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三十五本目:ガキの喧嘩

 ──午前二時。沙耶の道場で。それが刀哉と葬儀場で交わした約束だった。


 鍵は刀哉が過去に沙耶からもらったスペアがあるらしい。


 家から徒歩で一時間。決戦の場が見えてきた。今夜は冷える。夏は近づいているはずだが、昼間に雨が降ったからか、肌寒さが僕の肌を舐め回す。


 道着を着て、ジャージを羽織り、試合用の竹刀を一本、肩から提げて道を歩く。道場が近づくにつれて、少しずつ感覚は鋭くなっていく。


 手に取るように分かる。腹を空かせた肉食獣の檻に向かって歩いているかのような緊張感。


 間違いない、刀哉だ。アイツは、道場の前で僕の到着を待っている。


 目を逸らさない。その一点をまっすぐ見据えたまま、僕は歩みを進めた。


 一歩を踏むたびに、刀哉と切磋琢磨した日々を思い出す。小さいころ、道場で初めて会って、口の悪いヤツだと思ってあまり好きになれなかったのを一番に覚えている。


 学校も同じで学年も同じだと知った時は、思わず苦い顔をしたものだ。


 絶対仲良くなれない。そう思っていたら、案の定殴り合いの喧嘩をしたっけ。理由なんか忘れた。とにかく僕と刀哉は顔を合わせるたびに喧嘩まがいのことをしてた。桜先生にボコボコにされなきゃ、たぶん卒業までずっと仲悪かったろうな。


 でも君は、めちゃくちゃ負けず嫌いで。剣道が本当に好きで。誰よりも、長い時間と濃い密度を重ねて努力できるヤツだったよ。


 そんな君を、僕はいつからか心の底から尊敬するようになっていた。唯一無二の、ライバルだと……ずっと思ってた。

 誰よりも負けたくないと、君にだけは負けたくないと、ずっと思ってた。


 だから、あんな情けない試合をしてしまったことを謝りたい。君に怪我をさせて、キツイ思いをさせてしまったことに謝りたい。それなのに君は恨み言一つ漏らさず、ずっと僕を待っててくれた。トラウマに囚われて蹲る僕の背中を、蹴っ飛ばしてくれた。


 僕は君にも感謝している。君というライバルがいなきゃ、僕は前に進めなかったのだから。


 ある意味、沙耶以上に感謝してるよ。でも、正直に言おう。僕の知らない、沙耶との時間を持っていることに、嫉妬してる。


 最初から、沙耶は君のことを名前で呼んでたな。だから僕は、そういう意味でも君に負けたくない。沙耶は僕の鞘だ。君なんかに渡さない。


 ついでに因縁も勝利で飾って、完全勝利とさせてもらうぞ。

 刀哉──勝負だ。


「よう刀哉。左腕の調子はどうだ?」


 声を掛けると、刀哉は獰猛な虎を彷彿とさせる笑みを浮かべて、


「おう剣司。覚悟しろよ。今までになく最高だ」


 ただ、そう告げた。ハッタリじゃない。僕の目の前にいる猛獣は間違いなく過去最高の状態だ。覇気に満ちている。一瞬でも弱気になったらあっという間に捕食されるだろう。


「このまま道場に行きたいところだが、ちょっと俺の話を聞いてくれ」


 覇気はそのまま。だけど、どこか目を細めて刀哉は語り出す。


「俺は沙耶が好きだった」


 唐突な告白に、ずぐん、と心臓が疼いた。


「初めて会った時は気に食わなかったけどな。細いし小さい。でも剣道は強ぇ。ワケ分かんなくてよ。気に入らねーと思ってたけど、いつからだったかな、沙耶は俺たちの見えないところで誰よりも努力してんだな、って気付いた。見え方が変わったんだと思う。そっからは、沙耶のことを気に入らねーと思うことはなくなった」


