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三十三本目:『夢』の終わり

 断崖の果てを望んで飛翔するような剣舞は、ついに極限を迎える。手ではなく剣を取り合う伴侶が、凄絶な笑顔を浮かべながら木刀を振るう。かつての洗練された軌跡は見る影もなかったが、魂を削りながら放たれる打突は今までに受けたどの太刀よりも重い。


 僕の光を奪おうと目を突いてくる今でさえも、彼女は嗤い続けていた。この瞬間が至上だと高らかに歌い上げるようだった。


 僕は見続ける。瞬きをせずに見届ける。彼女の──最期の舞を。

 白樫の木刀が僕の顔を切る。右目の下を掠るようにして木刀は逸れていった。僕は一切動かなかった。顔から血が流れているのを感じる。


「ぐっ……ハァ……あぁ、ああああッ!」


 沙耶の体から苦悶の叫びが溢れ出た。突きを放った体の流れに、彼女の体幹が耐えきれなかった。千鳥足にも似た足取りで体を何とか転倒させずに支えた。


 沙耶の心臓が、限界を迎えようとしている。


 これまでの沙耶は何度も無茶をしていたのだろう。その度に余命を削っていたに違いない。

 そうまでしても、そのような結果になるとしても、沙耶はこの道を選び取った。


 沙耶の顔が青褪めていく。体中が震え、押せば今にも倒れそうな状態だった。血が上手く循環していないのだ。彼女の心臓は足りていない部分に血液をより多く巡らせるために必死になるが、それが結局のところ悪循環となっている。


 血が巡らない。必死になる心臓、苦しむ沙耶。負の円環となり──、


「剣、司……」


 しかし、それでも彼女は剣を振るう。

 心臓が力尽きようと、魂が悲願を成就させるまで、永遠に。


 ガツン、と力の入っていない一撃が、僕の首を横から捉えた。


「──沙、耶」


 その太刀筋の何と弱々しいことか。

 蝋燭が一本、燃え尽きた。


 闇が濃くなる。しかし、その中でも分かる。彼女はもうすぐ死ぬのだと。

 僕の両目から、ダムが決壊したかのように涙が零れ出す。


 頬を伝い、血と混ざり、滲みる痛みを残しながら、紅い涙は沙耶の剣を濡らした。

 白濁の刀身に、紅い轍が描かれた。さながら、刀そのものまで泣いているかのように。


「どうしたんだよ、斬れよ! 君の命を、こんな半端で終わらせないでくれ……ッ」


 その咆哮に涙が混じる。

 顔は見るも無様にしわくちゃだろう。耐えがたい辛さに喘ぐしかできない。


「……、実に……うるさいな……まだ、終わって……いないぞ…………ッ」


 錆びた歯車を回すようにぎこちない動作で、沙耶は顔を上げる。


 そして、僕たちの目線が再び交錯した。

 沙耶の凄惨な笑顔は崩れ落ち、死の淵で抗う表情だけがその顔に張り付いていた。


 その沙耶の魂を燃やす姿に、涙が一層溢れ出す。

 止める気はなかった、拭うつもりもなかった。

 ただ感じる。受け止める。沙耶の魂が叫ぶ声を。


「おぉ、おおおおおおおおおおおッ」





 瞬間、世界が空白になった。





 ──感じる。ここは沙耶の魂の内側だ。沙耶がいつか思い描いた幻想が、僕の目の前に広がっているのだ。沙耶と、僕と、刀哉の三人がいた。この道場の中を駆け回っている姿が見えた。


 彼女の描いた夢だった。あの日に実現した──彼女の普遍的な、夢。


 共に笑い合い、沙耶も体のことなんて気にせず剣道をしていた。

 僕と刀哉がいつも勝負をしては、一本入った入ってないで揉めていた。

 沙耶が僕たちを眺めながら、どっちも私より弱いじゃないかと上から言う。


 僕たちはそれに憤慨して、沙耶に勝負を挑む。

 何戦でも、何回でも、体力が尽きるまで、沙耶は僕たちと剣道をする。


 なんと楽しい光景か。なんと幸せな風景か。


 沙耶は大切だと思う人たちと一緒に、思う存分大事な時間を満喫していた。

 私が描いた夢は、今ここに叶ったのだ──沙耶は、あの日、ずっとそう思っていたんだ。





「そうか。沙耶、君は」





 ──映像が切り替わる。

 コンビニだ。僕たちは稽古を終えた後、コンビニに寄っていた。

 沙耶に負けた僕たちは、みたらし団子を奢る羽目になっていた。


 一人二パック。二人で四パック。素晴らしいと沙耶が息を蕩けさせた。

 太るぞ、と耳元で囁く僕の顔面に、沙耶が拳をめり込ませてこう言った。

 うるさいな。この団子こそが私の健康の秘訣なのだ──。





「ずっと、夢を生きていたんだね」

「その通りだよ……君と出会ってから、すべての日々が夢のようだった」


 楽しかったと。


「私はな、弱くて、普通で、ただ剣道が好きなだけの、どこにでもいる当たり前の女の子だ」


 バケモノみたいに強かったから。どこか幻想じみた雰囲気があったから。自分にとっては高嶺の存在だと、線を引いてしまったから。


「知ってほしい、分かってほしいと思うのは、当たり前だろう」


 なんてことはなかった。

 八咲 沙耶は、『高校生の女の子』だったのだ。


 滑稽なことこの上ないだろう。そんな当たり前のことを、僕はこんな遠回りをしてようやく分かったのだ。辿り着いたのだ。振り返ればそこに答えがあるのに、わざわざ。


「バカだなぁ、僕は」

「なぁに、私もさ」


 愚かで、バカで、弱くて、どうしようもなくて。

 僕たちは同じだった。高校生で、人間で、子どもで、剣道が好き。


 ようやく分かった。分かり合えた。僕たちは──。


 剣舞は終局を迎える。今なら、僕たちは一つになれる気がする。

 だって、そうだろう? 僕たちは同じだった。いっしょだった。

 なら、一つになれない方がおかしい。


「あぁ、まったく、幸せだなぁ。今日まで頑張って生きて、本当によかったよ」


 僕と沙耶は剣と鞘。二つで一つの二心同体。

 何度も心が折れて、傷だらけになって、それでも立ち上がって、ここまで辿り着いた。


 ねぇ、沙耶。僕たちはさ、


「沙耶」

「……どうした?」

「愛してる」


 ふ、と沙耶が小さく笑った。


「私もだよ、剣司」





 ──剣を交えることで、愛を謳うんだね。






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