふれさせながら脅しているとしても。
「ムリャーマ支店長、その人質となっているのは誰なんですか?」
私から端末をそっと奪い、ミス・レンゲはもう一つの重要なことを訊ねる。無論彼女もそれが誰であるかの予想はついているだろう。
『あなたは秘書の…』
「ミェナ・レンゲです。もしもその事態が長く続くようだったら、その人のご家族に連絡を取らなくてはなりません。早急にその人質となっている同僚、という人が誰か確認して下さい」
『はい、…えー… そう、サイドリバー。ミンホウ・サイドリバーです… ええっ彼まで!?』
やはり、という言葉が彼女の唇から音も立てずに漏れた。彼女は私の方をゆっくりと向く。私は低い声で、やっとこれだけを吐き出した。
「星間交通情報を。ミス・レンゲ、正確な、アンジェラス軍の現在位置を確かめてくれないか。彼等はこの騒ぎを傍受できる位置だろうか」
「お待ち下さい」
彼女は端末を切り替える。モニターが3Dに変わる。モニターの柵の中にあったそれは、空間に広がるものに切り替わる。ただの会話通信の時には2Dの方が単純で良いのだが、星間交通情報ばかりは、3Dでないとさっぱり位置関係が掴めない。
アクセスした星間交通情報は、刻々と動くその船の位置を、まるで実際にそこで動いているかの様に映し出す。実際には、コンマ何秒に一回切り替わる情報の結果に過ぎないというのに。
「ウェストウェスト星系から発信する電波の傍受可能エリアは次の様になります」
彼女は現在の画像に別の要素を付け加える。空間の一部が赤く染まる。
「現在私達が居るここ、プラムフィールドから遊園地コロニーの直線距離はこれだけです。これを半径とした球を描くとこの様に…」
「なるほど」
私はうなづいた。まだその範囲に入っていない。
「ですから、この範囲に入るには、もう少し時間が必要です」
「ミス・レンゲ…」
「時間を長引かせる必要があるのでしょう?」
彼女はごく当然の様にさらりと言った。ああ、と私も答えた。
「ああそれと、キリュッキを呼んでくれないか」
「ミンホウ君の奥方ですね」
「何かあってしまっては、彼女に申し訳が立たない」
大丈夫だとは思う。ナガノが彼をどうこうする訳がない。ただ、不安なのは、アンジェラスの軍が、ミンホウごとナガノを粛正してしまうことだ。それは阻止したい。どうしても。
「社長、向こうの携帯端末から映像が送られてきます」
私は一つの画面に目をやった。おそらくは誰かの胸ポケットに入れられているのだろう、時々ふらふらと画像は揺れる。携帯端末からだと、情報量が制限されるから2Dにしかならない。奥行きが判りにくい。
だが音声はその場の状況をよく伝えてくれた。
時々入るノイズが不安をかき立てる。ざわめきがそこに混じる。ちら、と浮かび上がったままの3D航路図を確認する。まだだ。まだ、その範囲ではない。
「誰が、この端末を持っているんだ?」
私は呼びかけた。まだ時間が足りない。
『…社長ですか? 自分はイーストベアです。申し訳ありません。こんな不祥事を…』
「それはいい」
端末を持ち、出ているのは、設計担当でナガノの上司をしているイーストベアだった。ある意味、いい人選だ、と私は思った。
「一体何がどうなったんだ。君はナガノの近くに居たのだろう? 私に判る様に説明してくれ」
『はい、彼はどうやら、今日一番に現場に来ていたようでした。ずいぶん早くから来て、あちこちをチェックしていた様です』
「それで」
『ずっと、何ごとも無かったのです。特に今日が特別な場所をチェックする訳でもありませんでした。我々は、昨日の続きで、空扇閣のパビリオンの現場に居たのです。ところが』
「ところが」
『作業員はいつもと言っていい程、その場にラジオを流しています』
…どれだけ情報端末が多種多様化したところで、この音声だけを一方的に延々流し続ける箱が無くなることはない。いや、逆に多様化し、一気に大量の情報ばかりが流れると、それは頭の中に逆に残らなくなる。一つの方法で流すことの方が、より効果的なこともあるのだ。
「それで」
『だいたいその時間に流れているのは、当たり障りのない流行の音楽とか、ニュースとか交通情報です。そしてその交通情報が流れた時、彼の様子が豹変しました』
