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二十八本目:私に太陽は似合わない

 メッセージを送り、スマホを消す。心臓がうるさい。極度の緊張で唇が震えていた。


 私は漂白された部屋のベッドから降り、窓際で夜空を見上げる。良い夜だ。欠けた部分を持たない、黄金色に輝く月も、浮世絵のように月に掛かる灰の雲も、切り取って目に焼き付けたいくらいだった。


 人生の最期の夜に見上げる空としては、趣があって大変よろしい。

 真っ暗の画面のスマホを見つめ、長く息を吐く。未だに激しい鼓動を立てる心臓を、病衣ごと握り締める。気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうだ。


「ごめん、刀哉」


 どの口が言うのか。とてもじゃないが、彼に面と向かって言えるワケがない。

 送った。決定的な言葉を。もう取り返しはつかない。


 これが私の選択。私が選んだのは、絶望を抱えた剣。

 私は、刀哉を選ばなかった。分かっていたから。彼は眩しすぎて、辛くなるだけだから。

 スマホを握る手に、力が入った。もう振り返るな。私は下した。結論を、下したのだ。


「私に太陽は似合わない」


 選んだのは、達桐だった。刀哉ではなく、達桐だった。


「私は、絶望を拭ってほしいんじゃない」

 だから、刀哉を選ばなかった。達桐を選んだ。

 目を閉じて、心の中で呟く。


 私に、太陽は似合わないのだ。





 ──刀哉と出会ったのは、中学に入ってからだった。彼は一年生なのに上級生にも負けない体格を持っており、期待の新入生として注目を集めていた。


 しかし、蓋を開けてみれば手に負えない問題児だった。よく言えば腕白。悪く言えば乱暴、粗暴、そして乱雑。自己中心的な思考が目立ち、それでも己を貫くことのできる強さを兼ね備えているのだからタチが悪い。


 半年くらいだっただろうか。刀哉が当時の部長を含めた上級生を全員倒してしまった。手が付けられないとなって顧問も困り果てていたところだった。


 比較的体の調子の良い日を選んで部活に行ったところで……刀哉にバカにされた。チビだの貧相だの、よくもまぁ乙女に対してそんな品のない言葉が吐けるものだと、むしろ感心してしまったのを覚えている。


 だから脳天を割ってやった。


 床に倒れ伏せる彼を見下ろすのは爽快だった。普段見下ろされているものだから、物珍しさも相まって楽しくなったなそういえば。たまにはこんな気分を味わうのも悪くない。幸い、血の気の多い性格をしている。剣筋も悪くない。この男を稽古相手にすればさぞ楽しいだろう。


 最初はそんなことを思っていた。チビで貧相な私に負けたのがよっぽど悔しかったのか、刀哉はことあるごとに私に勝負を吹っ掛けてきた。体調もあってなかなか相手できなかったかもしれないが、私に敗れて以降、どうやら部活では大人しくなっていたらしい。


 なんだ、一回負けて牙が抜けたか──と思いきや。私と稽古をする日々を重ねるごとに、刀哉の剣筋が目に見えて分かるほどに鋭くなっていった。


 刀哉は牙が抜けたのではない、より内側に秘めて、ひたすらに磨いていたのだ。


 それに、何度敗れても、打ちのめされても、私に挑んでくる気概──何なのだ、と疑問に似た興味を持ったのを覚えている。そうだ、冬。息が白くなる頃の話だ。私と刀哉の稽古は部活内でもどうやら異質なものとして扱われていたことが嫌でも分かった。こう、同じ道場でも見えない壁があるような。だから、余計な要素などなく、私達は剣を通じて対話していた。


 何度か聞いたことがある。どうして私にそんな挑むのか。彼は答えた。強くなるため。


 強くなってどうしたいのか。私は問うた。しかし、彼は答えなかった。そんな日々が何度か続いたある日だった。ちょうど、私と刀哉の勝負が百と八回目になった日。


 脳天を割られたのは、私だった。


 切り離された世界で、私と刀哉しかいない世界で、彼は初めて、私から勝利を掴み取った。

 部員たちはその瞬間を誰一人として見ていなかった。孤独の勝利。見届けたのは、私一人。そんな中でも、彼はひたすらに歓喜の声を上げ、勝利の余韻に浸っていた。


 しばらく好きにさせようと放っておいたが、いい加減鬱陶しくなってきて脛を蹴った。

 一通り揉めた後──私は問うた。何度も繰り返した質問を。


『君は、なぜ剣を振るう? 私に挑む? どうして強くなろうとする?』


 彼は汗に塗れた顔で雄々しく笑い、


『約束があんだよ。全国懸けて戦おうって約束が。最ッ高の勝負をするんだっていう、夢が』


 瞬間、ストン、と。全てに納得がいったような気がした。

 この男は、ただただ純粋な心で剣を振っていただけだった。無邪気に、穢れなく、乱暴で粗暴だったのも、剣と夢以外に見向きをする余裕が全くなかったから。


『そうか……ならば、その約束を交わした男も入れて、三人で稽古できたら楽しそうだな』

『お! それいいな! ソイツ達桐 剣司、ってんだけど、俺と同じくらい強いからさ、絶対沙耶も気に入ると思うぜ!』


 達桐 剣司。それが、刀哉の約束の相手。彼に似て眩しい剣士なのだろう。


 いっしょに稽古ができたら、きっと楽しいに違いない。間違いなく楽しい。負けたというのに、清々しい気持ちで息を吸うことができた。病に侵された体が、気持ちの良い空気で僅かに浄化されたような気がした。


