二本目が始まった。同時、僕は床を踏みしめ、刀哉に真正面から飛び込んだ。
「なッ……」
意表を衝いた。狙い通り。既に後がない僕が大胆に吶喊してくるとは思わなかっただろう。
もしも刀哉が飛び出していたら、僕の敗北は決まっていたからだ。
コンマ一秒でいいから、刀哉の思考に空白を与えなければならなかった。刀哉の上段から繰り出される打突は剣吞極まりない。ケガから復活するまでに刀哉が磨き上げた一撃は、速度と威力ともに高次元で兼ね備えている。先を取られたら勝ち目がないのだ。
間合いも上回られている以上、僕はリスクへ身を投げる必要があった。
代償として──左足が悲鳴を上げた。
しかし、報酬は十分に支払われた。刀哉の動きが僅かながら硬直する。構築された刀哉の膨大なエネルギーが無に戻る。対して、僕は既に動き始めている。刀哉の先を潰した。
「──く」
それでも刀哉は全身から闘気を迸らせ、打突を繰り出そうとする僕の小手を狙いに来る。
間合いを詰められた以上、面を打ったところで元打ちとなり、一本にはならないから。
つまり今のこの場は、僕の領域だ。僕が持っている唯一の武器は速度だ。刀哉も十分に理解しているだろう。だから、僕の小手を狙いに来たとしても、それは一瞬先の未来──まだ存在していない幻を狙ってくる。
ここ。ここしかない。僕を知るがゆえに生まれる刀哉の思考の死角。僕の速度を警戒し、一瞬先の未来を狙ってくるその裏を斬り落とす。
右手首から銃弾の掠るような音が聞こえた。微かに息を吸う。焦げた臭い。躱した。文字通り皮一枚を斬らせ、この賭けに勝利した。
刀哉、もう僕は臆病者じゃない。僕は沙耶の死を抱き締める。
僕と沙耶は二心同体の剣と鞘。魂の境界を飛び越え、一つになった。だから僕は、沙耶の強さだけじゃない、沙耶の弱さも受け入れて、愛していたと叫び続ける。
「刀哉、君は強い」
それが僕の──。
「だけど、沙耶の剣に相応しいのは僕だ」
沙耶の剣であり続けるという、覚悟だ。
闇夜の空まで震撼する轟音が、道場内に響き渡った。
竹刀から伝わる手応え、気勢、残心、全てにおいて確信を持って言える。一本だ。
これで共に一本ずつ。三本目──いわゆる、『勝負』へと決闘は縺れ込んだ。
「剣司、テメェ……」
振り返る。衝撃でよろける刀哉が憎たらし気に僕を睨んでいる。
「沙耶は強い女の子だった」
僕だからこそわかる。沙耶が、残り少ない命の蝋を溶かしながらも、僕に求めたものは何だったのか。どうして僕を選んだのか。
それは、絶望の海でたゆたうことしかできない己の魂を見つけ、掬ってほしかったからに他ならない。
ずっと疑問だった。どうしてあの日、剣道部に入部した日、沙耶の構えを見た瞬間にトラウマによる幻が吹き飛んだのか。
あの瞬間、絶望に染まっていた沙耶の魂が、同じく絶望に溺れていた僕の魂を抱きしめてくれていたのだろう。
沙耶は絶望を分かち合える存在であると、僕は脳ではなく魂で理解していたのだ。
気付けるはずがない。今までそんな存在はいなかったのだから。桜先生でさえも、絶望の理解者には成り得なかったのだから。
「沙耶は、弱さを隠したんだ。自分に巣食う絶望を振り撒いたところで、誰も幸せにならないから。不幸に巻き込んで、辛い思いをさせてしまうだけだから」
沙耶は強い。剣だけじゃない、その心までもが。信念までもが。極限の極限まで孤独に勝ち目のない戦いへ挑み、決して弱音を吐かず、弱さを見せなかった。
だけど、沙耶は一人の女の子だった。年相応の、どこにでもいる女の子だったのだ。
死を恐れ、病気を恨み、辛いことを辛いと言い、理不尽なことに怒る──普通の。
「刀哉、君はその沙耶の強さを、神聖化しすぎたんだよ」
だから、沙耶は過去に言ったのだろう。君は眩しいな、と。
沙耶は、自分には太陽なんて輝かしい星は似合わないと、分かっていたから。
