天に向かってそびえ立つ煙突から、黒煙がもうもうと立ち昇る。空は鉛より重い曇天だというのに、煙は手を伸ばすようにどこまでも昇っていく。だけど、空に近付けば近付くほど、薄れて、掠れて、やがて空気に溶けていく。なくなっていく。どこまでも儚く。
「沙耶は最期に何を言ってた」
雨が傘を叩く音を押し退けて、隣でしゃがみ込む刀哉はこちらを見ずに尋ねてきた。服は学生服。着崩していた刀哉にしては珍しく、襟元までしっかり閉じていた。
「……幸せだと、そう言っていたよ」
世の中には理不尽な死が蔓延っている。望んだ結末を迎えた命は、きっと少ない。
避けようもない死。誰にでも訪れる命の終焉。そんなどうしようもない終わりを、せめて望んだ形で迎えることができた彼女は。
「沙耶は、笑顔で逝ったよ」
刀哉はこちらを見ようとしない。傘を申し訳程度に肩に預け、地面を打つ雨をひたすら見つめていた。跳ね返る飛沫で裾が濡れようと、お構いなしだった。
──沙耶の葬式には、部員たちを始め、道場の関係者、そして僕たちと桜先生が訪れていた。ハッキリ言って、数える程度でしかない。ご高齢の方々を除いて、ほとんどが見たことある顔だ。僕が見たことあるということは、中学の頃の仲間は一人もいないだろう。
「アイツは、中学の頃、まともに部活出てなかった」
まぁ、それでも部の中じゃ最強だったんだけど。刀哉はそう付け加えた。
「だから、腫れ物みたいな立ち位置だっだよ。触れたら呪われる日本人形だなんて陰口も聞いた。そいつらは俺がぶっ飛ばしたけどよ」
「刀哉は、沙耶のために戦ってきたんだな」
「ああ。俺が沙耶を支えてやりたかった。どこか危ういのは分かってた。だからこそ、俺がアイツの隣に立って……道を照らしてやらなきゃって……」
言葉が途切れた。強く鼻を啜る音が聞こえた。
「達桐、霧崎」
水たまりを踏みしめる音と同時に、低い声が僕たちの名前を呼んだ。五代部長だった。学生服の僕たちとは違い、キチンとした喪服だった。
「申し訳なかった」
唐突に、五代部長が傘を畳んで謝罪した。何のことか分からず、言葉が出なかった。
「八咲の意志は、黒神先生から聞いた。なのに俺は、八咲の素性を知ろうとしなかった。自分ではとてもじゃないが制御できないと判断して、理解を放り出した……部を預かる者として、最低な考えだった。八咲のことをもっと知ろうとしたら、最悪の事態は──」
頭を下げたまま、五代部長の言葉が止まる。微かに震えているよう見えた。
「だが、俺はどうすればよかった……ッ。部のみんなの意志を蔑ろにはできない。あの場において、俺は部長として八咲の意志を汲むことはできなかった!」
この人は、部の長として、規律と礼儀を重んじた。その心は間違いなく人の上に立つ器に相応しい。間違っていない。五代部長は、部の長としての在り方を全うしたに過ぎないのだ。
「それがこの結果だ! 八咲の起こした騒動は褒められたものではない。全肯定はできない。しかし、それでも剣道部の一員だったんだ!」
言葉をまくしたてる五代部長。端々から滲み出る感情が僕らの心に爪を立てる。
「俺は、俺の取った選択は、おまえたちと対立した選択が、八咲を孤独に死なせたのか! せめて、八咲の最期をもっとみんなで包んでやることはできなかったか……ッ」
この人もまた、己の無力に打ちのめされているのだ。
僕や刀哉とは違って、部の長──八咲の所属する団体をまとめていた立場として。
ならば、八咲に最も近かった僕から、言うべきだ。
「いいんです、五代部長」
本心からの言葉なのは疑いようがない。でも、仕方ないんだ。僕たちだって、沙耶を理解するというのは、全身全霊を懸けてようやく叶う願いだったのだから。
「これは、沙耶が望んだ結末です。だから、きっと、沙耶が求めているのは謝罪じゃない。沙耶が求めているのは……」
頑張ったね、って。認め、受け入れ、抱きしめてあげることだと思うから。
「──達桐、おまえ」
部長が顔を上げて僕を見た。僕の表情を見て、部長はどう思ったのだろうか。今にも泣き出しそうな、悲嘆と後悔を混ぜ合わせたような表情で、しばらく立ち尽くしていた。
「……それでも、長として、俺も八咲を見送らねばと思った。そうでもしなければ、自責の念で、押しつぶされそうだった。自分のためだ。俺は……」
「はい。分かっています。僕たちはみんな、沙耶の死に──後悔しているんです」
大切な人の死。その現実に直面し、後悔しない人間などこの世にいないだろう。
桜先生も言った。僕は必ず後悔することになる。だから、せめて。
「だから、心に刻めばいいと思うんです。沙耶の死を、傷として」
彼女は生きていたと。彼女は輝いていたと。懸命に生きたと。
