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三十二本目:残酷なほどに、美しく

 木刀の打ち合う音が聞こえる。

 だが、その音がどこか悲しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。

 なぜそのような感想を抱いたのか。それはきっと、一打を打つ度に……命が消えていくような気がするから。


 今ある命の全てを振り絞り、大切な人を想って刀を振るう。

 そんな、切なる願いの籠った、もの悲しい音のようだったから。


「はぁああああああああああああああああッッ!」 


 裂帛の気勢に命が宿る。そうして沙耶は血液を沸騰させる。この瞬間に燃え尽きても悔いはないと言うような魂の強い輝きが、周囲の蝋燭の炎を大きく揺り動かす。


「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」


 打突に宿る想いを一心に受け止めて、僕は全力で返答する。しかし、返しの刀は完璧に読まれていた。被せてくる打突、太刀筋は竹刀のように太くない。木刀。当たれば肉は裂け、骨も砕けるれっきとした破壊の道具だ。全身の産毛が逆立ち、警鐘を鳴らす。


 半ば転ぶように八咲の太刀を躱した。それでも耳に熱い感触。僅かに掠ったらしい。響く痛みに心が怯える。


「で、も……」


 ここで腰が引けたなんて言ったら、もはや僕は男じゃない。

 沙耶が誘ってくれた舞なのだ。恐怖なぞ踏みつぶせ。怯える心は斬り飛ばせ。誓っただろう。八咲 沙耶の剣になると。剣は恐怖なんか抱かない。もっと研ぎ澄ませ。もっと洗練させろ。僕の魂よ、もっと鋭く、強く、剣となって彼女の鞘に還るんだ。


 何度か木刀を交え、衝撃に手首が痺れてきた時だった。

 沙耶の足が不自然によろめいた。僕の顔が跳ね上がる。沙耶の呼吸が大きく乱れていた。


「──沙、耶」


 思わず、声を掛ける。打ち合ったのは僅か数える程度しかない。それにしては異様な汗の量と呼吸の乱れ方である。


 だが、沙耶を知った今だからこそ、その異様な光景の全貌を瞬時に悟る。

 彼女は今この瞬間も、自分の命を削っているのだ。蝋燭の炎が揺らめいているのが嫌なくらい目に入る。蝋が溶け切り、炎の消える瞬間こそが。


「な、なんだね、剣司。相手を心配できるほどの余裕が、君にはあるというのかな。なら、少し、心外だが」


 弱々しい、押せば倒れてしまいそうな儚い姿。純白の道着が痛々しいほどによく似合う。彼女の容態を表すようで、思わず覚悟が揺らいでしまう。


 これ以上、彼女と対峙することが、許されるのか。


 あまりにも弱い自分に嫌悪した。人の命が懸かっている場面で、口だけの覚悟など砂上の楼閣に過ぎない。確かに覚悟を固めたはずなのに、僕は。


「君は弱くなどない」


 しかし、僕の内心を見透かしたかのように、沙耶は呟いた。


「私は今、最高に嬉しいんだ。余計な言い回しが少しも思いつかないくらい、悦びに奮えている。君のおかげだよ、剣司。いや、再び剣を握ってくれた君だけじゃない。ここまで支えてくれた刀哉も、自由にさせてくれた、黒神先生にも……感謝しかない」


 彼女は微笑む。しかし、力がない。何度も見てきた笑顔は崩れ落ち、凄惨な笑みだけが、そこにはあった。それでも沙耶は語るのだ。己を。魂を交わす喜びを。もっと踊ろうじゃないかと。凄惨な笑顔を浮かべて沙耶は僕を誘うのだ。


 だから、僕は揺らいだ覚悟を再び塗り固める。彼女が心行くまで戦おう。覚悟を固める代償として、僕の瞳は、感情の決壊を許した。


「何故、泣くのだ?」

「分からない、分からないんだ。でも、涙が、溢れてしょうがないんだ」


 悲しみも、嬉しさも、後悔も、怒りも、全ての感情が渦を巻いて僕を呑み込む。制御の仕方が一切分からず、ただただ、涙を流す。


 同情はしない。

 同情はしない。

 同情はしない、けれど。


 僕の愛する人が、目の前で死に行く体を晒している。その事実に、もう、耐えられそうになかったから。自分自身の心に鋼の膜を張る。そうやって、今にも瓦解しそうな魂を拙い手付きで補強する。滲んでまともに見えなくなった視界で、彼女の最期の舞に手を添える。