 いつの間にか、刀哉との稽古が私の中で救いになっていた。





『八咲 沙耶さん……大変申し上げにくいのですが、もう余命は一年もないでしょう』





 そんな時だった。私はかかりつけの医者から、無慈悲に宣告された。

 だが、判決を言い渡されても、私の心は思っている以上に凪いでいた。ついにこの時が来てしまったのだと、来るべき時が来ただけだと、自分でも分かっていたから……。


 いいや、嘘だった。医者と何を話したかは覚えていない、ただ意地になって家に帰り、ベッドに倒れ込んだ。そうして世界の殻に閉じこもり──誰もいない世界で、孤独に、哭いた。


 そんな時だった。スマホが鳴った。目を向ければ、刀哉からのメッセージだった。


 刀哉。そうだ。刀哉がいる。私には刀哉がいる。私には、絶望という闇から救い出してくれる太陽がいる。喘ぎながら、震えながら、スマホに手を伸ばす。そして、刀哉に縋ろうとメッセージを開く。先に送られてきた刀哉のメッセージが目に入る。


『大会まであと一週間! 稽古頼むぜ、沙耶』

『──』


 心臓が喚くような鼓動を立てた。ダメだ。刀哉は大会に向けて集中しているのだ。そんな彼に心臓のことを伝えてみろ。彼の心を乱すだけだ。邪魔はできない。してはいけない。彼は光だ、希望だ。私の抱える闇が、彼の輝きを妨げてはならないのだ。


 刀哉が、最高の状態で達桐と夢の舞台で相まみえるのを──邪魔してはいけない。


『すまない、刀哉。少々体調がすぐれなくてな。医者から稽古の禁止を命じられた。大会の日は必ず行く。なぁに、君ならあと一週間、私と稽古しなくても大丈夫さ』


 違う。助けて。助けて刀哉。嫌だよ。苦しい、辛いよ。

 それでも、彼に縋ることは許されないから。


『あー、そうか。分かった。無理すんなよ。必要なものがあれば持ってくから。今まで沙耶が稽古つけてくれたから、自信もって大会に挑めるよ。ありがとうな』


 優しい。そうだ。彼は粗暴で野蛮だけど、結局それは表面的なものでしかなくて、彼の本質ではない。彼は温かくて、眩しくて、心がポカポカとする。それが霧崎 刀哉という光だから。


『うぅう……ぅうううううううう……ッ』


 歯を食いしばっても、隙間から嗚咽が漏れる。ダメだ。折れるな。この苦しさを、闇を、彼にぶつけることだけは許されない。震える手で、何度も間違えながら文字を打つ。


『ありがとう、大丈夫だ。私も、君と稽古できて幸せだったよ』


 幸せだった。本当に。彼との稽古は、心の底から幸せだった。

 私でも、と淡い幻想を抱かせてくれた。夢を見させてくれた。


 本当に、ありがとう。


 メッセージを送った直後に電源を切る。光を失った液晶に、ぐしゃぐしゃになった私の貌が映った。だけど、すぐに滲んで──。


『あああああああああああ、あああああああああああああああああああ……』


 感情が決壊した。壊れた蛇口のように涙が溢れ出す。


 泣いて、泣いて、泣き叫んで、部屋中の物に当たり散らした。何もかもを壊したかった。髪を引き千切った。頬に爪を立てた。どうして、どうして私が。なんで私が。理不尽。不条理、無慈悲、掛け値なしの絶望。絶望絶望絶望。


 誰もかれもが生まれた瞬間に死へ向かっているのは分かる。私は死を呪っているのではない。私は──どうしてこうも早く、その時を突き付けられなければならないのか。その理不尽に慟哭していた。


 こんな絶望を、誰が分かってくれる? 誰が、このガラスに覆われた世界から魂を引き出してくれる? 誰もいやしない。私の絶望は、私にしか分からない。誰も、誰も理解してくれない。分かってくれない。受け入れてくれやしない。


 抱きしめてくれるワケが──ない。


 ……何日、そうしていただろう。結局世界は壊れなかった。誰も壊してはくれなかった。窓ガラスを砕いてまで、心を救いに来てくれる人は終ぞいなかった。


 私が時の流れを再認識したその日は、刀哉の個人戦の日だった。

 行かねば。せめて、刀哉が優勝するところだけは、見届けねば。

 そう自分に鞭を打ち、足取りもままならぬ中、刀哉の雄姿を見に行き──、





 そして、あの事故が起きた。





 血で汚れる刀哉の体を抱きながら、達桐が慟哭する。その声は生涯忘れることができない。

 絶望。掛け値なしの絶望。


 刀哉も達桐も、絶望の渦中にいた。

 その姿を見て──私は己の使命を自覚した。


 絶望を理解し、救い、未来へ歩むために背中を押せ、と。

 三人での稽古という夢。私の最期。そして、絶望の理解者。


 私たち三人で稽古ができたら、きっと……。


 全てが一点で重なった。私の命の使いどころはここだった。だから、彼らの絶望を受け入れたい。そして、私の絶望と分かち合いたい。そうすれば、刀哉と私は。


 そこまで考えて気付いた。私は、刀哉にどういった感情を抱いている?


