道場の空気を裂帛の気勢で弾き飛ばす。立ち上がると同時に、一切の躊躇なく僕と刀哉は前へ跳んだ。剣が一点で交錯して轟音を轟かす。
道場の床に衝撃が伝わり、一瞬地震が起きたのではないかと錯覚するほどだった。先は僕が取った。刀哉が上段に構える刹那の隙を突いて一気に飛翔した。しかし、刀哉の上段はそんな不利を両断するだけの威力を誇る。
よって互角。剣は互いの頭蓋を割ることはなく、鎬を削り合って相殺となる。残心によって道を開けるようなことはしない。僕たちは互いに体を正面から打ちつけ合って、両手は己の一撃を証明するように頭上へ挙げられる。
体格は僕が不利だが、僕の武器はスピードだ。体格の差を足腰の強さで取り返す。残心から鍔迫り合いへ。出会い頭の挨拶は終わった。
覇気に合わせて眼光が火花を散らす。僕の覇気が龍を象り、刀哉の覇気が虎を象る。互いの覇気が牙を突き立てて食い破らんと唸りを上げた。
動いたのは猛虎──刀哉。額を割る軌道で剣が振られる。剣で受けに行く。されど、衝撃が来ない。見せかけ技。覇気が見せた気魄の幻だ。警戒したこちらの手元が上がる。胴が空く。面打ちの軌道は即座に引き胴へと切り替わった。
斬らせるか。竹刀は切っ先三寸で斬らなければ一本にならない。打突する刀哉に体当たりをぶつける要領で距離を詰める。舌を打ちながら引き胴を放とうとする刀哉。上から竹刀を被せる形で回避する。ここだ。斜めに踏み込む。僕の間合いだ。右側面を打ち抜く──。
「あ、めぇんだよッ!」
しかし、すんでのところで刀哉に防がれた。あとコンマ一秒早ければ取れていたのに。
迎撃される竹刀。返しで唸る刀哉の打突。首を捻る。右肩に直撃した。鈍い音。痺れる。しかし、相対する猛虎が攻撃の牙を緩めるはずがない。
ほぼ左腕だけで刀哉の打突を防ぎ、同時に大きく後退する。竹刀の弾けた音が道場の空気を震撼させた。体の勢いを攻勢に転じる。動き出しは、同時。
不動明王を連想させる構えから、稲妻の如き一撃を繰り出す刀哉。直撃すれば防具越しでも意識を焼き断たれるだろう。その剣吞な刃圏に僕は敢えて飛び込む。
中段の僕と上段の刀哉では間合いが違う。危険を冒してでも飛び込まない限り、僕に勝機はない。逃げるな。臆するな。彼女の剣である矜持を貫くなら、迸る稲妻を切り裂いてみせろ。
「おぉおおおおおおおおッ!」
面越しでも空気の焼けた音がした。致死の一撃に命を晒し、それでも生存を掴み取る。
上段は一撃に全てを賭す。凌げばこちらの領域。後の先にて腸を斬り飛ばす!