 血塗られた舞に。死の渦中へと飛び込むような舞に。断崖の果てを望んで飛翔するような舞に。その先に待ち受ける避けようのない運命、先に僕が壊れそうだった。


「うぅぅぅ、ぁああああああああああああああッ!」


 涙を流しながら、感情の奔流に呑まれて咆哮する様は、彼女から見たら幼児の癇癪のようだっただろう。醜いことこの上ない。でも、沙耶は優しく微笑んだまま僕を見つめて、


「……、……泣くな。泣いてくれるな、剣司」


 沙耶の表情が、綺麗な笑顔が、崩れていく。


「私まで、泣きたくなるだろうが」


 彼女の双眸から、ころりと魂が零れ落ちた。

 同時だった。鉄で出来た板が割れるような──そんな音が聞こえた気がした。


 沙耶が泣いている。今までそんな素振りなど、弱さなど、微塵も見せずただ強靭であり続けた高貴な少女が、僕の前で涙を流している。


 仮面が割れていく。崩れていく。八咲 沙耶が被り続けていた、鋼の仮面が剥がれていく。


「死ぬのが怖い」


 しゃらん、と煌びやかな鉄の音がした。

 沙耶の──魂の音。魂が奮えた時に聞こえる、沙耶の音。

 今まで被り続けていた仮面が崩れて、八咲 沙耶の魂が曝された音。


「理解されないのが怖い」


 止め処なく零れる感情。魂の雫。


「独りが、怖い」


 透明で、澄んでいて、脆く儚く美しい。


「死にたくないよ……」

「ああ、そうか、君は……」


 ここでようやく気付いた。そうか。そうだったのか。当たり前だよな。死を恐れない者はいない。沙耶も、結局のところ例外ではなかっただけの話。


 八咲 沙耶は、強いのではない。


「だから言っただろう? 私はな、剣司──強くなんかない。弱いんだよ」


 強くあろうとして、強がっているだけの、か弱い少女だった。


 仮面を被り、強い自分を演じ、周囲に本当の魂を隠し続けていたのだ。

 故に、今この瞬間、仮面が崩れた今だからこそ、沙耶は想うのだ。


 もう死への秒刻みしか残されていない体で、それでも。沙耶は零れ出る魂を拭い、赤くなった目で僕を見つめた。瞳は潤んで、まるで光を跳ね返す海のように綺麗だった。


「……この世に蔓延る死というものは、理不尽で、突然で、避けられようのないものだ。後悔なんて山ほどあるさ。また団子を食べたいよ、剣司」


「ああ、ちくしょう、持ってくればよかったよ」


「まったく、しょうがない男だな……」


 もう叶わないだろう。きっと、彼女のやり残したことなんて数えきれない。


「だけど、だけどな。やり残したことなんか山ほどあっても、それでも、大切だと想える人のために、この命燃やし尽くすことができるのなら……困ったことに、それはとても幸せだと思えてしまったのだ」


「沙、耶」


 分かる。彼女の本音だ。だが、しかし、それでも僕はさらに奥の魂を感じ取る。

 彼女の魂の声を、絶対に聞き逃すな。


「死は怖い。それはどうしたって変えられない。だけど、命ある限り、この瞬間に全てを燃やす。これ以上の人生などないと、棺桶の中で拳を握って灰になる」


 沙耶が、自分の心臓を握り締めた。


「理不尽な、死。望まぬ死……。そんな悔やんでも悔やみきれない最期が蔓延するこの世の中で、望んだ最期を迎えられるというのは、なぁ」


 だから、彼女は恐れという心を抱きしめると決めたのだ。痛みが、苦しみが涙となって流れてもいい。僕たちは、止めるつもりなどさらさらないのだ。


 全ての感情、全ての想い、それこそが人間。感情が剥き出しになれば、その時人は初めて人の魂に触れることができる。


 強くなくても、強くなれなくても、弱いままでも、弱さを理解し、歩み続けるのなら、


 自分が弱いと分かっていながら、それでも進もうとする彼女を、いったい誰が理解してあげられたというのか。抱きしめることができたというのか。


 弱さを隠し、強さを演じ、孤独を恐れ、理解を求めて彷徨った。

 そんな沙耶の魂は、残酷なほどに、美しかった。


「残念ながら、幸せだろう?」

「ああ、僕もそう思うよ」


 弱さも強さもすべてを晒し、無様でも醜悪でも抱きしめると決めた。孤独を殺すと決めた。

 魂を覆っていた毛皮を剥がし、本当の意味で裸となって境目を失くす。溶けていく。僕が、沙耶が、剣が、鞘が、一つに溶けて、混ざり合って、魂が重なって。


 剣と鞘が一つになる。僕と沙耶が交わっていく。

 僕たちが選んだのは剣だった。だから、最期はやっぱりこれがいいと彼女は言う。


 間合いは一足一刀。一歩踏み込んで刀を振れば、頭蓋を割れる刃圏。

 僕たちの魂が交錯し合うその刹那で、僕たちという剣と鞘は一つになる。


「続けよう、剣司」


 魂を燃やし尽くして絞り出した言葉を受け、僕は再び涙を流す。

 熱い。頬を伝うこの感情は、決して拭い去っていいものではない。


 剣を握れ。心が燃えているのなら。

 目を開け。魂が奮えているのなら。


 最期に自分を選んだことを、絶対に後悔させるな。

 彼女を真に愛するならば、その剣を以って証明してみせろ。


「ああ、どこまでも」


 そうして僕は、感情の荒波の中で漂う術を見つける。この感情を御することなどしない。想いを止めることもしない。溢れ出るなら溢れ出したまま、彼女に想いをぶつければいい。


 僕たちは傷物だ。二心同体の剣と鞘。

 僕は彼女の剣で、彼女が僕の鞘。魂の最奥に僕たちの答えは存在する。

 簡単なことだった。ただ、あなたを愛していると、剣で語ればよかったのだ。


「「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」」



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