豹変、か。私はふと苦笑する。イーストベアは声だけを流して、周囲の風景を私に送っているから、私の表情は見えないはずだ。
「どう、豹変したんだ?」
『御存知の通り、交通情報は、地域のものとやや遠隔地のものとを分けてまとめて放送されますが、そのやや遠隔地の情報に入った時でした』
「遠隔地」
『高速船・軍船の通過情報がその中には入ってます。無論公的なものですが』
公的な情報、ということは、それを知って妨害した場合、「事故」とは認められなくなるとという。通る側も、それを広言した以上、その通過によって近隣に被害を加えた場合、加えてしまった側に補償が必要となる。
戦争の終結が近づいているのだ。そんなことがわざわざ行われる様になっているというのは。
「それで」
『ファニュ星域に亜高速艇が通過した、という知らせでした。軍船の所属は、アンジェラス軍第7司令部。進行方面は我々の、このウェストウェスト星域ということでした。…それを聞いた時でした。彼は』
「彼は?」
『信じられないことに、いきなり駆け出し、…その… 建設中の管制室に立てこもったのです』
私は舌打ちをする。あまりにも、その行動はいつものナガノを知っている人間にとっては、無謀で稚拙だ。
「それで?」
『ですから、当初は冗談だと思ったのです。…いくら何でも、そんな』
「全くだ。今君に聞いても、私は冗談としか思えないぞ」
『ですが、端末から送られてくる画像の中の彼は、何処から持ち出したのか、銃を手にしてました。彼は管制塔の何処をどうすれば破壊できるのかよく知っています。たった一つの銃でも、今の製作段階では命取りになります』
「全くだ。君もよく気付いた」
『いえ、最初に気付いたのは、サイドリバーです』
「そ… うだ。イーストベア、サイドリバーが人質に取られていると聞いたが」
なるほど。私はイーストベアの話を聞きながら思った。彼は確かに冷静だ。
『サイドリバーは彼に近づき、何を悪い冗談をやってるんだ、という意味のことを言ったのですが、そこをナガノはどういう具合にか、サイドリバーの腕を後ろ手に拘束し、…あっという間でした』
予想がつく。予想のつかない行動をしでかす友人のことを、ミンホウはよく知っていた。知っていると思っていたのだ。だがミンホウは、自分の友人の正体を知っていただろうか?
おそらくは、知らないだろう。
だが、私には想像ができるのだ。今までに見たことのない要領で、ずいぶんと体格が違うはずの自分の自由をあっさりと奪う友人の姿に唖然としつつ、それでもその耳元で囁く何ごとかにとっさに同意しているミンホウの姿が。
お前何やってるんだよ、と目線を飛ばし、小声でミンホウが問いかけると、少しの間、協力してほしい、とナガノは真剣な目で友人に訴える。実に予想できる。いとも簡単に。何ってうらやましい。
「今、その様子が見られるか?」
私はイーストベアに訊ねた。はい、という返事とともに、ぐい、と視界が移動する。ズームがさほどに利く訳ではないので、そこから見えるのは、窓の中に居る姿だけだ。
窓の中に、ナガノが銃を手に、ミンホウにつきつけながら、じっと外に顔を向けている。
心の片隅で、あそこに居るのが自分だったら、と考えている自分がいる。何って未練だ。いや未練じゃない。これが本音だ。立場が、夢が、無かったら、自分は。
「…もっと近づけろ」
『しかし社長』
「奴には奴なりの要求があるのではないか? こんなことをしでかすなら。だったら聞いてやろう。その後のことは後のことだ。それから取り押さえても遅くはあるまい」
私は言葉を選んだ。筋書きが頭の中に走る。きっと僕はその時、誰か人質を取って逃げ出すのさ。船を一つ乗っ取って。君は騙されていた。皆騙されていた。そういうことになるだろうね…
端末の向こうで微かに、彼に呼びかける声が聞こえる。時間稼ぎじゃないだろうな、とヴォリュームを上げた彼の声が、そのすき間から私の耳に飛び込んでくる。もっとだ。もっとヴォリュームを上げてくれ。
『この端末を、こっちにつないでくれ』