「君は沙耶の強さしか照らし出すことができなかった。自分から目を逸らしていたんだ。照らして、見えなくして、沙耶は強いと盲信し、それが結果──沙耶の魂を開くに至らなかった」
だから、沙耶は同じく『弱さ』を抱える僕を選んだのだ。
残心を解き、刀哉に切っ先を向ける。
沙耶の剣として。彼女の絶望を受け入れるための、一振りの剣として。
刀哉は言った。傷の舐め合いだと。ああ、ちくしょう、そう言われても仕方ないよな。認めよう。確かに僕たちは互いの傷を舐め合って、その瞬間の慰みを得た。
でも、僕たちはそれだけじゃない。僕にとって沙耶は厳しい存在だった。僕の心からトラウマを引っぺがすために、散々振り回されたのを思い出す。そうして弱さから立ち上がった僕だからこそ、沙耶は僕を選んだんだ。
刀哉もケガから立ち直ったかもしれない。でも、刀哉は
塩の海に落とした汚れが一瞬で浄化されるように、刀哉の太陽としての魂の在り方は、微塵も弱さという穢れを許さなかった。
弱さなんかちっとも持たず、跳ね除け、圧倒的な強者だったからこそ、沙耶は自分の弱い魂を差し出すことをためらったのだ。
沙耶は、刀哉を畏れたのだ。
「沙耶の剣になりたかったのなら、惚れてたのなら、目を逸らすべきじゃなかった。沙耶のことを想っていたのなら、沙耶の弱さにも向き合って、踏み込むべきだったんだ。僕にはない、僕以上の時間があったんだから」
僕が刀哉に感じていた怒りはこれだった。最も近くにいて、自分にはない時間と邂逅を経ていたのに。それでいて、沙耶の強さに盲目となり、踏み込もうとしなかったから。
「君は、沙耶の強さに甘えたんだ」
刀哉は目を見開いたまま、微動だにせずに僕を睨み続けていた。
しかし、やがて天を仰ぎ見て──、
「は、はは。そうか。そうだったのか。沙耶は、弱くもあったのか。確かに、違和感はあったなぁ。いつもお茶を濁した言い方で、決して核心を漏らそうとしたことは一度もなかった」
虚ろな、力の抜けた声だ。しかし、逆に不気味に感じられた。背筋が冷える。
「あの時か。あの時、腕折った後で沙耶が駆け込んできた時……あの表情が、あの言葉が、すべてを決めちまってたのかもしれねぇなぁ……」
少しずつ、少しずつ、萎んだ刀哉の覇気が鼓動を立てているのを感じた。
まるで、噴火の鎮まった溶岩の底で、とんでもない化物が鳴動しているような。
「感じられなかった。分からなかった。違いねぇ、それは後悔だ。さすがだな剣司。沙耶の選んだ、沙耶の剣。俺が求めてやまなかった存在に、おまえは成った。やっぱ強ぇな……」
なんだ、この、言葉にできない圧力は。
天を仰いでいた刀哉が、ゆっくりと、僕を見た。
そこにあったのは、涙を流す──益荒男の姿。
「失ったモンはもう取り返せねぇ。成れなかったモンはどうしようもねぇ。だからこそ、俺は俺にしかできねぇことで、沙耶の魂に報い続ける」
そうだろ、先生と。刀哉は付け加えた。
「おまえが沙耶の剣だってのは認める。でもな、さっきも言ったが……そこで俺が劣等感を覚える道理はねぇんだよ」
刀哉は沙耶が認めた、闇を切り裂き世界を照らす天照。その不変の矜持こそが刀哉の魂。一切の穢れを許さぬ、高潔なる星。刀哉は宣言した。その証明を貫き続けるだけと。
人生……一生。生涯を懸けて。刀哉の光は、永劫絶えることはない。
「沙耶は弱くもあった。それは分かった。だけど、俺はそれでも、八咲 沙耶という高貴な魂を照らす。一生をかけてな。俺が死ぬまで沙耶は強く、輝いてたと証明し続ける」
気炎爆轟──地面を踏み鳴らして、猛虎は再び牙を鳴らす。
強さと弱さ。
彼女の光と彼女の剣。
太陽と──闇。
ここに僕たちは決別した。それでも、自分の意地を貫き通すと宣言するのならば、するべきことはただ一つ。勝て。その矜持は、勝利という結果でしか証明することができないのだから。
勝負。最後の一本が、運命の一本が幕を開ける──瞬間。
ずきっ……と。
あまりにも残酷に走る痛みが、僕の左足首から響いた。