消えない傷にすればいい。そうすれば、永遠にいっしょにいられるから。
「……傷」
「はい。死はどうあったって、傷になるんです。僕たちには、それしかできないんです」
だから、この痛みを受け入れればいい。愛おしいと抱きしめて、刻むのだ。
「……、……強くなったな、達桐」
「いいえ、弱いんです。弱いから、沙耶の死を悼むんです」
沈黙が木霊する。しばらく雨脚だけが僕たちの心に染み渡っていた。
「……また、部活でな」
目を伏せてそう言い残し、五代部長は去っていった。
入れ替わるように、誰かがこちらへやってくる、黒いスーツに身を包んだ、洗練された雰囲気を纏う女性。滲み出る雰囲気だけですぐに分かった。桜先生だ。
「剣司くん」
先生の瞼は、腫れていた。鼻の頭も赤かった。漆黒の瞳に一層の艶を宿し、先生は二呼吸の間、僕の前に立っていた。
「想いは、伝えられましたか?」
先生はそれだけを尋ねた。どこか掠れた、細い声だった。雨脚にかき消されそうな声だったけど、それでも僕の耳には一切乱れることなく届けられた。先生が目元に手をやった。拭いきれない涙の痕が先生の綺麗な顔に筋を描いた。
「一番大事な想いは、伝えることができました」
しかし、だからといって「じゃあよかったね」と手放しで喜ぶことはできない。
むしろ、五代部長の前では張り詰めていた心の膜が、少しずつ、裂けるのを感じていた。
ほんの少しでも亀裂が走れば、崩れるのは一瞬だった。
「……でも、やっぱり後悔だらけです。あなたの言う通りでした」
もっと早く、トラウマと向き合っていればよかった。
もっと早く、沙耶のことを理解できていればよかった。
もっと早く……沙耶と出会えていたら、よかった。
「挙げればキリがない」
どうして沙耶は死ななければならなかったのか?
そんなことを考えたところで、何も生みださないのはよく分かっているつもりだ。
刻むためには、思い返さねばならない──考えねばならない。
考えたところで取り返しのつかないことを、いつまでも。
そうして自分自身の首を絞めていなければ、自分を責めていなければ、世界に存在してはいけないのだと、僕はそんな生産性も何もない思考をひたすらに繰り返すことしかできないらしい。
それが、楽だから。
「どうして、僕は」
刀哉を傷付けて、心に傷を負って、立ち上がるよりも寝転んでいる方を選んでしまったのか。どうして沙耶という魂に出会うまで、己を奮い立たせなかったのか。
「自分と戦うことから、逃げてしまっていたのか」
楽な方を、選んでしまったのか。
「僕が僕と、もっと早くから戦っていれば、」
沙耶の時間を奪うことはなかったのに。
「もっと長い時間、沙耶といっしょにいられたかもしれないのに」
自分で自分を殺したい。この場に真剣があれば。ああ、喉を突いて死ねるのに。
頭が重い。前を向けない。項垂れて雨で汚れる靴しか見えない。
「……殺してほしい」
僕を。彼女の時間を奪った、僕を。
「剣司くん」
沙耶の死によって生まれた僕の闇をぶつけられたにもかかわらず、先生はいつも通り──いや、一層優しい声で僕の名を呼んだ。僕は顔を上げる。
「あなたの魂は──もう、あなただけのものではないのですよ」
「──」
思考が、止まった。魂。その言葉だけが頭に刻み込まれた。
沙耶の魂。ただ孤独に病魔と闘い続けてきた彼女の魂。内に硝子のように美しく脆い剣を抱えながら、僕という剣の鞘になることを望んだ。
剣と鞘。そうか、僕と沙耶は──。
「……あ」
沙耶は、僕の魂と共にあるのか。
「ああ、ああああ」
麻痺していた。愛する人の死に直面し、とても十五歳の受け入れられる現実を超えていて。
でも、ようやく分かった。頭ではなく、それこそ魂で理解した。
八咲 沙耶は、死んだのだ。
膝に痛みが走った。ばしゃりと音がした。視線の高さが半分くらいになった。
「あああああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああ」
涙が押し寄せてくる。あの夜に泣いたのとは比べ物にならないくらいの勢いで。
道場で沙耶の亡骸を抱きしめた時に、涙は枯れ果てたと思っていたけれど、そうじゃなかったらしい。湧いて出る泉のように、どこまでも止め処なく──。
「沙耶、沙耶ぁ……ああああああああ……」
柔らかい感触がした。見えなけいれど、たぶん、先生が抱きしめてくれているのだろう。
雨なんかもう気にならなかった。どれだけ濡れようが、今流れる涙より僕の魂を濡らす雨は存在しない。傘を捨て、目の前にいるであろう先生の体にしがみつく。
