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三十一本目:もう一人の主役

「俺ァ、沙耶に選ばれなかった、か」


 二十一時。達桐と八咲が邂逅を果たしているのと同時刻、霧崎は夜空を見上げてそう呟いた。

 手の中にはスマホが握られていた。反応して映る待ち受けに、新たな通知はなかった。


「あなたはやれるだけのことはしていました。ただ、あなたの性質は、心根は、八咲さんにとってあまりにも眩しすぎたのです」


 そんな彼の背に声を掛けるのは、一時間前に愛弟子を送り出した黒神だった。

 中学に進学と同時に疎遠になったとはいえ、彼も達桐と同門で育った身である。かつては黒神を師事し、剣を磨いてきたのだ。


「先生、泣いてたんすか。声、震えてますよ」

「……女性に涙の理由を問うものではありませんよ、刀哉くん」


 すんません、と振り返らずに──涙の痕を見ずに──謝る霧崎。


「あなたは彼女にとっての太陽だったのでしょう。希望であり、支えであり、エネルギーであり……あなたがいなければ、八咲さんもきっとここまではこれなかったはずです。あの子は、あなたにも感謝しているはずですよ」


「分かってます。アイツは暴君だけど、なんていうか、ちゃんと俺のこと大事にしてくれてたのは分かるし。俺も大事だったし、だから尚更、なぁ……」


 規模の小さい日本庭園のような庭を歩く霧崎。縁側には剣道具一式が置かれていた。砂利を踏みしめる音を三度響かせ、石を拾い、天へ向かって放り投げる。石はすぐに彼の近くへ落下した。彼はその石を寂しそうに見つめていた。


「眩しすぎたって、どういうことっすかね」


 黒神は何も言わなかった。


「ただ俺は、アイツの在り方に惚れただけだ。昔、剣道を初めて見てカッケーって思ったように、俺は八咲 沙耶をカッケーと思った」


 彼は拳を握りながら、太陽の沈んだ空を見上げた。


「俺は、アイツの隣に立っていたつもりだった」

「八咲さんとは、中学の部活で知り合ったのですか?」

「そっす。ちいせぇ体のクセして、めちゃくちゃ強ぇ剣を振るじゃないっすか。最初はいけすかないヤツだと思ってたんですよ。少ししか稽古しないのに、勝てないから」


 霧崎が目を閉じ、八咲と出会った当時の思い出を振り返る。


「初めて一本取った時は嬉しかったっすよ。その時に調子乗りすぎて沙耶に脛蹴られちまったんですけど」


 霧崎がかつて沙耶に蹴られた脛を撫でる。


「分かんねぇなぁ。俺だったら、どこまででも沙耶を導いてやれるのに。何が足りなかったんだろうな。ケガにだって負けず、打ち克って、ここまで来たのにさ。絶望なんかしねぇって言った時に……そうだ、その時沙耶に言われたんだ。『君は眩しいな』って」


 黒神は言った。霧崎は太陽だと。

 八咲にも告げられたその言葉こそが、彼の本質を指し示す言葉だった。


 故に、彼は分からない。闇を拭う存在である自分が、希望の光であるはずの自分が、どうして絶望と戦い続けた彼女にとって救いとならなかったのかが。自分は誰よりも八咲の傍にいて、誰よりも彼女のことを分かっていたはずなのに。


「俺は──」


 剣司に、負けた。

 そう決定的な一言を漏らそうとした、瞬間。


「あなたたち二人の『夢』は、戦わずして終わるのですか?」


 黒神が、丸まった彼の背にそう語りかけた。


「全ては、あなたたちの『夢』から始まったのです。そこに八咲さんが加わり、ここまできているのです。ならば、あなたたち二人の決着によって、初めてケジメが着くと思いませんか?」

「いや、でも、俺はもう」

「男の子でしょう。そこは意地を張って良いと思いますよ」


 意地。霧崎は目を見開いて言葉を反芻する。


「好きなのでしょう? 八咲さんのことが。あなたも」


 霧崎の時間が停まった。彼の頬を、初夏にしては冷たい風が撫でていった。


「私は弟子として剣司君を愛しています。が、時間の長さは違えど、あなたのことも大事に指導してきたのは事実です。あなたたち二人がヒノキの舞台で剣を競い合うのを……私もまた、夢見ていたのですよ」


 霧崎の拳が、いつの間にか握られていた。


「剣司君は、八咲さんを『理解』することで魂に触れようとしています。それは彼にしかできず、あなたにはできないことです」


 だけど、と黒神は言葉を続けた。


「彼にはできず、あなたにしかできないこともまた、あるはずなのです」

「俺にしか、できないこと」

「はい。あなたの場合は、もう既に答えを得ていますけどね。後はそれを、どこまで貫くことができるか。彼女の闇を全て祓うほどに、強く、強く、輝けるかです」


 黒神が背を向ける。この物語の最終幕の舞台に上がるべき、もう一人の主役の背を押して。自分の役目は終わったと言わんばかりに。


「ここから先は、あなたたちだけの物語です。悔いのないよう、紡ぎなさい」


 満月の照らす庭にただ一人佇む霧崎は、拳を握ったまま黒神の去った縁側を見つめていた。


「俺は……」



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