「……そうかよ」


「中学の頃さ、沙耶から一本取ったことがあった。上段からだけどな。それが嬉しくて跳び回って調子乗ってたら、沙耶に蹴り入れられてよ。アレは痛かったなぁ」


 刀哉が自分の脛を二回叩いた。


「認めてほしかったんだよな、沙耶に。おまえは強いって」


 ……そうか。沙耶に認められること。それが刀哉の魂をここまで輝かせることになったきっかけなのか。強くなれば、輝けば、太陽のようになれば、沙耶はきっと見てくれると。


「だから、ケガしてもさ、やっぱ無理に意地張ったワケよ。辛いしメンタル的にもキツかったけど、きっとやれる。絶対やれる。そう信じて沙耶の前でカッコつけた。強い、って言ってほしくて。でも、アイツは違う言葉を俺に言った」


 なんだって?


「君は眩しいな──って」


 自分の眼窩に力が入った。その言葉に込められた意味を、嫌でも分かってしまうから。


 沙耶にとっては、憧れと諦めの言葉で。

 刀哉にとっては、喜びと呪いの言葉で。


 それでも刀哉は、沙耶の闇を照らし出すことしかできなかったから。刀哉は、ただひたすらに、沙耶の道を、未来を照らすべく、己が剣に磨きをかけることしかできなかったから……。


「そこからなんだよな。沙耶を導けるような、でっかくて強くて、眩しい剣を振りたいって思い始めたのは。その言葉はさ、強いなって言われるより、嬉しくてよ」


 文字通り、刀哉は僕にとって──いや、沙耶にとっても太陽となった。


 だけど、


「だけどさぁ、沙耶は結局、おまえを選んだろ? 『太陽』としての俺じゃなくて、似た傷を抱えて沈んでた、『闇』としてのおまえをよ」


 そう。沙耶は生まれながらにして闇を抱えていたがゆえに、太陽である刀哉は自分には相応しくないと、穢してはいけないと、断じてしまったのだ。


 常識的に考えれば刀哉が正しい。しかし、正しさは時に、人に対して毒になる。その毒が強ければ、人は目を向けることにも抵抗を覚えるだろう。眩しいから、という理由で太陽を直接見ようとする人がいないように。


「もう沙耶はいねぇ。ここでおまえをぶっ飛ばしたところで、なんの解決にもならねぇ。あの時つけられなかった決着をつけよう、ってのにこじつけて、俺はおまえに感情をぶつけようとしてる。一方的な、怒りと嫉妬、納得いかねぇっていう感情をな」


 分かってる。結局僕たちの因縁は、僕たちだけの話じゃなくなっていて、拗れに拗れて、もうあの時の約束を果たすとか、そういう領域の話ではなくなっている。


 だからもう、理屈とかそんなのは、全部ぐちゃぐちゃでもいいのかもしれない。

 僕が刀哉を剣道で倒したいと思うのは、あの日の清算を果たすため、だけではない。


 僕の知らない沙耶の時間を君は知っていて、それでも沙耶の心に寄り添うことができなかった。過去の言葉に縛られて、沙耶の心の奥底にある魂に触れようとしなかった。


 眩しすぎると見えなくなるように、刀哉、君は沙耶の魂が見えなくなっていたのだ。

 僕と君の差は、それだけなのだ。僕はそのことを、刀哉に叩き付けなければならない。


 僕たちの勝負は、つまるところ、ガキの喧嘩だ。


 意地と意地、感情と感情をぶつけ合うだけの、幼稚で稚拙で、見るに堪えない小さな勝負。

 それでも僕たちにとっては、絶対に譲ることのできない勝負だから。


「僕もだよ、刀哉」


 だから、ようやく同じ立ち位置になった君に、僕も感情をぶつける。


「君に嫉妬してる。この苛立ちは消えない。だからぶっ飛ばす」


 それ以上の理由なんか、いらないんだ。

 拳の代わりに、剣を使って殴り合う。


「ガキの喧嘩だ。言葉はいらない。剣で語れよ太陽野郎」



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