「胴ッッ!」
鈍い手応え。防具ではない。外した。しかし、僕のミスではない。刀哉は打突を抜かれると即座に判断し、残心を取らずに僕の打突を潰しにかかったんだ。
体が交錯する。試合場の端で振り返り、僕たちは睨み合う。
「……カッ、なるほどな、沙耶が執着するだけあるわ。ムカつくぜ剣司」
「よく言う。君の間合いの広さはやりづらすぎるんだよ」
刀哉が首に手を当てて、ゴキリと骨を鳴らした。僕も肩を回して関節の動きを確かめる。
血は十分に巡り、筋肉を解してくれている。注油されたバイクのチェーンのよう。心臓が熱をポンプする。目の前の強敵をねじ伏せろとひたすらに囃し立ててくる。手に取るように分かる。僕たちの魂の温度が上がっていく。目を凝らせ。微細な動きも見落とすな。僅かな反応も、体重の移動も見逃すな。
集中がさらに高まっていく。僕たちは導かれるように、覇気の中心へ足を踏み入れた。魂が奮える。全身に熱が伝播し、されど思考は冷静だった。体の芯から、魂の奥底から手が伸びて、脳髄まで掻き回すように這いずり回る。
世界の全てが超低速のように見えて、無駄な思考が消し飛んだ。目の前にいる相手にだけ専心が注がれ、まるで恋慕を燃やす乙女のように夢中になる。
必殺の間合いに踏み込む。目には見えない僕たちの間合いが、先に互いの領域を侵犯して火花を撒き散らした。其即ち、衝突の合図に他ならない。
刹那、火花は爆薬となり、この空間に炸裂する。先手は刀哉。彼の独自の姿勢から繰り出される太刀の間合いは、僕の間合いを優に超えている。自分の太刀が一本となる限界を見極め、僕の左手を切断するように打突が繰り出された。
自分の間合いへ踏み込むために前進していた僕は、その打突に対して通常の抜き程度で回避することはできないことを分かっている。
要求はさらに深奥へ。体幹はそのままに突き上げるようにして竹刀を捌き、小手に掠らせる。
見切った。皮一枚だけくれてやる。肉を切らせて骨を断つ。
無防備に晒されている刀哉の面を斬りつぶす──。
「ッ!」
覇気が見せる幻影。
気付けなかった。刀哉は打突を放っていない。
踏み込んだのは間違いない。だけど、僕の小手を狙ったのは先行した幻影だった。
僕の打突を自分に有利な相面へと誘導するために。
「上等ォッ!」
相手は上段、火の位。こと一撃に関しては全ての構えの中でも最高級の威力を誇る。
受けて立つ。速度では僕が上だ。ここで逃げて沙耶の剣を名乗れるものか。
間合いは互いに必殺。
ならば是非もない。意地の張り合いをしよう。
迫りくる神速を、絶速を以って超越する。竹刀が撓る。切っ先が加速する。完全なる互角。
しかし、それでも差が生まれたのは、
己が信念で剣を磨き、生涯を懸けて貫くと決めた太陽の矜持。その覚悟の差か。
襲来する猛虎の牙が僕の頭蓋を食い破る。覆しようもない打点の高さが、僕の一撃を呑み込んだ。
「がッ……」
回避などできるはずがない。僕は自分の打突が勝つと信じて疑わなかった。
その渾身の一撃が破れることなど、夢にも思わなかった。
「メェェェェアラァアアアアアアアアアアアアアッ!」
頭蓋の骨まで陥没したかのような炸裂音が、僕たちだけの世界に木霊した。
時が停まったかのようだった。しかし、一瞬にして永遠とも思えるような沈黙の直後、時が役割を思い出したかのように世界を動かした。認めるしかない。完全な一本だ。
「……ッ」
自分に威厳を見せつけるかのような残心を見ながら、思わず歯軋りをする。
「どうだ、剣司。これが俺の覚悟だ」
その意思。その眼光。刀哉の魂が轟々と燃え上がって、片膝をつく僕を射抜いていた。
「俺は沙耶の『光』だ。沙耶が死のうと、俺はその死すらも切り裂いて、照らしてやる。沙耶の生き様はこの世界の何者にも負けないくらい輝いてたって、俺が証明し続ける」
死を受け入れ、その死を照らし出すという決断。真鉄の覚悟。己に降りかかった絶望を一瞬で焼き尽くし、ひたすらに前へ進み続けた魂の持ち主だからこそ下せた決断だ。他の誰かが刀哉と同じような覚悟を抱けるとは思えないし、刀哉以上に魂へ誓える人間もまたいないだろう。 故に本物だ。その覚悟も、その矜持も。
「俺は沙耶を愛していた。だからこそ、沙耶の死すらも尊い輝きとして受け入れる。どんな闇だろうが関係ねぇ。俺が全部照らして、沙耶の魂を未来へ導く」