イーストベアは、一台の大型の端末に、自分の胸ポケットにあったものをつながせた。私はその様子を伺いながら、その一方で、航路図に目をやる。もう少し、もう少しだ。そうしたら、ヴォリュームを一気に上げろ。私達の会話を、一つ残らず彼等に聞き取ることができるように。
『ナガノ! 何を君が考えてるか知らないが、社長が君と話し合いたいとおっしゃっている! 会話をする気はないか?』
イーストベアの声が、ややそれまでと違った位置から聞こえた。既に端末の切り替えはできているのだろう。そして私も端末の音声のヴォリュームを上げる。ミス・レンゲがやや不安そうな表情でこちらを向いている。ああそんな顔をしないでくれ。大丈夫だから、私は。
『社長、彼が』
イーストベアが端末の画面に映る。なるべく冷静でいようとするその顔が、視線が、一つの方向を指す。
ズームアップ。窓が急速に、こちらの画面いっぱいに入り込んでくる。
「ナガノ」
平然と、友人の背に銃を突きつけた、彼の姿が私の目の前にあった。
『突然の軽挙、失礼します、社長』
びくん、と自分の肩が震えるのが、自分でも判る。声が記憶の引き出しを一気に開く。
「一体これは何の真似だ!? 理由があるなら言ってみろ。これが、今まで君を雇って、取り立ててきたこの社に対する行動だ、というのか?」
『いいえ社長、決してそんなつもりは無いですよ。ただ今の僕には必要なものがあるのですよ。ほらあの軍が近づいている。僕は逃げなくてはならない』
それは事実だ。だが決して本当の、重要なところは語らない。しかしそれは本当であるから、彼の言葉にも説得力がある。彼はすぐさま、ここから立ち去らなくてはならない。
「何故だ。君はもしかして、アンジェラス軍から逃げているというのか?」
『その通り。だから僕はどうしても船が欲しい。どうしても、そして今すぐだ』
「君はこの社が、自分を見捨てると思っているのか!?」
私が見捨てると思っているのか、と聞こえる者には聞こえるのだろう。私は彼との仲を決して隠してはいなかった。それが友人としてでも、愛人としてでも、いずれにしてもこの言葉は有効だ。
『この社に居る者で、この社が大事でないものが居るんですか? 社長。僕一人で済む犠牲なら、それで済むと思うでしょう。そうでしょう?』
そうだ。そうなのだ。感情とは別の面では、そう言う自分が居る。そして彼自身も。
一番それを、知っているのは、彼自身なのだ。
そしてそれに答えられない私、を知っていて、彼は続けた。
『何も言わないで、船を一隻下さい、社長。僕は僕のこの大切な友人を殺したくはない』
そしてぐっ、と突きつけられた銃口が、ミンホウの筋肉と贅肉が半々の身体にめりこむ。その時に手首をひねられでもしたのか、顔が少しばかり歪むのも見えた。ああっ、と周囲から声が飛ぶ。
周囲は彼が何故こんな手練れなのか、予想だにしない。何故アンジェラスの軍から追われているのかも予想ができない。いや、誰も予想はできないだろう。この男が、生きている年数はおそらくはここに居る誰よりも長く、そしてその人生の大半を戦場で過ごしてきた者だと。
その姿が予想できない程に、彼はこの場に馴染んでいた。建築士の顔をして、未来に残すべき建物を、希望に満ちた顔で作っていたはずだ。
だが、結局それを壊したのは、私なのだ。
この落とし前は、私がつけなくてはならないのだ。私は唇を噛む。その表情が、この周囲に居る者達にどう映るだろうか? ああできるなら、彼を憎んでいる、と映ってほしい。虚空の向こう側、傍受した電波の中で、私達が仲違いをしているのだ、と誤解してほしい。
それをそう受け取られれば受け取られる程、事態は私と彼の思う様に動くのだ。
聞こえるか? 私達の声が。
だが、軍船はその会話を傍受しているのかどうなのか判らない程、何の反応も無い。
私達は画面をはさんで、次の言葉を探しあぐねていた。船を出そうというのは簡単だ。だがタイミングが難しい。だから彼とはもう少し話さなくてはならない。しかしその会話は、決して本当のことを誰にも悟らせてはいけない。話したいことは、どれだけあったとしても。
「…社長!」
