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三十本目:抱きしめて

 一時間ほど歩き、時刻がちょうど二十一時を回ろうとしていた時、ふとその場所は僕の目の前に現れた。寂れた道場だった。


 こんな街の外れのところに、道場があったのか。とは言っても、看板も出ていない。使われた形跡もほとんど見当たらない。八咲は何故、こんな場所を指定したのか。その答えは、きっと中にいる彼女が教えてくれるはずだ。


 心を落ち着かせるために、深呼吸を一つ入れる。そして敷地に足を踏み入れた。

 瞬間、伝わってくる覇気。


「ッ」


 刺すような威圧感に肌が粟立つ。間違いなく彼女はここにいる。

 こちらに来い、とまるで案内するかのようだ。


「ああ、行くよ。君を独りにはしない」


 覚悟を改めて、僕はその戸に手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。いや、錠前はまだ新しい。紛失しているわけではなさそうだ。どうやら、この道場の鍵は八咲が保有しているらしい。


 道場の入り口を開けて、靴箱らしきものが現れる。これが玄関だろう。足袋を脱ぐ。そして気づく。同じように小さな足袋がそこにあるのを。ギシ、と僅かに床板が軋んだ。やはり古いのだろう。足で触った感じ、建てられてから五十年は経過しているだろうか。


「やぁ、私の密会デートの誘いに応じてくれて、嬉しいよ達桐。良い夜だな」


 道場へはまだ扉が一枚ある。だが、八咲は先ほどの軋みで、僕が今にも戸を開けようとしているのが予感できたのだろう。


「ああ。本当に、良い夜だな。二人で逢うにはもってこいだ」


 言葉を返し、戸を開け放つ。視界に飛び込んできたのは、道場の四隅に置かれた蝋燭らしき明かり。外からも見て分かっていたが、道場自体はさほど大きくはない。ちょうど、剣道の試合場が一つと、僅かな控え場所、と言ったところだ。


 足元に白線が貼られている。試合場と同じ大きさだとすぐに分かるが、テープではないことに気づいた。ペンキだ。道場に直接描かれている。


 この道場は、剣道をするためだけの道場なのだ。


 蝋燭の明かりが照らす中、八咲 沙耶は正座で僕を待っていた。彼女の背後には、神棚と木刀が飾られている。


 立派な道場だ。かなり古いが、歴史の重厚さと荘厳さが滲み出ている。中心にいる彼女の姿は純白の道着と袴──まるで死に装束だ。


 しかし、悍ましさを感じるほどの病的な白さに、思わず見惚れてしまった。

 嗚呼、なんて美しい。


「やぁ、素敵な道場だね。こんなところがあるなんて知らなかったよ」

「ありがとう。しかし、遠いところをわざわざすまなかったな。どうしても、此処が良かった」

「君の道場なのか?」

「いや違う。ここは私の曽祖父から所有している道場だ」


 なるほど。だから古びていて、使われていない様子だったんだ。


「年頃の男女なら、もっと洒落た場所に誘うべきだったんだろうが、私はこんな誘い方しか知らんのだ。風情がないと言ってくれるなよ。これでも、恥じらってはいるんだからな」


 そう言う彼女は、うっすらと笑顔を浮かべる。

 しかし、その笑顔すらも命を削っているのだと考えると、胸が痛む。


「別に構わないさ。っていうか僕も、君とデートするなら遊園地とかよりもこういう感じの方がしっくりくるし、よっぽど楽だよ」

「ふふ、そうかそうか。それは本当に嬉しいぞ」


 鈴を転がしたように笑う。

 その笑顔は、今まで見てきた八咲の笑顔そのままだった。きっと、八咲は、ずっとこうやって笑ってきたんだろう。苦しみを堪えて、辛さを押し殺して、痛みを我慢して。


 八咲の笑顔は、綺麗だ。だが、綺麗すぎるのだ。まるで作り物染みていて、不気味なほどに。


「……私はもうじき死ぬ」


 八咲が唐突に口を開いた。死という単語を聞いた瞬間、心臓がどくりと跳ねた。

 どこからか風が入っているのか、蝋燭の灯が僅かに揺れて、彼女の顔の影を弄ぶ。


「寿命を一年と言われた時から、好きに生きると決めた。桜先生とは相当揉めたよ。あの人もあの人で、私のことを慮ってくれていたというのは伝わっていた。しかし、私のしたいようにして、私の望む最期を迎えようと決めていた。だから譲れなかった」


