嘘だろ。気のせいだと言ってくれ。電光石火のように蘇る記憶。映し出されるのは先の一本。
刀哉の間合いと速度を上回るために超足で踏み込んだ負荷が、今になって限界を迎えたのだ。
痛みによって、僕の脳裏に一つの光景が浮かび上がる。
全ての始まり……あの日の、あの事故を。
左足の鈍痛。猛攻する好敵手。防戦一方。追い詰められる。止めを刺されかける。自棄になり咄嗟に前へと突撃した。体が衝撃と共に宙に浮く。天地が逆さまになる浮遊感。何か硬い枝を折ったかのような衝撃と音。流れる血。つんざく悲鳴。歪む視界。苦痛に悶える親友。喉をせり上がって来る嘔吐感。絶望。絶望。絶望絶望絶望──
脳裏を鑢で削られるような感覚。トラウマの──再発。
「うっ……」
目の前の親友に目がいく。視線が吸い寄せられる。
だめだ。見るな。見てはいけない。それを見てしまったら終わる。
親友の姿を視界に入れた瞬間……現実が上書きされた。
折れて流血する左腕をぶら下げて、一人の剣士が立っている。
「……ッ!」
トラウマの権化と再び相対し──悲鳴を上げる、もしくは気絶しなかったのは何故か僕自身も理解できていない。ただの偶然でしかなかった。
僕の体は自分の思考と裏腹に、染みついた動きを取ってしまう。
構える。中段に。どうしても避けられない戦いが、再び始まろうとしている。
剣を相手に向けて構えることができたのは正直予想外だったが、それよりも体に異常をきたしている。腕が震える。足に力が入らなない。腰が抜けそうになる。
それでも、刀哉は襲い掛かって来る。
「おぉおおおおおおッッ!」
刀哉の面打ちが鋭い踏み込みと共に飛んでくる。咄嗟に体を後ろに反らす。辛うじて面金に当たる程度で済んだ。
刀哉の剣は切れ味が増す一方だ。自分に譲れない信念がある以上、刀哉はどこまでも強くなる。霧崎 刀哉とはそういう存在だ。
窮地に立てば立つほど、剣の鋭さを増していく。
かつての試合の再現だった。あの時も、全く同じように左足の怪我で動きを鈍らせ、時間が経つにつれて鋭さと勢いを増していく刀哉に手が打てなくなった。そうしてあの悲劇が引き起こされた。
まともに太刀を受けられない。力の抜けた防御しかできない。刀哉の太刀に甘いものは一つもない。一瞬でも気を抜けばたちまち有効部位を斬り落とされ、自分の覚悟も総てが無駄に終わってしまう。そうなれば本当におしまいだ。沙耶の剣としての存在ですらなくなる。
「どうしたよ、動きが鈍いぞ、剣司ッ!」
剣で捌くことができない。前進して踏み込もうにも、足に力が入らない以上、すり足も利かない。最大の武器である速度も全く活かせない。刀哉を倒す最大の武器が失われては、体格と膂力で劣る僕に勝ち目は皆無だ。
どれだけ動けと願っても、体が痺れたように力が入らない。視界には、血を撒き散らしながら折れた腕で剣を振り回す剣士が映っている。その剣士は叫ぶ。親友の姿で叫ぶ。僕を縛る呪詛を吐き続ける。
──おまえのせいだ。よくもおまえが。恨む。憎む。呪ってやる。おまえの命が尽きるその瞬間まで、おまえという存在を赦しはしない──。
「うる、せぇよッ」
僕は限界──その際の際で耐え続ける。負けてなるものか。こんなところで、自分自身の負の心に負けてたまるか。歯を食い縛る。血達磨の剣士を真正面から睨む。
「おまえは、もう、振り切っただろッ……」
過去の残像が、今更僕の魂を犯しにくるな。涙が零れそうな目で反抗するも、その剣士の後ろから飛来する刀哉の剣が、捻った頭のこめかみに当たる。鼓膜が破裂しそうな衝撃に、思考が掻き乱された。
強烈な体当たりが炸裂する。力の籠っていない足腰では踏ん張ることもできず、試合線の隅──正方形の角に追い詰められる。
気づけば体中の至るところが刀哉の打突によって腫れ上がり、その痛みがさらに僕の思考を掻き乱していく。目が痺れる。脳が焼き切れそうだ。視界に砂嵐が巻き起こり、鼓膜の内側から耳障りな雑音が鳴り響いている。歪んでいく視界。蝕むトラウマ──満身創痍。
その霞んでいく視界の中で、僕は血達磨の剣士を見据える。
「邪魔、するな……」
眼窩に限界まで力を入れる。歯を砕く勢いで軋ませる。
消えかけた魂の熱が、再び沸騰するように湧き立ってくる。
──何故おまえがいる? どうして今頃になって苦しめる?