ミス・レンゲの声が、画面ごしのナガノの姿を見据えていた私の耳に、鋭く飛び込んだ。何だ、と私は彼女の方を向く。空スクリーンの一つが、空間に持ち上がる。
「交信を求めてきました。アンジェラス軍の軍船『M31』から…」
『突然の無礼失礼する。私は当船M31を預かる船長のシコン大佐である』
アンジェラスの軍だけあって、大佐という地位にも関わらず、ずいぶんと若く見える軍人の映像が、テーブルの上にすっくと立った。
「MA電気軌道の代表のサーティン・リルブッスです。失礼ですが、我が社に何の御用でしょうか」
『いや、今、強い交信電波が入ったので、無礼だとは思ったが、聞かせていただいたのだが、差し支えなければ、この事態の収拾をつけたいのなら、我々にも協力できることはあるのだが』
「いえこれは、我が社の問題です」
『しかし、先日我々の上層部にある人物から、調査の要請があった』
D伯のことだな、と私は思った。私はミス・レンゲに、私の目の前の…ナガノが映っている端末をぽんと叩き、今現在この士官と話している内容を向こう側にも聞こえる様に、と無言で指示した。彼女は黙ってうなづくと、端末のスイッチを切り替えた。
「それは誰のことでしょうか。もしもその人物と、今我々が目前にしている不祥事の当事者とか違ったら、それはそちらにとってずいぶんと時間の無駄というものではないですか?」
『失礼だが、そちらの見解は必要ではない。我々は上部の命令に従って動いている…』
『うぁぁ!!!』
士官の言葉を遮って、ミンホウの声が耳に響いた。
「おい! 何を…」
私はナガノとミンホウの映っている画面にとっさに視線を移した。ぐい、と銃口がミンホウの頬に押し付けられている。
「馬鹿なことはやめろ、ナガノ!」
半ば本気で私は叫んでいた。本気でなくてはならない。彼等はこの事態を聞いているのだから。
『馬鹿なことではない。要求を呑んで下さい社長』
『人質が居るのか?』
士官はそこまでまだ把握していなかったらしい。それまで後ろに組んでいた手を解いてひどく驚いた様な表情になった。
「そうです。うちの優秀なスタッフです。…いたずらに刺激したくは無いです。そちらは軍で、我々は企業であるという違いはあると思いますが、優秀なスタッフを一人失うということは、会社にとってひどい損害であるということは御存知でしょう?」
む、と士官は眉を軽く寄せた。
『それでは、リルブッス社長、今そちらを当惑させている騒ぎの主人公をあなたはどう扱おうというのか』
「ひとまず彼には、要求通り船を渡しましょう」
『人質はどうする』
「人質は、彼の友人でした」
『ナガノ、とあなたは呼んでおられたな。我々が調査の要請を受けていたのは、その人物についてだ。どうだろうこうしては』
私は身体を少しだけ固くする。聞いていてくれ、ナガノ。
『おそらく彼は、その人質をしばらく連れていくつもりではないだろうか。そして途中で放り出すか、帰らせるか…』
「…」
『その時点で、我々に任せていただきたい。その上で、彼が我々の探している者であるかどうかの取り調べを』
「そんなことはどうでもいいーっ!!」
私は思わずぎょっとして、背後からかかる声に振り向いた。キリュッキが、社宅から知らせを受けて慌ててやってきたのだ。そして私を押しのけて、ナガノ達の映っている端末の前に迷わず乗り出し、…こう言った。
「こんの馬鹿! 何やってる!」
私はさすがに唖然として彼女の言動を見ていた。それは傍受していた士官も同様だったらしく、彼もまた、それまでの平然とした顔が無惨な程に崩れていた。
「あんたもあんただナガノ! わたしはあんたを友達と思ってたよ? この馬鹿ミンホウ! あんたのぶとい腕が何でこいつの腕くらい折ることもできないんだ!」
そしてばん、と彼女は端末の画面を殴りつけた。さすがに私もミス・レンゲもその勢いには開いた口が塞がらなかった。だがこの反応が正しいのだ。彼女の亭主は冗談ではない危機の中に居るのだから。友達と思っていた者のした行動であるだけに、それは重い。
『リルブッス社長、この女性は…』
「人質になっている、ミンホウ・サイドリバーの夫人です。…判って下さい、我々としても、彼女をこれ以上悲しませる訳にはいかない」