シワ一つない喪服が、涙と鼻水で汚れる。でも、先生は何も言わず、ただ僕の魂を包み込んでくれた。沙耶と僕。互いに欠けた魂を補い合って、ようやく、歪でツギハギだらけだけど球となった魂を、先生は慈しむように抱きしめてくれた。
終わった。僕たちの話はここで幕を閉じる。沙耶のいない世界を、僕はこれからも生き続けなければならない。沙耶から与えられた魂の分も、僕が。
きっと棘の道だろう。僕は彼女の十字架を背負って生きていく。自分勝手に捨てることは許されない。それが、僕が命を使う理由、使命なのだ。
「……チッ、悲劇の主人公気取ってんじゃねぇよ、バカ剣司」
しかし、後ろから、雨を燃やし尽くさんばかりの熱が響いた。
「刀、哉」
「俺たちの話はここで終わり? ふざけんな。勝手に終わらせてんじゃねぇよ」
怒ってる。かつてないほど。僕が刀哉と過ごした時間の中で、一番怒っている。
「沙耶は死んだ。それは変わらねぇ。もう覆せねぇ事実だ。でも、残された俺たちは、沙耶が遺していった魂にどう報いるか、死ぬ気で考えなきゃいけねぇだろ」
「……」
「それが泣いて、悲劇で、沙耶が死んで悲しいね、これからこの辛さを抱えて生きていきましょうね、って……本当に沙耶がそんな未来を俺たちに生きてほしいと思ってる、おい剣司、テメェ本気でそんなこと思ってねぇよな」
「それは、当たり前だろ」
「じゃあ今すぐ立てやテメェッ!」
刀哉が僕の首根っこを掴み、先生から引き剥がす。そのままフェンスに叩き付けた。地面から染みる泥水よりも、背中に走る痛みで顔が引き攣る。
「刀哉くん……ッ」
「先生は黙ってろ! アンタもアンタだ。いつまでも剣司を甘やかしやがって!」
先生の表情が一瞬だけ、痛そうに歪んだ。
「沙耶はどうしておまえを奮い立たせようとした? どうして残り少ない命を、おまえを救うことに使った? その意味が本当に分かってんのか?」
「分か、ってる」
「分かってねぇよ。だったらウジウジ弱音を漏らすワケがねぇ。泣くなっつってんじゃねぇよ。俺だって散々泣いた。でも、俺は弱音なんざ吐かなかったぞ。沙耶の孤独に寄り添うことができなかったかもしれねぇが……それが俺だって、受け入れるしかなかった」
刀哉、コイツは。
自分の無力に、真正面から向き合ってなお、輝き続けるのか。
なんて強靭な魂だ。これが沙耶の言っていた、眩しすぎるという言葉の本質。
「今回ばかりは納得いかねぇ、沙耶が俺じゃなくて、テメェみたいな腑抜け野郎を選んだことがな。アイツも甘い部分があったんだなぁ。
「──あ?」
視界に青白い火花が散った。涙は一瞬で蒸発した。
傷の舐め合い? 沙耶と僕の魂に巣食っていた闇を、痛みを、おまえは。
「おい刀哉、取り消せ、今の言葉」
「取り消さねぇよ。事実だろ。お互い辛いね、しんどいねで傷を舐め合うだけの関係だったんじゃねぇか。文句あんなら掛かって来いよ」
違う。断じて。互いに闇を抱えていたのは間違いない。でも、その闇こそが、僕たちを結び付けてくれた。寄り添う理解の鍵になったんだ。理解を求め、内に闇を抱え、それでも強く生きて、そこでようやく、本当にようやく、いくつもの扉を開けた先にある宝物のような。そんな奥深くにある魂を沙耶は差し出してくれたんだ。
それを、沙耶の魂の高潔さを、貴さを貶すのは、絶対に許さない。
っていうかそもそも、一番近くにいたおまえが、ズレた思考で沙耶の魂に触れようとして、生きてる世界が違うってんで拒絶されて、眩しすぎるってんで目を逸らされたんだろ。
その本質から目を背けて、選ばれなかった怒りを僕にぶつけるなよ。
「黙れよ、人の痛みに寄り添えないくせに」
拳を振り上げる。刀哉も構えた。関係ない。ぶっ飛ばしてやる。僕が間違ってるところもあるのは重々承知だ。でも、刀哉にだって同じく間違えた部分はあったはずだ。それを棚に上げて、一方的に僕と沙耶の辿り着いた理解を否定するのは、絶対におかしい。
「やめなさい、二人とも」
交錯しかける僕らの拳を先生が掴み、捻り上げ、一瞬で地面に組み伏せられる。関節が固定されて動くだけで軋む。刀哉も、同じようで、先生にされるがままだった。
……
「喧嘩は大いに結構ですが、場を弁えなさい。あの子が見ていますよ」
無抵抗な刀哉に違和感を覚えつつ、先生がゆっくりと手を離す。
「……おい剣司」
すると、刀哉が濡れた地面に頬を付けながら、僕を睨んで、
「忘れてねーだろ。あの日の俺たちの決着は、まだついてねぇ」
あの日。中学最後の大会の日。僕が、刀哉の腕を折った日。
そして、沙耶と僕と刀哉と。全てが始まった日。
まさか、刀哉のヤツ、わざと僕を。
「闘争心萎えてなくて安心したわ。勝負しようぜ、剣司。沙耶が死んだ道場で、沙耶の遺影を置いて、俺とおまえ、どっちが上か。全てにケリ着けようぜ」