 目を細め、慈しむような表情で僕を見る。これまでの思い出に心を馳せているのだ。


「ここが私の終着点だ。私という剣はここで生まれ、ここで折れる。悔いはない。素晴らしい人生だった。君や刀哉というかけがえのない存在にも出会えたしな」


 その最期の相手が、僕。八咲 沙耶という魂に剣を宿す鞘が指名した相手が、僕。


「君は、まるで昔の私を見ているようだった。病気に対して受け入れることができず、荒んでいた過去の私と。孤独に戦っていた、という点もな」


 その独白を聞いてハッとした。そうだ。八咲といえども、最初から今のように悟っていたワケではない。僕と同じように、事実を受け入れらず、塞ぎ込んでいた時代があったのか。


「だからかねぇ。挫折から立ち直った、という意味では君と刀哉は同じなのだが、どうしても君が特別可愛く見えてしまった。今更だが、最初は無理に勧誘してすまなかったよ。君はこのままではいけないと強く思っていたからこそ、余計なお世話を──」


「いいんだ。分かってる。謝らないでくれ」


 君の心はちゃんと伝わっていたから。


「八咲、僕は君に、してもし足りないほど、感謝している」


 光栄だ。男としてこれ以上の喜びはないだろう。


「だから、今この場で何をすべきか、分かってる」


 荷物を置く。八咲から目を離さずに竹刀を抜く。


「君は僕を立ち直らせようと、全力でぶつかってくれた」


 誰よりも。世界中の誰よりも、優しい人。そんな存在が、独りで消えようとしている。

 許してたまるか。そんなことは絶対にさせない。


「ありがとう──八咲」


 なら、僕には何ができる? 彼女のために、僕ができることとは?

 答えは先生と共に、見つけた。


 奇跡を信じて。諦めないで。助かるよ。絶対死なない。なんて甘露。あまりにも甘すぎて反吐が出る。そんな奇跡を信じることなど、何百万とやってきているはずなのだ。それでも奇跡は一度たりとも起きやしなかった。起きてくれやしなかった。


 故に八咲は覚悟を固めた。なら、その覚悟を穢すような言葉は、絶対に言わない。言ってはいけない。だから、涙なんて流れるな。絶対に、流すな。


「だから、僕は君の剣になる」


 僕よ、剣になれ。彼女の魂の奥深くに宿る鞘へ還るために。鞘と剣を、一つにするために。

 孤独では死なせない。絶対に、死なせない。


 八咲には散々カッコ悪いところを見せてきた。今更恥ずかしがるようなことはない。だから思う存分カッコつけてやる。僕を選んでよかったと言わせてやる、絶対に。淑女の方から誘われたのだ。男ならここで意地を張らずにどこで張るというのか。


 だから、やめろ。泣くな。出るな涙。八咲は泣いていないんだ。なら僕だって泣くな。

 その安っぽい同情が、彼女の覚悟を傷つけるって分かってんだろ。


 滲む視界。ぼやけて彼女の姿が正しく映らなくなる。

 それでも。


「達桐……ああ、達桐、君は」


 八咲が目を見開く。まるで宝物を見つけた子どものようにキラキラと輝かせながら。

 自分の身を掻くように抱き、顔を伏せる。そして、髪を振り上げるように勢いよく顔を上げた。そこに映っていた表情は、今までで見たことがないほどの凄惨な嗤い笑みで。


 されど、今まで見た中で、最も美しいと断言できる笑顔だった。





「私を、抱きしめてくれるのか」





 私は今、世界で一番幸せだ。そう言って魂の底から歓喜に奮える八咲。


「やはり、君がいい。君を選んでよかった。刀哉は眩しすぎるから。強すぎるから。私と同じように絶望し、魂に翳りがある君だからこそ……」


 やがて、八咲は言葉を漏らしながら立ち上がる。そのまま後ろへと歩いて行き、壁に飾られてる木刀へ手を伸ばす。黒檀と白樫の二本。


「私の孤独を、きっと抱きしめてくれると信じている」


 嗚呼、と僕は全てを察した。八咲、君はそうすることしかできないんだな。


「剣を執ってはくれまいか、剣司」


 僕は君に想いを告げた。

 されど、君はこういう形でしか、僕の想いに応えることができないんだね。


「勝負をしよう。まさか、断りなどしないよな?」


 僕と真剣じみた勝負をすることで、


「最期なんだ。情緒たっぷりに舞おうじゃないか。どうか付き合ってくれ、頼むよ」


 僕と魂を交えようとしているんだ。


「……分かった」


 それは名誉だ。男として、冥利に尽きることこの上ない。

 愛する人からの最高の返事を……全霊で受け止めろ。


「やろう──沙耶。絶対に忘れられない、最高の夜にしてやるよ」

「ああ。君に処女最期を捧げるのならば──本望だ」


 そして僕は、彼女にとっての剣になる。

 目の前にいる想い人に、最期にして最高の悦びを与えるために。


 その先には、避けられない運命が待っていようと。

 今この時だけは、未練も何も残さないように。



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