「宗心さん、予約していた鈴木と申します。依頼を受けていただけるでしょうか」
土曜日の朝、静かなビルの一室に、男の声が届く。ビルの玄関口には、中年の男が居た。スーツを着こなした姿で、堂々と立っている。
玄関が開き、20歳くらいの女が出迎える。背筋を伸ばしたスーツ姿で、まずは鈴木に一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。私は、宗心探偵事務所で助手を務めております、
「こちらこそ。私は、
「そうですね。では、案内いたします」
あかりは拓郎を先導して、事務所の中へと向かう。その奥にある白い部屋には、穏やかな笑みを浮かべた女が居た。ワンピースを着ており、ふわふわとした印象を持っている。そして、あかりの方を見て頷く。
「依頼人さんですねっ。私は、
「探偵さんは、評判通りの方でいらっしゃいますね」
穏やかな顔で告げる拓郎に、ときこは笑顔のまま無言で返す。それを見て、あかりはときこの肩を叩いた。ときこは空気が読めていない。よくこれで探偵が務まるものだと、あかりは何度考えたか分からない。
それでも、ときこはいくつもの謎を解いていた。おそらくは、今回も同じだろう。あかりは気楽に考えながら、ときこのフォローをする。
「ときこさん、褒められてるんですよ」
「そうなんですか? 嬉しいですっ」
にっこりと微笑みながら、ときこは少し遅れて返事をする。それを気にした様子もなく、拓郎は会話を続けた。
「ええ、職場の新人が、よく噂をしていましたから」
「どんな噂なのか、気になりますねっ」
「では、拓郎さん。私達が、依頼をうかがわせていただきますね」
ときこに対する返事を待たず、あかりはメモを構えて本題に入る。ときこに会話を任せていると、いつになるのか分からなかったからだ。噂の内容の細かい部分まで質問する姿が、あかりには容易に想像できていた。
席についた拓郎を見て、あかりは遅れて席についてメモを構える。ときこは、笑顔のまま座っていた。
そして、拓郎は神妙な様子で話し出す。
「若い女性ふたりの前で言うのは、気が引けますが。とはいえ、これを伝えないことには始まりません」
察するに、男女関係のトラブルではあるのだろう。宗心探偵事務所は恋愛専門だと、ハッキリと表に出しているからだ。それで若い女性に言うことをためらう。あかりには、内容が手に取るように分かった。おそらくは、性の悩みなのだろう。
ならば、きっとデリケートな問題になる。慎重な対応が必要になるだろう。あかりは、これから難しい局面が待っていると覚悟した。
ただ、その問題を解決するのが、宗心探偵事務所の役割だ。だから、あかりはまず話を聞くと決めていた。
「正確な情報の方が、大事ですよっ」
「そうですね。まずは、拓郎さんの現状を伝えてください。遠慮なさらずとも構いません」
ときこは笑顔のまま返す。あかりは穏やかさを意識してときこに合わせた。拓郎は少し目をさまよわせ、軽く息を吐く。そして、ゆっくりと話し始めた。
「実は、妻とセックスレスでして。その原因を、調べたいという話になります」
その言葉を聞いて、あかりの頭には愛が冷めただけだという仮説が浮かんだ。素直に考えれば、夫婦関係としてはありがちだろう。そう推測していた。
とはいえ、直接伝えることには抵抗がある。どんな言葉を返したものか、頭を悩ませながらも、場を持たせるために言葉を発していく。
「それは、その……。大変ですね……」
「分かっていますとも。妻が私を見放したと考えているのでしょう? ただ、それだと辻褄が合わない部分があるのです」
「気になりますねっ。どこが矛盾しているんですかっ」
ときこはためらった様子もなく、拓郎の言葉に返していく。あかりは頭を抱えたくなったが、話を円滑にするために会話を続けた。
「もう、ときこさん。もう少し配慮というものを……」
「お気になさらず。矛盾点ですが、妻は手の込んだ料理を毎食作ってくれますし、出かけた時には腕を組むこともあります。心が離れたにしては、おかしいと思いませんか?」
問いかける拓郎の様子は、あかりには自分に言い聞かせているようにも見えた。おそらくは、妻の心が離れた可能性を想像したくないのだろう。それは、妻を愛しているから。出会ったばかりのあかりにも分かることだった。
ときこは変わらない笑顔のまま、拓郎の言葉に反応する。
「単にセックスそのものに飽きたって可能性も、ありますよっ」
拓郎はぎょっとした顔をしていたし、あかりも思わずときこの方を向いた。とはいえ、ときこの言葉も、完全に否定できるものではない。突拍子のない可能性ではあるものの、頭の片隅においておく程度はするべき仮説だ。あかりはそう判断した。