「悲しい? わたしは怒ってるんだ!」
ばっ、とキリュッキは悠長な会話をしている私達を強くにらみつけた。
「何の相談してるか知らないが、もしもあのひとに何かあったら、わたしはあんた達を絶対許さないよ! 祖先の名にかけて、百代先まで祟ってやる! ああそうしてやる、いくらでも!」
ミス・レンゲは彼女の背後から近づいて、彼女を強く抱きしめた。大丈夫か、と思ったが、さすがにミス・レンゲはそのあたりを心得ていた。離して、と言いながら、もがきながらも、それでもだんだんキリュッキはその母親ほどの女性の腕の中で、静かになって行く。そして、その動きが止まったかと思うと、うっ、と喉の奥を震わせて、目から滴をぽたぽと落とした。
「…しゃちょお… 何だってえ…」
喉から引きつった声が吐き出される。そんな彼女を、まだ背後から抱き留めながら、ミス・レンゲは片方の手でぽんぽんとキリュッキの肩を優しく叩く。
「ナガノ、船はやる。だがすぐにでも、ミンホウは解放してほしい。キリュッキがここに居る。君には聞こえないのか? 彼女の声が」
『聞こえる。僕だって無闇に友達を傷つけたくはないんだ。だが安全ではないのは事実でしょう? 彼は途中まで連れていく。そして必ず解放する。無傷のままに』
「必ず、だな」
『必ず』
「君は約束を守る男だったな?」
私はナガノに問いかけた。彼の表情が、一瞬揺れたのを私は見逃さなかった。記憶が浮かび上がる。こんな茶番の約束ではなく、私達の、別の。
きっといつか、必ず、僕は、戻ってくる。
僕は生き残る。何があっても、どんなことがあっても、ここに帰ってくる。君の、この場所へ、必ず帰る。
ミス・レンゲの心配も、キリュッキの涙も、会社も、目の前に浮かび上がるアンジェラスの軍人も、その時私の中には存在しなかったに違いない。
そしてナガノはそれをどう取っただろう。それ以上の言葉を口にしない私をじっと、その薄青の目で見据えて、そしてうなづいた。
『ええ必ず』
変わらない、表情。そうだそれでいい。下手にあの極上の笑みなど見てみろ。私は今ここで何を叫び出すか判らない。
そして私は近くに居るだろうそのままイーストベアを呼び出すと、船の用意を命じた。
「…ちゃんと脱出船を一隻入れるんだ。サイドリバーを送り出させなくてはならない」
『判りました。しかし社長…』
言いかけて、イーストベアは言葉を止めた。
『では早急に』
頼む、と言って私は画面から目を離した。決して回線を切る訳ではないが、今そのまま見ていられる心境ではなかった。
だがかと言って、ミス・レンゲに寄り添われたまま、なかなか止まらない涙を流しながら、鼻をすすりながら、ソファに座っているキリュッキの様にしている訳にもいかない。私は一度デスクの上を見据えると、唇を噛んだ。これで、終わりなのだ。信じたい。信じていたい。だがそれが希望の薄い望みであることは知っている。相手はこの。
「シコン大佐、我々は彼に船を用意した。…向こうが脱出船を切り離した後は、好きにすればいい。我々はそれ以上の手出しはしない」
『判った。それでは今しばらく、動向を見定めさせてもらう』
そしてデスクの上から、アンジェラス軍の士官の姿は消えた。
「ミス・レンゲ」
「はい」
有能な秘書は、即座に返事をする。
「キリュッキを君の部屋の方へ連れて行ってくれないか。ここよりは、君の部屋の方が落ち着けるだろう」
「しかし社長…」
「頼むよ」
はい、とそれでも何か言いたげにミス・レンゲはうなづくと、キリュッキを立たせて、自室へと促した。私は彼女達の去ったのちのソファに腰を降ろす。頭の芯が奇妙にぼうっとしている。何を今までしていたのだろう? そして今から、何をすればいいのだろう?
しなくてはならないことはあるはずだ。そう、ミンホウが解放されるまでは、私はその経過を問い続けなくてはならない。予定が曖昧になっていてよかった。
画面の向こうでは、がたがたと音が聞こえている。見なくてはいけない。指示を出さなくてはならない。
私はゆっくりと、立ち上がった。
*
そしてその翌日、ミンホウを解放した船が、軍船によって撃墜された、という連絡が私の元に入った。