「すみません、
裏路地に一歩入ったあたりのビルに、男の低い声が響く。玄関口には、ワイシャツを着た中年くらいの男が居た。
彼の声を受けて、ドアが開く。そこから、スーツを着こなした若い女が現れる。そして、頭を下げて挨拶した。
「宗心探偵事務所で助手を務めております、
「そうですね。私は、
「まずは、お話をうかがってからですね。探偵のもとに案内いたしますね」
そう言って、あかりは事務所の中に直人を案内する。その一室に、明るい笑顔を浮かべたワンピースの女が居た。彼女は、入ってきた二人を見て手を振る。
「ときこさん、依頼人です。ご挨拶してください」
「分かりましたっ。私は、探偵の宗心ときこですっ。よろしくおねがいしますねっ」
ぺこりと頭を下げるときこを見て、直人は軽く笑う。ときこはその姿を見てもニコニコしていた。
「ときこさんは、人の気持ちが分かりそうだ。あかりさんも、とてもしっかりしていらっしゃる」
「私達で、必ず依頼を達成してみせます」
「やってみなくちゃ、分からないですけどねっ」
「ときこさんは、話がずれていることもあります。だからこそ、他の人には見えないものも見えるんですよ」
「なら、変わった行動の理由も分かるかもしれませんね」
直人の言葉を聞いて、あかりは依頼の内容を推測していた。おそらくは、不思議なことをしている人が居るのだろう。そして、それは直人の知り合いなのだろう。そこまで考えていた。
ときこはにこやかなまま、弾んだ口調で会話を続ける。
「さて、どんな依頼なんでしょうっ。早速、聞かせてくださいっ」
「では、こちらのジュースを飲んでいただけますか? それが、今回の謎の鍵となるでしょうから」
そう言って、直人はカバーで包まれたペットボトルを取り出す。カバーは膨らんでおり、あかりには保冷剤が入っているように思えた。
ときこは即座に受け取って、ジュースを開封して飲んでいく。そして、すぐに顔をしかめた。
「なんですかこれっ。腐ってるんじゃないですかっ」
「いえ、それが正常なんです。ハッキリ言って、まずいでしょう?」
その言葉を聞いて、あかりはときこのジュースを受け取り、口にする。即座に強い苦味と酸味を感じ、ペットボトルから口を離す。そして、ゆっくりと口に入った分を飲み込んでいった。
「これは、ひどいですね……。というか、飲み込んだ後も口の中に匂いが残る気がします」
「ずっと忘れないですねっ。プルースト効果みたいに、何度も思い出しそうですっ」
「なんですか、プルースト効果とは?」
直人は首を傾げながらときこに問いかける。ときこは変わらない笑顔で質問に答えた。
「匂いを嗅いだら、関係のある記憶を思い出すことですねっ。そうだ。好きな人にさっきのジュースの匂いをつけたら、嫌いになっちゃうんでしょうかっ」
ときこは無邪気な笑顔であかりに聞く。そんな姿に苦笑しながら、あかりは会話を続けた。
「少なくとも、一時的なものなら大丈夫ですよ」
「なるほど。助手ちゃんはいい匂いって感じたことって、ありますかっ」
「ときこさんは、イチゴみたいな香りがしますね」
「そうなんですか? いい匂いだと、嬉しいですっ」
自分の肩のあたりを嗅ぎながら、ときこは笑う。あかりは慣れたものだったが、直人は目を点にしていた。おそらくは、ときこの変わった言動に驚いているのだろう。
まずは、人となりを知ってもらってからの方が話を進めやすいだろう。そう考え、あかりはにこやかに会話を続けていく。
「ときこさんは好き嫌いが激しかったですよね」
「あかりちゃんに食べてもらってたんですよねっ」
「私が嫌いと知って食べさせてきた時は、ちょっと恨みましたけど」
あかりはじっとときこをにらみ、ときこは笑顔で目をそらす。それを見て、直人は抑えきれなかったかのような笑い声を漏らした。
「ははは、お二方は、いい関係のようですね。探偵らしくはないかもしれませんが」
「ときこさんのことなら、変わっていると言ってくれていいですよ」
「もう、ひどいですよっ。この事務所の主は、私なんですからねっ。謎解きは、私がやっているんですからっ」
ときこは頬を膨らませながら、あかりに不満をぶつける。あかりは、ちょうどいい流れだと判断して、直人に話の続きをうながすことに決めた。
「さて、依頼の続きを聞かせていただきましょう。このジュースが、どう関わっているんですか?」
「うちで経営しているコンビニには、バイトが居るんです。その子が、毎回入荷してほしいと頼んでくるんです」
「なるほどっ。こんなにまずいのに、不思議ですねっ」
「ええ。その子以外にも、怖いもの見たさの学生が買っていくので、経営では問題ないのですが。気になるもので」
その言葉を聞いて、あかりは依頼を受けるべきか悩んだ。単なる好奇心であるならば、人の調査など好ましいと思えなかったからだ。あかりが助手をしているのは、謎解きを通して依頼人の周囲を幸福にしたいから。
だからこそ、野次馬根性だけでの依頼なら、受けたくないのがあかりの本音だった。それを確認するためにも、直人に話を聞いていく。
「どうして、その謎を解きたいと思ったのでしょうか。何か問題でもありましたか?」
「好奇心というのも、否定はできません。ただ、その子は女子大生なのですが、ジュースを頼み始めたあたりで、キレイな金髪を黒に戻したんです。同時に、元気がなくなったようにも見えて……」
目を伏せながら、直人は語る。おそらく、心配なのが本心なのだろう。確かに、髪の色を変えて元気がなくなるとなると、大きな心境の変化があると考えるのが自然だ。
それなら、依頼を受けても良いかもしれない。その女子大生が、元気になるきっかけを作れるかもしれない。あかりはそう考えた。
ただ、ときこは特に気にした様子もなく、笑顔のまま直人の言葉に反応した。
「髪の色を変えたら感情が変わるのなら、青に変えたら、気分が沈んだりするのでしょうかっ」
「違います。大きく感情が変わったから、色を変えたんですよ」
「髪を染めるだけで元気になれるのなら、それは素晴らしいのか、恐ろしいのか。ただ、きっと美宇さんの、あの子の心は変わっていないのでしょうね」
遠くを見ながら語る直人の言葉から察するに、美宇という子はずっと暗いままなのだろう。あるいは、直人がそう思い込んでいるか。どちらにせよ、ここは自分たちの出番だろう。それがあかりの素直な感情だった。
「なら、直接聞けば良くないですかっ」
「ダメですよ。心の傷があるかもしれないんですから、慎重に進めましょう。それが、結局は近道なんです」
「そうですね。できれば、傷つけない形で終わらせていただきたいです」
直人の心配も当然のことだ。そう考え、あかりはときこの肩をつつく。そして、ときこは相変わらずの笑顔で返す。
「分かりましたっ。なら、別の形にしますねっ。遠回りも、それはそれで面白そうですっ」
「お願いしますね、ときこさん。あなたなら、きっと答えにたどり着けます」
ときこに視線を向けると、笑顔のまま頷いた。そしてまっすぐに直人を見つめ、堂々と宣言する。
「その謎に込められた想い、解き明かしてみせますっ!」