「ふざけんな、ふざけんなよ畜生がッ……」
紅く塗れた視界の中、僕はたった一人の愛する少女を思い返す。絶望を抱え、孤独を嘆き、それでも僕の背中を押し続けた彼女。陽だまりの幸せを得ることは終ぞ叶わず、命の刻限を告げられた絶望は計り知れない。だけど、それでも──沙耶は理解者を求めて抗い続けた。
独りが駄目なら二人で。二人でも足りないなら三人で。
彼女は、蹲り続けていた自分に手を差し伸べてくれたのだ。
その想いを、彼女の愛を、踏み躙るというのか。
「違うッ……」
刀哉が迫る。上段に構え、僕に止めを刺さんと最高の一撃を繰り出す。
その光景に過日の悲劇が重なる。動きが重なる。全てが重なる。あの事故の直前の光景と。
思い出される。その瞬間を目に焼き付けながら、忌々しい過去が脳裏を過る。そうだ。僕は、ここで目を瞑ってしまったんだ。全てを投げ出して、自棄になって体を投げ出したのだ。
再び、繰り返すつもりか。あのような、悲劇を。
自分の弱さに負けて、親友を傷つけたあの瞬間を。
思い出せ。なぜ沙耶が、こんな情けない自分を叱咤し、激励してくれたのか。
思い出せ。なぜ沙耶が、自分が前を向けるよう、命懸けで救ってくれたのか。
「どけよ、邪魔なんだよ……ッ」
魂に稲妻が走る。黄金の花弁に彩られ、極限まで昇華していく。
耳に聴こえる。感じる。刀哉の鼓動が──剣の鼓動が。
過去は超えた、沙耶と共に超えた。彼女が背を押してくれたから。
だからもう、怖いものなんてない。超越しろ。どこまでも
「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
一瞬後に終わりを告げる、刀哉の太刀が振り下ろされる。
飛び込む。震えは止まった。力が籠る。足が限界を超えた。故にその太刀は、何物よりも強い軌跡を描き出すと信じている。一度完敗した相面──そこへ勝負を挑む。
刀哉は一瞬、僕の選択に驚いた表情を見せるが……すぐに強気な笑みを浮かべた。
「そうだ。それでこそ、沙耶の剣だッ!」
剣と光。交わるはずのない魂が衝突する。
太刀は互いに至高を誇って揺るがない。上から押し潰しにかかる刀哉の軌道。その重圧に負けないよう、手首に最大の力を込めて振る。全く譲らない。互いの剣が中心で炸裂し、力を爆散させたとしても、決着はつかなかった。面の皮一枚──互いの剣は空を切る。
残心は入れ替わるように。刀哉が今度は試合場の隅を背負う形になる。しかし、刀哉に最初から後退の選択肢はない。どこであろうと前へ突き進むのみ。
僕たちの魂の鼓動は停止の影を見せることはない。間髪入れずに足を捌く。体の限界を超え、痛みを無視して突き進む。同じように刀哉も、力を振り絞りながら前進する。
間合いが詰まる。距離が迫る。この戦いの結末が近づく──。
「この想いを失いたくなかったんだ」
愛おしいと。愛していると。何千何万と伝えてもきっと足りはしない。
そんな言葉ではとても言い表せられないくらいに、僕は沙耶のことが好きで堪らないから。
だから永遠にしたかった。失いたくなんてなかった。
だから沙耶の魂を抱き締めたかった。僕は彼女の剣なのだ。当然のことだろう。
「沙耶といっしょに、もっと団子を食べたかった」
願いはたったそれだけ。何も難しいことではない。
これまでの人生、沙耶は幸福というものを味わったことが、あるのだろうか。
不幸に苛まれ、辛い目に遭ってきた生涯……その魂まで誰にも理解されないだなんて、それは悲しすぎるだろう。少しくらい、生きててよかったと思ってほしい。それが独りよがりのエゴだとしても、僕は彼女に、あの世でも心の底から笑っていて欲しいから。
「僕が君の魂を抱き締める」
僕はどんな病気も治せる医者ではない。奇跡を起こせる魔法使いでもない。
僕にできることはなんだ。
答えなんて、一つしかない。
彼女の剣になることだ。
僕よ、剣になれ。
彼女の鞘に還るために。
「──いつかこの魂が折れるとしても」
飛来する猛虎の牙を真正面から見据える。
もう臆さない。過去を振り切り、逃げることをやめた。
加速する。全てを超越し、置き去りにしてなお前へ。沙耶はその先で待っている。僕の到達を待っている。沙耶は全ての呪縛が解き放たれた世界で、僕が魂を抱き締めるのを待っている。
駆け抜けろ。辿り着け。もっと速く。誰よりも速く。
この体と魂は彼女だけの剣。彼女という鞘に納まるべき、未来を切り開く剣。
真実その使命を内に宿し、遥か彼方へと疾走する。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」
迫りくる刀哉の太刀を追い抜いて、ただ一点に向けて走り抜ける。
手を伸ばせ。前へ進め。限界を超えてその先へ。
この伸ばした手の先に、彼女はいるのだから。
「ちぇ、やっぱおまえには、勝てねぇか……」
交錯する魂から、そんな刀哉の言葉が聞こえてきた。
「それでいい。いつまでも、おまえは俺の先を走っていろ」
でも、と付け加える。
「いつか超える。いつか倒す。俺たちの剣道は、これから先も続くんだから」
「ああ。何度でも、何度でも魂を交わそう」
沙耶の分まで、何度でも。
僕たちは目を閉じる。目尻に浮かべた涙と共に、微笑みながら。
魂で切なく響き続ける、小さな傷を慈しみながら。