ただ、拓郎が同じ考えで納得できるとは思えない。どう話が進むにしても、しっかりと配慮するべきだろう。そう考えて、あかりはまず頭を下げる。
「ときこさん、もう! すみません、拓郎さん。デリケートな話に……」
「いえ、探偵らしいと思います。ときこさんの言う通りだとすると、妻は私を嫌った訳ではないのでしょう」
「あくまで、可能性ですけどねっ。調べてみないことには、何も分かりませんっ」
「そうですね。私達の手で、真実にたどり着いてみせます。ですから、もう少し話を聞かせてください」
あかりがまっすぐに拓郎の目を見ると、拓郎は頷いた。何気ない日常会話の中にも、案外手がかりは隠れているものだ。だからこそ、少しでも口を軽くするのが、助手としての手腕というもの。あかりはそう考えていた。
といっても、謎を解くのはときこなのだが。ただ、ときこひとりでは、宗心探偵事務所は成り立たないだろう。あかりには、確かな自負があった。
拓郎は、斜め上をしばらく見た後に、ときこ達の方を向いた。そして、確かめるように話していく。
「妻には確かに支えてもらっているのです。私が落ち着いて仕事ができるのも、妻のおかげなのです。ですから、悩みがあるのなら、解決したい」
あかりは拓郎の言葉に感心していた。本心はどうであれ、セックスレスという問題を抱えていながら、妻を気遣う言葉を出せる。それだけでも、拓郎の人柄が見えてくるというものだ。
だからこそ、できることならば円満な解決をしてほしいものだ。あかりは胸に手を当てながら祈っていた。
ときこは拓郎の言葉に笑顔で頷いた後、胸の前で両手を合わせて返事をする。
「それを聞くと、返報性の原理を思い出しますねっ」
「返報性の原理とは、いったい……?」
「簡単に言えば、恩返ししたくなる心理効果のことですよっ。拓郎さんは、恩返しとして悩みを解決したいんですよねっ」
「どうでしょう。恩を感じているのは事実ですが。夫婦関係が改善してほしいのが、本音なのかもしれません」
拓郎は、悩ましげに返答していた。あかりから見て、拓郎は妻を愛している。それは感じられた。だからこそ、自分の愛が伝わっているか不安な部分はあるのだろう。愛を確かめ合う行為が、おこなわれていないのだから。
きっと、妻にも事情があるはずだ。拓郎は信じているのだろう。あるいは、信じたいのかもしれない。どんな答えが待っているのかは分からない。それでも、謎を解くことが拓郎の未来に繋がるはずだ。あかりはそう信じていた。
「恩を売れば好きになるのなら、とりあえず恩の売り得ですねっ」
ときこはニコニコしながら、若干脈絡のない話をする。あかりは慣れたものだったが、拓郎は苦笑いをしていた。呆れるのも当然だろうと考えながら、あかりはときこに返事をする。ひとまず、拓郎にときこの性質を理解してもらおうという判断だった。
おそらくは、これからも配慮の足りていない言動もあるだろう。それを理解した上で、それでも依頼をすると決めてもらいたい。それがあかりの狙いだった。
「打算を見透かされたら、大変なことになりますよ……」
「確かにっ。なら、本心から助けたいと思う必要がありますねっ」
「これまであなたに助けられてきたのは、本心だと信じますよ」
あかりは、何度もときこに手助けされてきた。簡単なものでは物を無くした時に見つけてもらったり、難しいものではストーカーの正体を明かしてもらったり。だからこそ、どこかズレたときこを助手として支えているのだろう。
とはいえ、ときこの魅力と思うには難しい部分もあるのは事実。拓郎にときこを受け入れてもらうためにも、自分がフォローしなくてはならない。そう考えて、あかりは気合いを入れていた。
「興味のない人には、手助けなんて面倒なことはできませんよっ」
「ときこさんは誰から告白されても、いい返事をしませんでしたね。興味がなかったからですか?」
「あかりちゃんだって、全部断ってたじゃないですか」
「ときこさんとは、別の理由だと思いますけどね」
おそらくは、ときこには理解できない理由だろう。そして、理解する必要もない。あかりは自分の感情にフタをして、拓郎の話に戻すことにした。拓郎と目を合わせると、拓郎は頷いて話に入る。
「私は、妻から告白されたのですよ。その感情が今でも消えていないと、信じたいのでしょうね」
「その答えは、必ずしも良いものであるとは限りません。先に聞いておきますね。覚悟はありますか?」
問いかけるあかりにとって、通すべき筋だった。あかり自身としては、ふたりが円満な解決をすることを望んでいる。それでも、残酷な現実が待ち受けている可能性がある。謎を解き明かすということは、そういうことだ。
だからこそ、まっすぐに頷く拓郎を見て、あかりは胸をなで下ろしていた。そしてときこは、笑顔で拓郎を見ながら宣言する。
「この謎に隠された想い、解き明かしてみせますっ!」