放課後にいつもの公園へ行くと、ブランコがなくなっていた。
「実は、撤去されちゃったもんでな」
通称〝逆上がりおじさん〟に声をかけられた。
──知らない人に声をかけられても、一言も話しちゃダメよ。
お母さんにいつもそう教えられているから、ぼくはおじさんのことを無視した。おじさんはこの公園じゃずいぶんと有名だから、もはや知ってる人といってもいい気もするけれど。
おじさんは緑色のスカジャンを着て、いつも同じベンチに腰かけている。寝そべっているときもあるっけ。どうして〝逆上がりおじさん〟と呼ばれているのかというと、逆上がりを教えてあげるというのを口実に、子どもたちにしつこく話しかけてくるからだ。そもそも、この小さな公園に鉄棒なんてないのに。
「昨日の夕方、小学生たちがみんな帰ったあとの出来事さ」
何を話されても、ぼくは無視をつづける。
「男子中学生のグループがやってきて、ブランコで立ち漕ぎの状態から飛び降りる遊びを始めてな。そしたらグループで一番のお調子者とみた子が、着地したと同時にバランスを崩して、柵におでこをぶつけたんだ。結局、運ばれた先の病院でおでこを五針縫うことになったらしい」
おでこを柵にぶつけるよりも、ゴハリヌウほうがよっぽど痛そうだと思った。
ぼくはおじさんを無視しつづける。
「そんな事故があってすぐ、役所の作業員が公園に駆けつけた。慣れた手つきでブランコを解体して、あっという間に撤去してしまったんだ。最近じゃ、事故があった遊具というのは危険とみなされて、すぐに跡形もなく撤去するきまりなんだとか」
ぼくはあたりを見渡した。ブランコがなくなってしまった今、この公園にはおじさんが座るためのベンチと、半分が地面に埋まったタイヤの遊具しかなかった。どうりで、今日は他の子たちが遊んでいないわけだ。
ぼくもみんなと同じように、今日は家に帰って一人で遊ぶことにした。しかし、おじさんは帰ろうとするぼくのことを慌てて引き止めた。
「ちょっと待った。撤去された今も、ブランコはそこにいるのさ。長いこと同じ場所にいた遊具ってのは、撤去されてからも地縛霊──いわば、そこに棲みつくおばけの遊具となって残りつづけるからな」
おばけの遊具? おじさん、また変なこと言ってる。
「信じてないな? 元々ブランコがいたところへ行ってみれば分かることさ」
おじさんは「ほら、遊んでこい」とぼくを促した。
動き出さないぼくに向かって、おじさんはニヤリと笑ってつづける。
「まさか、おばけと言われて怖がってるのか? それともあれか。今日こそは、俺に逆上がりを教わりたいってか?」
ぼくはおじさんのことを睨みつけると、元々ブランコがあったあたりへと渋々駆けていった。怖くなんかなかった。それよりも、おじさんの発言がどうせデタラメであることを、たしかめてやろうという気だった。
ところがだった。駆けていく途中で、きぃこきぃことブランコの揺れる音が本当に聞こえてきた。ぼくは思わず足を止め、忍び足で近づいていった。お腹に透明な冷たい棒が当たる。柵だ。
まさかと思いながらも、ぼくはその柵を乗り越えて中に入った。
そのときだった。
「うわあ!」
突然、後ろから透明な何かにお尻を持ち上げられたと思えば、ぼくはそれに身を預けて宙を前後に揺れていた。まさにおばけのブランコ! その揺れは足を漕がなくても勢いを増していった。次第に自分もおばけとして宙に浮いている気になってきて、自然と笑みがこぼれた。
そんな中、ぼくの頭の中をある考えがよぎっていった。
ひょっとして、ブランコ以外にもおばけの遊具があったりして──。
その予想は見事に的中した。靴の裏で地面を擦って止めたブランコを降り、おそるおそるあたりを探索していると、やがて透明なものに手が触れていった。
すべり台に、ジャングルジム。ぼくは宙をすべって、宙をよじ登った。
「さて、次はどんなおばけの遊具があるかな」
あたりを見渡していると、ベンチに座って微笑むおじさんと目が合った。
その瞬間、おじさんがいつも逆上がりを教えようとしてくることにも少し納得した。きっとこの公園のどこかに、おばけの鉄棒もあるんだ。おじさんは、いつもまったくのデタラメを言っていたわけではなかったんだ。
話しかけられたら無視しなくちゃだけど、こっちから話しかけるならいいはずだ。
ぼくは、おじさんのもとへ駆けていきながら言った。
「おじさん、逆上がり教えて!」
いつもは話しかけられることなんて絶対にないからか、おじさんはしばらくきょとんとした表情をして固まっていた。沈黙がつづき、おじさんはようやく「よし!」と勢いよく立ち上がる。
「ちょっとついてこい」
おじさんはベンチから少し離れたところに移動し、両手で宙を掴んだ。隣にいたぼくもそれを真似して、おじさんの両手と同じ高さの宙を掴んだ。冷たい鉄の感触がする。やっぱりあったんだ。
「逆上がりのコツといえば、第一に足を思いきり蹴り上げることだ」
「うん」
「まずはやってみろ」
ぼくは目の前にある透明な鉄棒を見つめながら、ごくりと唾を飲みこんだ。しかし、なかなか足が前に出ていかない。
いつまでも挑戦できずにいるぼくに向かって、とうとうおじさんが口を開く。
「どうした?」
「やっぱり、まずはおじさんがお手本を見せてよ」
ぼくがそう提案すると、おじさんは少し慌てた様子で首を横に振った。
「俺は別にいいよ」
「だって、おじさんはできるんでしょ? いつも教えてやるって言うくらいだから」
「……まあな。そんじゃ見せてやるけどよ」
おじさんは鉄棒のほうへと身体を向け直し、ふぅと小さく息を吐いた。そして、その場で大きく右足を蹴り上げた。が、次の瞬間、おじさんは宙から両手が離れて背中から地面へと落ちていた。
──どしん。
「痛たたた……」
おじさんは腰のあたりを手でさすりながら、いつまでも起き上がれずにいた。もしかすると、病院で腰をゴハリヌウことになるのかもしれない。
「おじさん、やっぱり逆上がりできないんじゃん」
「違うんだ。今のは、なぜか握っていた鉄棒がふっと消えたんだよ。本当さ。ひょっとすると、おばけによるポルターガイストの類いかもしれないな」
おじさんは、すぐに駆けつけた役所の作業員たちにも必死に言い訳をしていた。
作業員たちはそれにはまるで耳を貸さない様子で、せーのと声を掛け合いながら、おじさんの両手両足を持ち上げた。慣れた手つきってこのことか。おじさんはあっという間に撤去されてしまった。
それからというもの、公園に〝逆上がりおじさん〟はいなくなった。というより、これまたおばけになったといったほうが正しいのかもしれない。おじさんといえば、長いこと同じベンチにいる存在だったから。
あのベンチの前を通りかかると、きまってこんな声が聞こえてくる。
──逆上がり教えてやろうか?
知ってるおじさんのおばけに声をかけられたときは、どうしたらいいんだろう。
とりあえずは無視しておいて、今度、お母さんにちゃんと聞いておこう。