 彼は眩しい。太陽のようだ。ずっとそう思っていた。あくなき向上心を持ち、ただ前へ、前へ。達桐との約束を果たすために、彼は前へ進み続けた。


 ……絶望に打ちのめされている私とは、えらい違いだ。

 だからだろう。彼のような光と共にあれば、きっと、絶望を超克することができるかもしれない。そんな思いがあったから──彼に、私は。


 ああ、そうか。

 私は霧崎 刀哉に憧れているのか。


 前に向かって進み続ける、絶望に決して屈せず、挑み続ける強さを持つこの男に、私はいつの間にか憧れていたらしい。私の剣は君であってほしい。太陽の如き魂を持つ君が、私を導いてくれたらどれだけいいか。


 私の内に宿る絶望を拭いきれなくていい。照らしてくれればそれでいい。死へ続く道だとしても、君が照らしてくれたら、きっと怖くはないだろうから。


 だから、刀哉、大丈夫。君の絶望を抱き締める。包み込む。理解できる。

 私は──君に、私の剣になってほしい。

 そんな思いで、手術を終えた刀哉の病室に駆け込み、





『沙耶、俺は絶望なんかしねぇ。こんなケガ、屁でもねぇ。

何度でも立ち上がって、俺は絶対に剣司との約束を果たすんだ』


 彼は、たった独りで自分の絶望を焼き尽くしていた。

 そうして、私に彼は、太陽は、似合わないと悟った。





 彼は眩しい。病的なほどに。彼に触れれば浄化されてしまうと錯覚するほどに。

 私という絶望を微塵も許さないような輝きに、目を焼かれるかと思った。


 憧れは畏れに変わった。心が入れ替わった。白と黒が反転したみたいだった。刀哉を傍に置くことが怖くなった。絶望に打ちひしがれている自分があまりにも惨めだと思ってしまいそうで。辛い。彼の輝きを浴びる度に、私は私を否定されているような気がしてしまう。


 彼がそんなことを思うはずも、言うはずもないと分かっている。でもダメだ。心根が闇に染まり切っている私には、刀哉の輝きは受け入れられない。


 刀哉が悪いのではない。耐えられない私が、弱いのだ。

 その瞬間だった。私は私の魂が求めているものを理解した。


 私は正論がほしいのではない。正しさを求めているのではない。

 絶望を焼き尽くしてほしいのでは、ない。


 私が求めているのは──。


『そうか……眩しいな、君は』





 ──目を開ける。夜空が滲む。零れる涙で視界が水面のように揺れていた。

 ごめん。ごめん刀哉。君は悪くない。君は正しい。病的なほどに、君は正しい。


 正しすぎるから、私は君を選ばなかった。

 一度選ばないと決めたのなら、罪悪感を覚えるのもおかしいのだけれど。でも、そこはもう人としての心だ。長く共にいた君にも、少なからず想う心はある。


 それでも、最期なのだ。私は自分の魂に従いたい。

 正しさも道理も倫理も常識もいらない。私は、ただ。


「ごめん、刀哉。ごめんなさい……弱くて醜い私で、ごめんなさい……」


 私は君が怖いんだ。

 強すぎて、怖いんだ。とても傍にいられない。

 君も私を悪しからず思ってくれているのは分かっている。大事にしてくれているのも分かっている。でも、私が君に相応しくない。私には、君の輝きを受け入れる権利なんてない。


 間違っているのは私だ。おかしいのは私だ。

 だけど、どれだけ私が間違っていても、私が求めているのは──絶望の理解者だ。


 避けられない運命を否定するのではなく、共に涙して、受け入れ、理解し、抱きしめてくれる存在だ。私は、そんな存在を求めて彷徨っていた。


 だから達桐を選んだ。刀哉ではなく、達桐を選んだのだ。


 達桐も自分の内に宿った絶望に打ち克ったが、過程が違う。彼は苦しみ、もがき、諦め、それでもなお向き合い、乗り越えた。


 しかし、刀哉は自分の内に宿る絶望を前に、折れることなど一度もなかったのだ──。





 彼は最強であり続けた。

 彼は無敵であり続けた。

 彼はどこまでも輝いていた。

 天高く煌めく太陽のように。

 眩しかった。直視できないほどに。

 だから。





 刀哉、私はね。

 太陽は、似合わないの。






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