分かる。刀哉の魂は泣いている。しかし、それは悲嘆ではなく、鋼鉄の意思を固めた証だ。
揺るがない。折れない曲げない。刀哉はただ忘れないだけ。
霧崎 刀哉は──八咲 沙耶を愛している。
「俺はこの気持ちをこの先何があっても忘れねぇ。砕けるモンなら砕いてみろや剣司」
この覚悟以上の矜持がなければ、地面を舐めたまま敗北しろ。
そういった情念が籠められた、比類なき強靭な一撃。痛いほど伝わった。紛れもなく、今の一撃は刀哉の絶対の信念が乗せられた、魂の打突だ。
「伝わったよ刀哉。君の覚悟が」
だけど、僕はその覚悟を打ち砕くために剣を執ったのだ。沙耶の死を覚悟し、受け入れ、その上で照らして魅せる。なるほど、太陽の如き刀哉にしかできない芸当だろう。闇に呑まれかけていた僕では決してできない神業だ。
「でも、君は沙耶の剣になれなかったから、沙耶の魂を理解できていない」
そう。僕は、僕だけは知っている。この世界で、僕しか知らないことがある。
八咲 沙耶の魂の叫び。透明の涙。彼女の魂に宿る穢れなき想いを。
「沙耶は、理解してほしかったんだ」
孤独を、拒絶していたんだ。
「沙耶は、僕の鞘になりたいと言ったんだ」
なぜなら、彼女と僕は、絶望の中で生きていたから。生き抜いたから。
乗り越えたのではない。死を乗り越えることなんかできやしない。だから、絶望に寄り添ってほしかったのだ。孤独ではないと、抱きしめてほしかったんだ。
「刀哉、君は、沙耶に理想を押し付けていたんだ」
沙耶は美しい。洗練されていて、穢れがなくて、研ぎ澄まされていた。
まるで、そんな役者を演じているかのように。
「君は強すぎた。違うんだよ。沙耶はね、弱かったんだよ」
刀哉は孤独に耐えられる。沙耶は孤独に耐えられない。刀哉は絶望を吹き飛ばせる。でも、沙耶は絶望を吹き飛ばせなくて、避けられぬ終わりが分かっていたから。
沙耶は、いっしょに奈落へ堕ちてくれる存在を欲していた。堕ちてくれなくても、奈落へ身を投げる自分を、泣いて抱きしめてくれるような、そんな理解者を求めていたんだ。
「沙耶の弱さから目を逸らした君じゃあ、僕には勝てないよ」
僕は、どんな病気も治せる医者じゃない。僕は、奇跡を自由自在に操れる魔法使いでもない。
僕はただの、剣道好きの少年でしかない。
ならば、できることはなんだ。沙耶を死から救い出すことはできなかった。
沙耶の剣として僕にできるのは──沙耶の死を抱き締めることだ。
絶望を絶望として、沙耶の痛みを、苦しみを、受け入れることだ。
決して、照らし出して、希望に変えようとしてはいけないんだ。それは、沙耶の死を、絶望を、本当の意味で忘れてしまうことだから。書き換えてしまうことだから。
「沙耶が弱い……?」
そして刀哉は、絶対にそれだけは認められない。
「ふざけんなよ」
地獄の閻魔だって裸足で逃げ出すほどの呻き声で、刀哉が唸る。
「アイツが弱いワケねぇだろ。アイツは俺が認めた女だ。俺が照らし出すに値する、高貴な剣士だ。テメェはあの高潔な剣を貶すってのか、オイ」
「貶すんじゃない、抱きしめるんだ。沙耶の強さは、沙耶の弱さがあってこそなんだ。ずっと絶望と戦い続けてきた沙耶は、いつしか強くあることしかできなくなってしまったんだよ。魂の奥底に宿る弱音を──斬り殺し続けてきたんだ」
「うるせぇッ! 沙耶が絶望に負けるものか! 絶望がなんだってんだ! そんなもん、そんなもの……俺が全部焼き尽くしてやるよッッ!」
──君の焔に、沙耶は触れることができるのか?
口にはしなかった。きっと、彼は答えることができないだろうから。
構える。二本の足で床を踏み締めて、僕は再び太陽に挑む。一本を取られ、もう後がない。だけど分かる。一切の怯えはない。それどころか、感じるんだ。僕は今、過去最高に猛っている。気概は膨らむ一方で、覇気が象る龍も猛りを上げる。咆哮が猛虎の鬣を震えさせる。
「偉そうに高説垂れんのは、俺を倒してからにしろよ絶望野郎が」
「ああ、構えろよ太陽。僕が地に堕としてやる」
刀哉も上段に構え直す。呼吸するよりも慣れた僕たちの構え。
「「この戦いは──」」
合図はなかった。ただ魂がぶつかり合った音を感じ取っただけ。
それだけで、『太陽』と『闇』が、互いの信念と情念を賭けて衝突した。
「「どっちの信念が強いか、それを競う戦いだ!」」